第2話 運命の出会い
父親が死んでからしばらくは親戚に預けられていた。
親戚の家では同じくらいの男の子がいて、預けられた頃は仲が良かったのだが、次第にギクシャクしていた。
何か、いつも話しかけてくれようとしているのだが、声を掛けるところまでは行かない。正則も相手が、
「預けられた家の子供」
という絶対的な優劣を感じることで、自分から話しかけることはなかった。
頭の中では、
――皆、平等なんだ――
と思ってみても、そんなことありえるわけはない。
「友達と仲良くするには、相手の気持ちにどこまでなりきれるかということかも知れないね」
と、学校の先生は言っていたけれど、絶対的な立場の違いを感じている二人の間に存在する溝は、相手の気持ちになれるような環境を与えてくれるはずもなかった。最初から、優劣は決まっていたのである。
そんな優劣を少しでも払拭しよういう意識は、相手が持てるはずはなかった。
もし、立場が優越の相手が気を遣ったとすると、それは押し付けになってしまう。逆に劣等の立場の人間が気を遣うのは、それこそ立場をわきまえないおこがましさに繋がるだろう。
つまりは、歩み寄りは二人の間では難しいのだ。
しかし、最終的には二人の間の問題だった。
最初はお互いに意識していなかったのでうまく行っていたのだろうが、どちらかが少しでも優劣について意識してしまうと、歩み寄りは不可能になってしまう。その原因は、相手側にあった。
彼は自分の両親の話を聞いてしまったのだ。
元々両親があまり仲が良くないことを不安に感じていたこともあって、両親の一挙手一同をずっと気にしていた。ある日、深夜、皆寝静まったはずのリビングから、両親の会話が聞こえてきた。
皆の寝室は二階にあり、トイレも二階に配備されているので、夜トイレに起きてきたとしても、一階に降りてくることはない。リビングは一階にあり、扉を閉めていれば少々の声であれば二階に聞こえるはずがない。その時彼の耳に両親の声が聞こえてきたのは、それだけ二人が興奮した会話をしていたということであり、しかも、一度その声に気づいてしまうと、両親のことには過敏になってしまう彼にとっては、黙って済ますことのできないことになってしまった。
彼は恐る恐る階段を下りて、両親の会話に耳を澄ませていた。
「いつまでこんなことを続けるの?」
母親の声だった。
「しょうがないだろう。お前が同じ立場だったら、どうするんだ?」
「何よ。あなたがしっかりしていないから、お兄さんたちの言いなりになって、余計なものを抱え込んだんじゃないの」
「余計なものとは何だよ。少なくとも一人の少年なんだぞ。俺の兄貴の忘れ形見じゃないか」
「そうね、あなたにとっては甥っ子ですもんね。でも、私は血が繋がっているわけじゃないのよ。他人なの」
「そんな言い方するなよ」
「だって、本当の子供だけでも大変なのに、どうして他人まで抱え込まなければいけないの? 第一、私は他人と思う子に、どう接すればいいのよ。特にこれから受験だったり、いろいろなデリケートな問題が出てくるのよ。もし、他人の子が受験に合格して、自分の子供が不合格なら、どんな顔をすればいいっていうの? あなたは、そういうことが何も分かっていないのよ。目の前に見えていることだけを表に立って解決し、その善後策はすべて私に押し付けなのよ。私だって人道的なことは分かるわよ。でもね。現実に目を向けると、大きな問題は山積みなの。あなたはそんな問題すべてに目を瞑って、私に押し付けているだけなの」
父親は、何も言えなくなった。
ここで何かを言い返せば、何を言ってもすべてが言い訳でしかない。
確かに彼としても、自分が思春期で、自分でもどうにもならないような感情が芽生えてきていることを感じていた。そんな環境の中、最初から正則がいたことで、あまり気にしていなかったが、自分の母親を苦しめていることに気が付かなかった。
母親のいうことはもっともだった。父親が言い返すことができないのも当然である。だが、男として父親の立場も分からなくはなかった。しかし、どうなるものでもない。
自分から母親に何か助言できるはずもなく、当事者でありながら、何もできない自分が情けなく感じられるほどだった。
彼は基本的には優しい性格である。優しい性格でなければ、いくらおじさんが亡くなったから仕方がないとはいえ、自分の家に急に一人の同年代の男の子が一緒に住むようになったのだ。動揺があったのはウソではない。
それに、少しでも「優しい」という言葉で言い表すことができるような性格でなければ、最初から正則に対して優越感を持っても不思議はなかった。
――ここは俺の家なんだ。お前は居候なんだ――
という思いが芽生えても無理もないことだろう。
思春期の男の子というのは、そういう優越感を心のどこかで持ちたいと思っている。まわりの同年代の連中を見ていると、それまで感じたことのない優越が見えてくるようになる。小学生の頃でもいじめっ子だったり、いじめられっ子だったりという関係はあった。しかし、それは今見えている優越とは違ったものだった。
小学生の頃は表から見える部分がそのままで、今見えているものは、見ようと思わなければ見ることのできないもののようで、奥深く入り込んでも、さらに奥が見えてきて、途中で引き返そうと考えるに違いないものだった。優越に巻き込まれると、抜けることのできない底なし沼に入り込んでしまいそうで恐ろしかった。
彼は、正則に対して今まで感じたことのない優越感を感じた。感じなければ、母親に申し訳ないという思いがあったからだ。どうしてそう感じたのかというと、母親が口にしていた、
「他人」
という言葉が引っかかっていたのだ。
当たり前のことなのに、そのことを意識したことはなかった。
――いや、意識したことがなかったわけではなく、意識してはいけないんだと思っていた――
と感じた。
学校では、正則との会話はまったくなくなり、家でも会話をしなくなった。
食事は最初の頃こそ、家族全員でしていたが、勉強が忙しくなるという話を彼が親にしたことで、
「じゃあ、用意だけしておくので、自分の時間で食べていいからね」
と言ってくれたことで、子供二人とも、それぞれの部屋で摂るようになった。
このことが、この家の個人主義を目覚めさせてしまった。
父親も帰りが遅く、母親もパートが終わって、食事の用意をしてから、出かけることが多くなった。家族が揃うということすらなくなってしまったのだ。
彼が食事をバラバラにするように進言したのは、両親の深夜の会話を聞いたからだった。その会話を聞いた彼の出した結論は、
「全員、それぞれ一旦孤立すればいいんだ」
というものだった。
誰かが誰かに気を遣うのが問題だったら、気を遣わないように皆孤立主義になればいいんだというものである。
子供二人は別に寂しいという思いはなかった。
父親は、普段から母親からの責め苦に苛まれていて、やっと解放されたという思いからか、
「これまでできなかったことを楽しもう」
と思うようになった。
さらに、
「今までの責め苦を堪えてきた自分に、何かご褒美があってもいいじゃないか?」
と思うようになると、不思議なもので、まわりの女の子の視線が気になるようになってきた。
実際に父親は若く見えた。会社では係長という立場だったが、もう少しで課長昇進の話も出てくるだろう。
やり手でありながら、会社では部下の面倒見もいい。家で責め苦を感じている分、会社では、
「家にいるよりマシだ」
と思っていたからだろう。
それでも、家庭持ちという性なのか、面倒見はいいが、どうしても内向的な性格ではあった。だが、今回家庭が孤立主義になったおかげで、会社で気持ちの面でも、開放的になった。会社の女の子がそんな父親を放っておくことはなかった。
「係長、今度一緒に呑みに行きませんか?」
部下の女の子たちが、誘ってくれた。
今までにも何度か誘ってくれたことがあったが、
「ごめん、今日はちょっと」
と言って、いつも断っていた。
家では皆揃っての夕食という行事を決めたのは、父親本人だったのだ。どうしても会社行事として遅くなったり、接待などの仕事であれば仕方のないことだが、それ以外はなるべく早く帰らなければいけなかったのだ。
もし、
「一回くらいならいいか」
という妥協で女の子たちと一緒に呑みにいけば、抑えが利かなくなるのではないかという思いもあった。頻繁な誘いを断ることができなくなるのではないかという思いもあったが、それよりも、自分自身が断って後悔してしまうことが怖かったのだ。
断ってまで家に帰るという思い、それは一人自分だけが取り残された思い、しかも、それは自分が蒔いた種である。次第にその思いが屈辱感に変わってしまうことも怖かったのだ。
孤立主義を家庭から持ち掛けられたことは、父親にとっては渡りに船。羽目を外すという言葉を通り越して、それまでの苦しみから一気に解放されたような気持ちになり、
「今の俺は、なんだってできるんだ」
という錯覚にも陥っていた。
案の定、一度誘われて皆と一緒に呑むと、本当に楽しかった。
「係長って本当に素敵だわ」
酔ったふりをしてしな垂れてくる女の子もいる。
もちろん、酔いに任せてのことだと計算された行動だということは分かっていても、悪い気はしなかった。
「今の俺なら、不倫したって、悪いことをしているという気にはならない」
家に帰れば、母親が口にした「他人」がいるわけで、そのことで無言の圧力を毎日感じなければいけないプレッシャーは疲れるばかりだった。
父親はその日、一人の女の子を「お持ち帰り」した。
いや、正確には、
「お持ち帰られた」
というべきであろうか。
「係長が私を選んでくれるなんて、光栄だわ」
父親にとって、選んだというのは、その日だったわけではない。実際に、前から気になっていた女の子だったのだ。
会社では大人しい女の子で、目立つことはないのだが、時々彼女の視線を感じていた。ドキッとして視線の方を振り返ると彼女がいた。最初はその視線の先が彼女だとは分からなかった。それだけ目立つことのない女の子だったのだ。しかし、何度も視線を感じて、その都度その先にいるのが彼女だったことで、さすがに父親も彼女がその視線の相手だと思わないわけにはいかなかった。
試しにこちらからも視線を返してみた。
見つめ合っているはずなのに、彼女の反応はまったくない。瞬き一つせずにこちらを見ている。
――目を逸らせばきっと、あの視線を感じるんだろうな――
と思ったが、目を逸らすことができなかった。金縛りに遭ったかのようである。
その時に、
――視線の相手は、やっぱり彼女だったんだ――
と感じた。
――このまま目線を逸らすことができなければどうなるんだろう?
と思った瞬間、彼女は視線を切ってくれたおかげで、金縛りから解放された。目を逸らすことができたわけだが、さっきまで感じていた思いがどんなものだったのか、感覚的なことを思い出すことができなかった。
――たった今のことなのに――
それから父親は、急に感覚的なことを少しの間で忘れてしまうようになっていた。そんなことがあってから、家では孤立主義を息子に進言されたのである。
――ちょうどよかったんじゃないかな?
父親は、それが何を意味するのか分からなかったが、会社で自分の感覚が少しずつ変わってきていることに気づいていただけに、家でも何かの変化があることは願ったりかなったりだった。
――お持ち帰えられるなんて恥ずかしいことなのかも知れないが……
と感じていたが、
――成り行きに任せるのもいいかも?
と、解放された気分を満喫していいと思っている今の気持ちを大切にしていたいと思うようになっていた。
母親の態度が変わってきたのは、ちょうどその頃からだった。子供たちには詳しいことは分からなかったが、急に子供たちに対しても母親は上から目線になっていた。
その時の母親の気持ちは、
「私が何をしたっていうの?」
という思いなのか、
「そっちがその気なら……」
という思いなのか分からなかった。
しかし、母親が明らかに変わったことは間違いなく、出かける時も化粧に余念がなかったり、帰ってきた時は、香水の香りがプンプンして、近づけないほどだった。
上から目線は、父親に対してが一番強かった。母親の性格からして、自分が高圧的にしている時は強い立場に立てるが、少しでも臆してしまうと、何も言えなくなってしまう。極端ではあるが、それだけまわりに負けないようにしようという負けん気が強いようだった。
家庭は完全に崩壊してしまった。その原因を作ったのは、正則だったのだが、正則に何ができるというのだろう。自分のことですらどうにもならない状態なのに、まわりを気にする余裕などあるはずもない。却って、そんな余裕を見せれば、当事者にとっての癇に障ることになるに違いない。
正則はしばらく引きこもりのようになってしまった。絵を描くこともやめてしまって、ただ自分の運命を呪うだけ、
「どうして、俺を残して死んじゃったんだ」
と言いたいくらいだったが、時間が経って落ち着いてくると、自分よりも、彼の方が可愛そうに感じられた。
正則の場合は、親が死んでしまっているのでどうしようもないが、おじさんおばさんの場合は、生きている。何とかしようと思えば、絶対に何もできないわけではないはずなのに、子供の自分一人が頑張っても、何ができるというのか。
下手に身内が声を掛けると意地になってしまうこともある。火に油を注いでしまっては、どうしようもないだろう。
そんな時、正則に対して助け船があった。
最初に正則を誰が引き取るかということで揉めた時、長男夫婦が頑なに拒んでいたが、長男夫婦の長男が、大学に合格した。
大学は、正則たちの住んでいる街だったのだが、
「正則君と一緒に住むというのはどうだ?」
という長男の一言があった。
一人息子を送り出す気持ちの中で、一人暮らしに抵抗があった長男だったが、さすがに正則の厄介になっている弟夫婦に任せるわけにはいかない。
「それならば」
ということで考えられたのが、
「正則との同居」
だったのだ。
弟夫婦に任せっぱなしだった正則を引き取るかわりに、一緒に息子と住まわせることで、今までの後ろめたさを解消することができる。そして、まったく知らない相手と同居するよりも、一応親戚なのだから同居させることに抵抗もない。一石二鳥というものではないかと考えた。
弟夫婦の関係は冷え切っていたが、対外面では平静を装っていた。特に長男夫婦に対してはコンプレックスを持っていたこともあってか、余計に虚勢を張っていた。
「まあ、大学に合格されたのね。おめでとうございます。正則君と一緒に暮らすのであれば兄さん夫婦も安心ね」
と、母親は渡りに船だと思っているくせに、なるべくそんな思いを表に出さないようにした。下手に喜びを前面に出すと、家庭の中を見透かされてしまうようで嫌だった。
この家庭は、別にまわりから見透かされても、気にしないくらいに罪悪感や後ろめたさに対して感覚がマヒしていた。
長男夫婦が正則を預かることに神経質なほどに断ったのは、実は息子の受験が近づいていたからだった。
一人息子の受験なので、今までに経験のないほどのプレッシャーと、神経をすり減らすほどの気の遣い方をしなければいけないことを自覚していたからだ。
ただでさえ大変なのに、そんな時期に「厄介なもの」を抱え込むわけにはいかない。嫌われてもいいから頑なに拒否したのは、そのためだった。
そして、弟夫婦の家にも同じ年ころの子供がいる。必然的に二人は同じ時期に受験を迎えるだろう。
「一人に気を遣わなければいけないのなら、二人も同じこと」
と一言で一刀両断にできるものではないが、自分たちが今直面していることを思えば、まだ時間があると思ったのだろう。
しかし、長男夫婦は肝心なことを忘れていた。もちろん、まだ受験という事態に直面していない弟夫婦にも分かるはずはないのだが、二人とも合格すれば問題ないが、二人とも不合格だったり、どちらかが不合格だった場合にどのように対処していいのか困るということだった。
まだ、二人とも不合格の方が、両親としてはいいのかも知れない。
もし、自分の息子だけでも合格していれば、
――息子は大丈夫だ――
と思うことで、何とかなるかも知れないが、正則だけが合格した場合は、屈辱感が生まれるに違いない。もし二人とも不合格ならそんなことはないかも知れないが、
――養ってやっている――
と恩に着せられるべき相手が、自分の息子よりも頭がいいと証明されたように思い込み、自分のことのように考えるだろう。
子供同士ではそこまではないかも知れないが、親が屈辱感を持ってしまえば、息子にも伝染するかも知れない。そうなってしまうと、修羅場も想像できてしまう。
そういう意味でも、長男夫婦の申し出はありがたかった。
すでに崩壊している家庭ではあったが、正則がいなくなることで、修復の可能性も残されているかも知れない。それを思うと、正則自身にとってもありがたいことだった。
結局、長男夫婦は弟夫婦の家庭が崩壊しているなど、まったく知ることもなく、つつがなく、息子と正則の同居の手配を整えた。部屋は地理的優位で弟夫婦が探したが、段取りすべては長男夫婦に任せきりだった。
「すみません」
と、殊勝に頭を下げて見せたおばさんだったが、本当はそんな気持ちなど、まったくなかった。殊勝な態度の出所は、後ろめたさだったのかも知れない。
――こんな感覚、マヒしていたはずなのに――
と、おばさんは感じたことだろう。
「いえいえ、息子の段取りのついでですから」
と、笑って答える長男夫婦。
正則の行く末を決める時の態度とは打って変わっていた。今から思えば、完全にあの時と立場が入れ替わっていたのだ。
「元気でな」
そう言って、今まで一緒に育ってきた彼からは言われた。
「ああ、お前もな。今までありがとう」
正則の本音だった。
「元気でね」
おばさんもおじさんも、一言そう言っただけだった。それ以上の言葉は出てこないのだろう。いや、こんな時でもなければ家族が集まることのない崩壊した家庭。一刻も早く、皆一人になりたかったのかも知れない。
これから住む部屋は、今まで住んでいた家から、十キロほど離れたところだった。
「もう、行くこともないだろうな」
と思っていたし、
「あの家庭と関わることもない」
と、少し後ろめたさもあったが、
「これでいいんだ」
と自分に言い聞かせ、新しい生活に胸を躍らせていた。
二人で済む場所は、二LDKのコーポになっていて、正則が今まで住んでいた場所に比べると、思ったよりも綺麗だった。
何よりも、今までの部屋は一人部屋ではあったが、半分はおじさん夫婦が普段使わないものをしまい込んでおく倉庫のようなところだった。当然、自由に使える場所は限られていたのだ。
それに比べて、今度の部屋は、一部屋丸ごと自分のものだ。今まで倉庫のようなところに押し込められていたこともあってか、シンプルな部屋に憧れる。今まで住んでいたところから持ってくるものもほとんどなく、
「荷物はたったそれだけか?」
とお兄さんに言われて、
「ええ、これだけです」
と平然と答えた正則を、不思議そうに眺めていた顔が忘れられない。何をそんなに不思議に思うのか、正則には理解できなかった。
部屋には最初からクーラーがつけられていた。前に住んでいた部屋にもクーラーはあったが、いつ壊れても不思議のないくらいのもので、新しい部屋に来て、初めて自分が、必要最低限の生活しかしていなかったのかということを思い知らされた。
カルチャーショックを感じていたのは、正則だけではなかった。正則の今まで生活していた場所の話をすると最初は興味深げな表情を浮かべていたお兄さんの顔が、途中から訝し気に変わってきた。
――まるで苦虫を噛み潰したような表情――
とは、こういう表情をいうのだろう。
話を一通り聞いたお兄さんは、しばし沈黙し、
「そうか、そんなに悲惨な生活をしていたんだな」
としみじみ語った。
「そんな、大したことではありませんよ」
と、正則の方が恐縮し、そういうと、
「分かった。もう安心していい。好きなように自分の部屋を使っていいんだよ。正則君のお小遣いは、俺が親からもらう仕送りの中にちゃんとあるから、心配しなくていい。部屋をいろいろ変えてみるのもいいし、何か趣味を持って、それに使うのもいい。何か趣味はあるのかい?」
「絵を描くのが趣味なんですよ。前に住んでいた街に神社があって、そこでよくデッサンをしていました」
「この街は俺も来たばかりなのでまだよく分からないけど、デッサンするのにいい場所がきっとあると思うよ。見つけたら教えてあげよう」
と言ってくれたので、
「ありがとうございます」
と、普通に答えたが、本当はものすごく嬉しかった。
――こんなに優しい言葉を掛けられたのは、いつ以来だろう?
正則は涙腺が緩んできそうなのを必死にこらえた。今まで住んでいた家がどれほど窮屈だったのか、思い知らされた気がした。
それまで感じていた後ろめたさや罪悪感が完全に消えたわけではないが、自由というものの素晴らしさを知ったことで正則は、
「ここに呼んでくれたのは、運命なのかも知れない」
と、思わず心の中で自分に言い聞かせた。
確かにこんな幸せは夢のように感じる。有頂天になるなという方が無理というものだ。
「天国から地獄」
という言葉があるが、
「地獄から天国」
という言葉は聞いたことがない。
一旦地獄に落ち込んでしまうと、一気に這い上がるのは不可能で、地道に一歩ずつ這い上がるしかないと思っていたが、世の中、捨てたものではない。
「捨てる神あれば、拾う神あり」
という言葉がピッタリだった。
正則は、孤独という言葉をいまさらながらに意識していた。
弟夫婦の家で暮らしている時は、孤独を感じる暇がなかったというのが、前半だった。
後半になって孤独を感じるようになったのだが、それは悪いイメージの孤独ではなく、
――孤独でいることがありがたい――
と思えた。
家庭が崩壊しているということまでは分からなかったが、皆が孤立しているのは分かった。
正則は孤独を悪いことだとは思っていなかったので、まわりの皆も孤独を悪いことだと思っていないと感じていた。
確かに、皆孤独を悪いことだとは思っていなかった。しかし、それは自分中心の考え方で、まわりなどどうでもいいと思うことが、孤独だと思っていた。そんな孤独を皆それぞれ嫌だとは思っていない。むしろ、それまでの束縛されていた生活がウンザリしてくるほどだったのだ。
皆それぞれ違った感覚で孤独を感じていたが、それぞれに違っていることがまわりから見て崩壊を感じさせた。しかし、当事者にその思いはない。
――知らぬが仏――
という言葉で片づけていいものなのだろうか。
正則は学校にも慣れてきたこともあって、気持ちに余裕が出てきたのか、街を散策してみることにした。趣味であるデッサンができる場所を探すというのが一番の目的だったのだが、前に住んでいた街より都会なのかと思っていたが、まだまだ自然が残されているのにはビックリした。
この街には、お兄さんが通っている大学の他にもいくつかあるようだ。
四年生の大学が二つ、短大に専門学校、最寄りの駅には喫茶店が乱立していて、いかにも、
「学園都市」
を演出していた。
何よりも自分の部屋を自由に使える環境はありがたく、これから迎える高校受験に対して、万全の体勢で望めるのは嬉しかった。
しかし、不安がないわけではない。
今までの自分の環境が悲惨だったことで、自分の中に「甘え」のようなものがあったのも事実だ。
「どうせ、恵まれない環境に身を置くことになったのだから、受験に失敗しても仕方がない」
と思っていたのも事実だった。
自分が孤独なのをいいことに、悲劇の主人公を演じようとしていたことは自分でも分かっていた。
――言い訳はいくらでもできるんだ――
という思いがあり、ある意味、開き直っていたと言っても過言ではないだろう。
ここに引っ越してきても、最初はその思いが頭の中に充満していた。自分の立場は前と変わっていないのに、環境だけが好転したことで有頂天になっていたのだ。
だが、そんな思いは長くは続かない。続くとすれば、よほどポジティブにしか考えることができない人か、それともよほどの鈍感なのかのどちらかではないだろうか。さすがに気持ちに余裕が生まれてくると、考え方も少しずつ変わってくる。人間、そうそうポジティブにばかり考えることなどできるものではない。
しかも、元々自分を自虐することしか頭になかった人間に、ポジティブなどという言葉が似合うわけはない。余裕から生まれるものは、不安だった。それは生まれるべくして生まれた副産物だと言えるのではないだろうか。
不安というものは、一度根付いてしまうと、なかなか払拭されるものではない。今まで最大級の不安を抱えていたはずなのに、今抱いている不安とは違う種類のものだった。
以前感じていた最大級の不安は、目に見えているものだった。何をやってもうまくいかないお手上げ状態の中、不安を抱いたとしても、まるで他人事のようにしか思えない。そんな状況では、その場に流されるしかなかったであろう。
しかし、今回の不安は違っている。気持ちに余裕があるはずなのに、余裕が膨らんでくればくるほど、不安も増してくるのだ。
「これって一体?」
正則は自分に言い聞かせた。
「不安の正体が分からないことが不安なのだ」
という、まるで禅問答のような結論に至るまで、少し時間が掛かった。
分かってしまうと思わず噴き出してしまいそうなおかしさに頭の中が一瞬包まれたが。これが、
「抜けることのできないアリジゴクのようなものだ」
と思うと、不安が形を変えていくことに気が付いた。
変わってきたものの正体が何なのか、正則は漠然と分かってきた。
余裕があれば、余計なことを考えてしまう。それが不安に繋がってくるのだが、前のように他人事だと思って逃げることは許されない気がしたのだ。
――許されない――
この思いが、変わっていった不安の正体だった。
許されないことが自分を苦しめる。すなわち、
――プレッシャー――
だったのだ。
プレッシャーは自分が自分で感じるもの、誰も助けてはくれない。自分で跳ねのけるしかないのだが、これまで育ってきた環境から、跳ねのけるだけの力のノウハウも持っていない。
――どうして、俺ばかりこんな不安に駆られなければいけないのだ?
と感じていた。
今までの孤独主義が招いた感覚で、
――自分が感じていることは、他の人が感じることはない――
という今までの思いからどうしても抜けることができず、孤独の悪い部分を今になって感じていた。
もちろん、気持ちに余裕ができても、
「孤立主義」
に変わりはなかった。
それが自分の殻に閉じこもることになり、今まで孤立主義のいい部分だけしか見ていなかったのに、急に悪い部分が見えてしまったことで、正則は混乱したのだ。
正則は、鬱状態に陥った。
元々、お兄さんは正則の生い立ちは知っていても、前の家でどんな生活をしていたのかは知らない。おじさん夫婦も自分たち中心主義のくせに、下手に世間体を気にしていて、それは肉親でも同じだった。
「俺たちは普通の家庭を営んでいる」
とばかりに、悪い部分は徹底して封印した。
しかし、そんな付け焼刃な対策は薄いメッキのようなもので、ちょっとでも綻びが見えると、そこから中を見通すことなど、難しいことではない。
家庭崩壊まで行ったのだから、最初は何も知らなかった長男夫婦も、少し接しているうちにウスウス気がついてくる。それは、ぎこちなさが招いたものだった。
正則は、誰にも何も言っていない。それでも長男夫婦が自分たちのことを看過したことはおじさん夫婦は分かっていたようだ。そういうことにはなぜか敏感になっていて、それを長所に分類していいのか、短所に分類していいのか微妙なところだった。
おじさん夫婦は、
――どうせ、あいつが言ったんだろう――
と、口には出さないが、出所は正則だと思っている。
正則も何となく分かっていたが、
――もう、この人たちとは関係ないんだ――
と思うことで、別に気にすることもなかった。
しかも、
――放っておいても勝手に自滅する家庭など、気にする必要なんかない――
と思っていて、ここまで面倒見てくれたことを差し引いても、自分に非はないと思っていた。
最初の些細なところでの原因の一旦に自分が関わっているかも知れないとは思っているが、その時点では十分に修復が可能だったはずだ。それなのに、ここまで拗れてしまい修復が不可能ではないかと思えるほどになったのは、あくまでも自業自得の範疇だと思っている。
正則は、おじさんの家庭の崩壊を冷静な目で見てきた。
もちろん、大人の世界の微妙なところは分かるわけはないが、どのように自業自得を演出してきたのかということはある程度分かっていた。
ただ、それはあくまでも表面的なことであり、どこまで信憑性があるかということまでは詳細まで分からない。
今の自分が不安に見舞われているのは、おじさんの家庭が崩壊に向かっていったのに似ているような気がした。
もっとも正則が感じている家庭の崩壊への過程は、一般的な転落への発想であり、十分に修復可能な人が堕ちていく時と似ていたりする。だから、今正則が陥っている不安というのは、ある程度の、
――取り越し苦労――
と言えるのではないだろうか。
そのことに気づくまで、少し時間が掛かった。しかし、気づいてしまうと、後は順応性には長けている正則なので、いくらでもポジティブな発想を持つことができた。
――もう一度、不安に思うことを他人事だと思えるようになれば、それだけ気が楽になるというものだ――
そう考えればいいだけのことだった。
正則は、他人事という言葉をはき違えていたと思うようになった。
他人事というのは、表から無責任な気持ちでただ眺めていればいいと考えていた。確かにおじさんの家にいる頃の悲惨だった生活の時はそれでいいのかも知れない。
しかし、本当の意味での他人事というのは、
――もう一人の自分を生み出すこと――
だったのだ。
もう一人の自分が、主人公である自分の中にいて、本当の自分は自分の身体から離れて、表から冷静な目で見つめることが他人事なのだ。
他人というのだから、登場人物が一人では成り立たないということに気づけばそれでよかったのだ。
「でも、他人ではなく、他人事なんでしょう? だったら、無意識に表から見つめるのが他人事なんじゃないか?」
という考えもあったが、
「いや、同じ他人事でも、どん底の時に逃げに転じるために用いる他人事と、普段感じる言い知れぬ不安から抜け出すために用いる他人事と二種類あるんだ。それを俺は鬱状態に陥った時、気が付いた。鬱状態から抜け出す時というのは、その前兆が見えるものなんだよ。光が差してくるとでもいえばいいのかな? 要するに長いトンネルから抜ける時に差し込んでくる光、それが前兆なんだよ」
と、もう一つの心が諭している。
この心の中の葛藤こそ、もう一人の自分の存在を証明していると言えるのではないだろうか。
正則は今までもう一人の自分の存在を否定してきた。それはもう一人の自分が以前、夢に出てきたからである。
夢のほとんどを覚えていることはなく、本当に夢を見ているのか疑問だったくらいだ。だが、覚えている夢もあるにはあった。そのほとんどが怖い夢だというのは皮肉なことだったが、覚えているのが怖い夢だというだけなのか、それとも怖い夢しか見ないようになっているのか分からなかった。
しかし、最近になって、
――何か夢を見た気がするんだけど、覚えていない――
という夢の存在を意識するようになった。しかも、
――もっと見ていたかったな――
という意識だけが残っている。
ということは、楽しい夢だったということの裏付けではないだろうか。
正則は、
――楽しい夢って本当にあるんだ――
と感じたが、それがいつのことだったか覚えていない。子供の頃だったのか、それとも中学に入ってからのことだったのか分からない。したがって、どん底の人生を歩んでいたにも関わらず夢の分岐点がいつだったのか意識できないということは、それだけ夢と現実とではまったく違う世界で繰り広げられていることだと言えるのだろう。
確かに考えてみれば、現実というのは、自分の力ではどうにもならないことばかりだが、夢の世界は自分が創造したものなので、基本的には自分の力でどうにでもなると言えるだろう。しかし、それをどうにもできないのは、それだけ夢の世界と現実の世界とでは大きなギャップがあり、そのギャップが夢と現実のバランスを取っているのではないかと思うと説明がつくような気がする。
他人事という考え方が二種類あるように、世界にも夢の世界と現実の世界がある。自分の中で考えている二つの他人事、どちらかが夢の世界のことではないかと思うのは、突飛な発想であろうか。
他人事だと思うようになると、不安が少し軽減された。それは鬱状態から抜けたことで今度は躁状態にランクアップしたことの証明なのかも知れない。
「躁鬱症というのは、バイオリズムのカーブを描くように、躁状態から鬱状態を繰り返していく状態だったりするんだ」
と言っていた人がいたが、
「そうなのかも知れない」
と思った。
正則は、
――俺は躁鬱症なのかも知れない――
と自覚したとたん、躁鬱のどちらでもなくなった。
心の中に余裕は残っていたが、不安はある程度消えていた。もちろん、不安がまったく消えるとは最初から思っていなかったが、不安の正体も漠然としてだが分かるようになった気がした。
正体さえ分かれば、対処の仕方はいくらでもあった。
ただ、対処に戸惑ってしまって、そのまま鬱状態に陥ったこともあったが、躁鬱が二巡したあたりで、躁鬱から抜けていた。
最初はどうして抜けることができたのか分からなかったが、その理由を考えていれば、意外と簡単なことだった。
――意識しなければいいんだ――
気が付いたら抜けていたことが多かったことでそのことに気が付いた。
やはり必要以上な心配は、ろくなことにならないということであろう。
街にもだいぶ慣れてきて、その間に高校受験というイベントもあった。正則は無事に高校にも入学でき、お兄さんからも細やかながらお祝いもしてもらった。数日間は達成感と充実感で今までになかったように有頂天な気分になったが、一旦冷めてくると、今までの気分に戻るまでに時間は掛からなかった。それでも、不安よりも余裕の方が大きいという自覚があることで、今までの自分とはかなり違っていることに、正則は満足していた。
正則は家の近くに、前に住んでいた街にもあったような神社を見つけた。そこは前にいた街のように、小さな山の中腹に境内があるようなところで、石段の下に赤い鳥居があるのも同じだった。
正則は、何か運命のようなものを感じた。自分の境遇から、あまり運命のようなものは感じないようにしていたが、自分が探していたのと同じシチュエーションの場所が新しい環境にも存在したというのは、今までにないくらいの感動であった。
しかし、表に出すようなことはしない。実際に神社の存在を知ってからすぐに、境内に行ったわけではなかった。何度か学校の帰りに寄り道をして、ただ通りかかったように横目で赤い鳥居と見るだけで、そのまま帰宅したのだった。
もちろん、正則に興味が薄れたという感覚があるわけではない。むしろ興味は高ぶっていた。それでも上がってみなかったのは、正則の中で、
――何かを待っていた――
からである。
では、何を待っていたというのだろう?
正則が赤い鳥居を見に来る時というのは、いつも学校の帰りだった。部活などしていない正則にとって学校の帰りに来るというのは、ほとんど変わらない時間に来ていることを示していた。
正則が気にしていたのは鳥居自体ではない。鳥居から伸びる影を見ていたのだ。
通りかかって最初は、鳥居を中心に全体を見ているが、すぐに目線を下に下げ、足元から伸びる鳥居の影に注目していた。
正則が鳥居を正面から見ているわけではなく、斜め前から見ているので、伸びている影はさぞや歪な形になっていることだろう。いかにも平面を思わせる図形は、平行四辺形を想像させるものだったに違いない。
正則が鳥居をくぐって、石段を登ってみたのは、神社を見つけてから、一か月が経っていた。
いつもは五分程度鳥居、いや、鳥居から伸びる影を見ていたのだが、その日は、十分を超えても、動こうとはしなかった。
「影が動かない」
意味不明とも思える言葉を口にした正則は、そのまま一旦踵を返し、鳥居を背にしてみた。
そこから見えるのは、ここまで歩いてきた道だった。初めてその場所で振り返ってみたのだが、
「こんなに遠かったんだ」
と呟いたのは、鳥居が見えるまでに最後に曲がった角から、一直線の道が続いていたからで、
「結構、距離があるよな」
と思っていた。
目の前に見えているのに、なかなか辿り着かない思いは最初こそイライラしたものだったが、慣れてくると、木にもならなくなった。ただ、今まで一度も振り返ったことがないのを急に思い出し後ろを振り向いたのだが、自分が思っていたよりも、その直線が長かったことを後ろを振り向くことで思い知らされた。
――人生もこんなものなのかな?
と、神妙なことを考えてみた。
だいぶ慣れてきた高校生活だったが、中学生から高校生になったことで自分の中で何かが変わったとは思わない。確かに不安よりも余裕の方が大きくなったのは確かだったが、環境の違いや、受験に合格したことでの自分への自信から、精神的には少しは変わったと思う。しかし、肝心の高校生活に何か期待できるものがあるかと言えば、そんなことはなかった。ただ、今までになかった「期待」というものがあり、期待が予感に変わることを望んでいる自分がいた。
正則は、ここまで歩いてきた長い道を振り返りながら、
「曲がり角って、何だったんだろう?」
と思い浮かべていた。
――両親がいなくなった時?
もし、そうだとすれば、一直線というのはおかしい。それまでにいろいろ紆余曲折があったはずだ。
そう思った時、正則はふと感じた。
――俺がいろいろなことを他人事のように感じるようになったのっていつだったんだろう?
という思いである。
両親がいなくなった時、正則は何をどうしていいのか分からなくなり、完全に途方に暮れていた。頭の中が混乱し、それをどうにかしなければいけないと思う反面、それを冷静に見ている自分の存在に気づいた。
――あの時だったのか?
とも思ったが、それでも、おじさん夫婦に預けられる時、親戚の言い分を戦わせている場面を、偶然ではあったが目撃してしまった。
――俺は厄介者なんだ――
と、思った。
しかも、傷口に塩を塗られているような気分にもなった。本当の痛みがあったわけでもないのに、息が乱れて、
――このまま窒息するのではないか?
とまで思ったほどだった。
そんなことを他の人は誰も知らないということは、そんな状態からすぐに元に戻ったということだ。普通であれば、そんな状態になれば失神したりして、救急車で運ばれても無理もないことだろう。
正則は、別に我慢したという意識もない。もっとも、我慢しようと思ってもできるものではない。我慢できるくらいだったら、そんなパニックになるはずもないからだ。
――明らかに、あの時、自分の中にもう一人誰かがいたような気がする――
他の人が気づかなかったのは、ショックに打ちひしがれている自分とは違う自分が表に出てきて、何とかまわりへの対応をしていたのではないかと思えた。
しかし、それも「自分」なのである。
後ろを振り返ったことなどないと思っていた正則だったが、本当にそうだったのだろうか?
前に住んでいた街で、同じような神社があった時、あの時も、鳥居を背にして来た道を振り返ったことがあった。
その道は、そんなに長い直線ではなかったが、普通の区画された街の角から角の長さだったのに、あの時も、
――思ったよりも、遠くに感じるな――
と思ったものだ。
その時は、来た道を振り返えることに、過去を想像したことはなかった。
――すべては他人事――
と思っている時期だったので、過去、現在、未来という概念が、そもそも感じる余裕もなかったのだ。
では、なぜ他人事だったのだろう?
考えてみれば簡単なことだった。不安に感じたくなかったからである。
その頃から、
「余裕を持つことは、不安と背中合わせなんだ」
と思っていた。
それは、両親がいなくなる前から思っていたことなのかも知れない。
まだまだ甘ちゃんだと思っていた子供時代。自分で甘ちゃんだという意識はあった。
「でも、子供だからいいんだ」
と自分に言い聞かせてきた。
「それが甘ちゃんなんだよ」
と、言われればそれまでなんだが、まわりの人を感じることで、自分だけが頑張らなくとも、自然と成長できると思っていた。
そして、この思いは自分だけのものではなく、まわりの人皆が思っていることであり、それ以外は余計な考えだと思っていた。
だが、自分のまわりの環境が変わることで、自分の考えも変えなければいけない時が来ることを痛感させられた。
「誰もが皆同じではないんだ」
と思ったのも束の間、襲ってくる現実を乗り越えるには、
――自分のことは他人事――
と思うしかなかったのだ。
それはそれで間違いではないと今でも思っている。そもそも、何が正解で、何が間違っているかなど、誰が決めるというのだろう?
正則は自分の頭で考えていることを「他人事」と思うことは、時として必要なことだと思うようになっていた。自分一人で抱え込んでしまうと、パニックに陥ってしまう。
しかし、人によっては決していいことだとは思わないのに、一人で抱え込んでしまうことがある。その理由としては、二つが考えられる。
一つは、いい意味で責任感が強いということだろう。自分で解決することを美学のように考えるのは、責任感を最優先で考える人ではないだろうか。
もう一つは、悪い意味でなのだが、まわりとのコミュニケーションをうまく取れない人で、さらに他人を信用できない人であれば、余計に一人で抱え込んでしまうことになる。
責任感にしても、コミュニケーションを取れないにしても、結局は押しつぶされてしまうのだ。その押しつぶす原因というのが他ならぬ自分であることに、その時は気づかない。押しつぶされて初めて、気づく人は気づくだろう。
押しつぶしたのが自分だという意識を持てた人は、同じ立場に再度陥ったら、
「なるべく一人で抱え込まないようにしよう」
と考えるだろうが、押しつぶした正体に気づいていない人は、また同じことを繰り返すに違いない。
考えてみれば、正則は今まで余裕というものを感じたことはない。
物心がついた時から、母親の存在を知らず、男手一つで育てられた。決して余裕のある生活ではなかったが、本人には、余裕という概念がなかった。
その父親がいなくなり、本当にパニックになった。
それまでの生活がキツキツだったことは自覚していた。
――これ以上落ちることはないだろう――
と思っていたところで、さらに唯一頼りにしていた父親がいなくなったのである。途方に暮れたのは当然のことだった。
だが、正則は自分一人で抱え込むようなことはしなかった。責任感も、人とのコミュニケーションに重要性すら感じていなかったからだ。
そこで感じたのが、「他人事」という発想である。
それでも紆余曲折を抱えながらも余裕という発想を初めて持った時、不安が伴っているのを感じた。
今は、環境が完全に変わったこともあって、高校にも合格し、有頂天を味わうこともできた。
同居のお兄さんは優しいし、何の問題もない。
ただ正則は、同居のお兄さんが優しいとは分かっていても、どうしてここまで優しくできるのかが分からなかった。今まで接してきた人の中にはいないタイプの人である。
正則は、踵を返して今まで通ってきた道を見た時、いろいろな思いが頭を駆け抜けた気がした。
その時に一瞬だが、お兄さんの優しさに何か違和感があったことを自覚していた。だが、そのこともすぐに忘れてしまった。それでも、その時にそう思ったからこそ、他の場所でお兄さんを思い浮かべた時、一直線に伸びるこの道のことをイメージすることになるのだが、初めて一直線の道を逆から見た時に感じた一瞬の思いが、そうさせるのだということを、正則は分かっていなかった。
一瞬というのは、人の心を突き刺すには十分な時間なのかも知れないが、どれほど鋭利なものでなければいけないかということも問題である。しっかりとした角度から確実に突き刺さらないと、なまじ苦しいだけで、苦しさの影響が何なのか、そして、どれほどの範囲なのかということも分からないほど、感覚はマヒしているのに、苦しさだけが生々しいのだ。
そんな状態に陥ってしまうことを正則は知っているはずだった。今までに何度も陥ったことのはずなのだが、その正体は分からなかった。まだ子供だったということもあるのだろうが、子供が味わうには、あまりにも大きな試練だったに違いない。頭の中が他人事で埋め尽くされても仕方のないことだったのだろう。
ただ、正則は高校生になった。高校生が大人なのかどうか、その判断は難しいところだが、少なくとも中学時代までの自分とは違っていると思っている。思春期もそれなりに実感しているし、鬱状態も躁状態も経験した。そして他人事だと思ってきた自分も自覚しているし、不安の少ない余裕も経験することができた。
――ここまで分かっている高校生って、どれだけいるんだろう?
きっと、ほとんどいないと思っている。友達と話をしていても本当に他人事に思ってもいいと感じるほど、幼稚な話に合わせている自分が苦笑いをしている姿を想像できるからだ。
「お兄さんは、俺のような思いを持っているのかな?」
あの優しさは、自分と同じような境遇だったり、相手の気持ちを分かる人でなければ示すことができないだろう。少なくとも不安が余裕と同じだけの大きさを持っている人にはできないことだと思える。
さらに踵を返してもう一度鳥居を見るが、最初に見た時に比べると、小さくなっているかのように感じた。頭の中の中の残像が印象深かった場合、二度目に見た時は、それほどでもなく見えることもある。よほど最初の印象が深かったに違いない。
そのくせ、鳥居をくぐる時に、さほどの感動はなかった。通り抜ける時というのは、鳥居が視界から消えてしまっているのが一番の原因なのだろうが、それだけ印象深かったのはビジュアルに原因があったからだろう。
石段は一気に昇りつめた。前に住んでいた街でデッサンをしていた神社の石段を昇る時も後ろを振り返ったりはしたことがなかった。一気に昇りつめて、昇りつめたところにある鳥居を抜けるまで、決して後ろを振り向かなかったのだ。
元々高所恐怖症のところがある正則らしい。真下から見ると、さほど遠くに感じなかった昇りつめたところにある鳥居だったが、息切れはいつものことだった。ここでも同じようにさほどきつく感じるわけではなかったが、昇りつめた瞬間、立ちくらみを起こしそうで、途中で下手に休憩すると、余計に疲れを溜めることになる。一気に昇りつめる理由がここにあることに気が付いた正則は、いつもと同じように、上の鳥居も一気に通り抜けた。
「本当に瓜二つだ」
前に住んでいた街にあった神社とまったく違わない光景を見て、思わずビックリしてしまった。神社には同じ系列の神社もあるというので、ある程度雰囲気が似ていても不思議はないのだろうが、神社を取り囲む光景まで同じに思えて、まるでデジャブを見ているような錯覚を覚えた。
そこには先客がいた。最初はその人の存在に気づかなかったのだが、それは、あまりにも知っている神社と瓜二つだったことで、違っている場所を探そうとして、本能的にまわりばかりを意識していたようだ、まわりから次第に中心部分を見つめていくと、やっとそこに誰かが佇んでいるのを発見することができたのだ。
その人は、しゃがみこんで何かをしている。
チューリップハットを目深にかぶり座っていた。膝の上には画用紙が置かれていて、明らかに絵を描いていた。
その人は女性で、彼女は正則に気づくことなく軽快に画用紙の上に鉛筆を走らせていた。デッサンをしていることは間違いないようだ。
正則は興味を惹かれた。もしそれが男性であれば、自分とダブって見えたであろうからだ。いや、女性であってもそこにいるのが自分のように思えていた。
彼女は正則のことに気づかず、一心不乱で絵を描いている。その姿には美しさがあり、
――これって、僕が求めているような姿なのかも知れないな――
まわりからどう思われようがあまり気にしない正則だったが、もしもう一人の自分がいて、その自分が絵を描いている自分を見て、最高だと感じることができるような佇まいで絵を描く姿勢を示すことができれば、それが最高だと思っていた。
彼女のことを意識しながら、境内に向かって歩き出した正則は、お賽銭を取り出して、さっそくお参りをした。
それでも彼女は正則に興味を示さない。正則は踵を返してそのまま帰るつもりは最初からなかったので、おもむろに絵を描いている彼女の方を振り向くと、ゆっくりと彼女に近づいていった。
彼女は驚いている様子はなさそうだったが、別に挨拶をするわけでもなく、平然と絵を描いている。
「こんにちは」
正則は一声掛けた。
「こんにちは」
彼女は正則を見上げながら挨拶をしてくれたが、目線は正則から離すことはなかった。見上げているその表情を見て、
――今の彼女の顔を、横から見てみたい――
と感じたのは、彼女の横顔を見れば、何を考えているのかが、少しでも分かるような気がしたからだ。
夕日が彼女を照らしていた。もう少しで沈んでしまいそうになっている夕日は、まるでロウソクが消える最後の灯だった。
足元を見ると、正則の影が伸びていて、彼女の胸あたりに自分の顔の影があった。
――きっと、眩しくて僕の顔もハッキリと見えないのかも知れないな――
と思い、少し横に移動しようかと思ったが、なぜか足を動かすことができなかった。まるで金縛りに遭ったかのような気がした。
――どうしたんだろう?
少し焦りの色が顔に浮かんでいるのを感じた。彼女は、その表情を見ながら、ニコニコと笑っている。
――笑った――
彼女の表情から笑顔は想像できなかったので、少しビックリした。
最初に見せた一心不乱な表情は、何を考えているのか分からないほどの無表情だった。その表情があまりにも印象的で、
――この表情以外、この人の顔を想像することはできない――
と感じたほどだった。
そんな彼女がニコニコしている。しかも、想像できないと思っていたことがウソのように、彼女の表情に違和感などはなかった。
「そんなにおかしいですか?」
焦りが一段落し、余裕が戻ってきた後の第一声がこれだった。
「ええ、声を掛けてきた人とは思えないほど、急に焦ったような雰囲気になったので、どうしたのかな? と思ったのと、焦っている人には笑顔で接しようと無意識に感じたんでしょうね」
「じゃあ、笑顔には意識がなかったんですか?」
「ええ、私も笑顔になっている自分に、一瞬ビックリしたくらいですからね」
そう言って、また笑顔になった。
しかし、今度の笑顔はニコニコではなく、苦笑である。もっともこっちの方が当然の表情であって、彼女の場合、苦笑もニコニコした笑顔と、それほど変わりがないように感じるのは、正則だけだろうか。
「ところで、どんな絵を描いているんですか?」
笑顔の会話はこれくらいにしておいて、本題の絵の話に入ることにした。
正則は、彼女に近づき、後ろから絵を覗き込んだ。そこに描かれているのは左半分を境内が支配していて、右側は漠然とした絵だった。真っ白ではないが、すべてをボカシて描いている。境内も後光が差したように夕日に浮かんでいると言った表現がピッタリの気がした。
「幻想的な絵ですね」
まさしく、幻想的という表現そのものだった。
しかし、それを聞いた彼女は、
「幻想的というイメージで描いているわけではないんですよ。なるべく省略できるものは省略して描くというのが私の考え方なので、省略できるシチュエーションを探すことから私のデッサンは始まっていると言ってもいいくらいですね」
「省略……ですか?」
「ええ、無駄なものを排除したいという考えですね。世の中無駄なものが多すぎるはないですか。それなのに、誰も無駄なものに対しての意識がない。私一人くらい、無駄なものに対して向き合う人がいてもいいんじゃないかって思うんですよ」
「そんなものなんですか?」
正則には分からない発想だった。
「ええ、省くという文字は、反省の『省』ですよね。省くという表現はあまりいいイメージがないように思いますが、反省をしない人間なんていないでしょう? それを思うと省くことを考えてみるというのも楽しい気がしてきたんですよ」
「楽しい?」
「はい、せっかくなら楽しまないと面白くないじゃないですか。絵を描くのだって楽しいから描いている。だから、自分の発想したものになるべく近づけたいと思う。どうしても近づかない場合は、それは自分が未熟だからだって思っていたんだけど、いつまで経っても上達しない。そこで考え方を変えました」
「というと?」
「未熟だって思うから上達しないんですよ。未熟という言葉を使えば、絵をうまく描けないことへの言い訳になってしまう。そのことに気が付くと目からウロコが落ちて、初めて自分の絵を客観的に見ることができるようになったんですね」
「実は僕もデッサンが好きで、前に住んでいた街にも同じような境内があって、よくデッサンをしていたので、思わず声を掛けてみたんですよ」
「私は、自分と同じような環境で同じように絵を描いている人が他にもいるんだって、いつも感じていたんですよ。あなただったんですね」
「本当に奇遇ですよね。でも、そう思っていたということは、他にもいるかも知れないということですよね。偶然ではあるけど、ひょっとするとこの出会いは必然なのかも知れませんね」
「私もそう思います」
「私は、今のあなたの話を聞いて、今日あなたに話かけるということを、以前から想像していたような気がしてきました。声を掛けるというのは勇気がいることで、今までの自分ならできるはずもないことだと思ったんですよ。それでも声を掛けることができたのは、絶妙のタイミングがあったからではないでしょうか?」
「確かにタイミングというのは大切ですよね。私もあなたに今日声を掛けられたのは、タイミングが合ったからだとは思っていました」
「あなたは、いつもここでデッサンをしているんですか?」
「毎日というわけではないんですが、結構来ていますね」
「絵を描くのが本当に好きなんですね」
「ええ、私は孤独が好きなので、絵を描いていると、楽しいんです」
正則は彼女に声を掛けたのがやはり必然であることを、彼女が孤独が好きだという話を聞いて確信した。同じ思想発想を持っている者同士が惹き合うというのは当然のことだと思うからだ。
「どうして、孤独が好きだと絵を描いていると楽しいんですか?」
「私は、元々絵を描くことが好きになって、孤独が好きになったんです。だから、今の表現は的確ではなかったのかも知れませんが、絵を描いていると自分の世界に入ることができるんですよ。自分の世界というのが、他の人が入ってこれない孤独な世界だと思って何が悪いんでしょうかね」
少し興奮気味の彼女だった。
「そうですよね。孤独という言葉は悪いイメージが付きまといますが、私は決してそうは思わない。孤独というのも、その人の個性の一つであって、自分の世界が開けていれば、それでいいんだって思っていますよ」
「どうやら、あなたとは気が合いそうな気がしてきました」
「ええ、僕もですよ」
正則は、デッサンをするつもりで、その日もデッサンの道具は持ってきていた。しかし、彼女を見ていると、一緒にデッサンをする気にはなれなかった。今日は彼女の絵を見ているだけで満足だったからだ。
しかも、時間的にも日没までほとんど時間がない。絵を描くだけの時間は残されていない。
正則のカバンの中には、以前に描いた絵も入っていた。
「僕が前にいた街で描いていた絵があるんですが、ご覧になられますか?」
目の前で絵を描いている人を前に、本当なら言わないことだが、今日、彼女に自分の絵を見てもらわなければいけないような気がしたのだ。
その理由としては、今日見てもらわないと、次がないような気がしたからだった。
「ええ、ぜひ」
彼女も乗り気のようで、表情が好奇の目に変わったのが分かった。
正則はカバンの中から数枚絵を取り出して彼女の前に掲げてみた。
最初の絵は、境内から見た、石段を昇り切ったところにある石段だった。
この絵の自分なりのコンセプトは、
――左右対称――
というものだった。
境内の中心に座って、境内への石畳を中央に、左右に広がっている光景、鳥居を見つめるように立っている左右の狛犬を見ていると、遠近感がマヒしてくるのを感じるはずだった。
描いていてもそのことは意識していた。彼女も同じことを感じていたようで、
「遠近感とバランスというのは、絵を描く上での基本ですからね。この絵は、それを無理に意識させることなく、眺めているうちに自然と感じさせる力がありますね。素敵な絵だと思いますよ」
「ありがとうございます。僕は左右対称というものに興味があって、絵を描くのとは別に、鏡の表と裏というのにも興味を持っているんですよ」
「左右対称なんだけど、映し出しているのは、反対の画なんですよね。そういう意味でも鏡というのは何かの魔力が潜んでいるような気がしますね」
「あなたは、そんな絵を描いたことはありますか?」
「私は、確かに左右対称ということに興味を持ってはいますが、自分の絵に描いてみようという思いはないんですよ。私の中では、描いてはいけないものになっているんですね。それだけ神聖だという思いがあるのかも知れませんね」
「僕は、新鮮なイメージはありますが、神聖だとは思ったことはないんですよ。興味のあるものに新鮮なイメージが湧いてくれば、自然と描きたくなるものになるというのも不思議ではないですよね」
「あなたは、透明な心を持っているように思えますね。しかもまっすぐに見えるものは放ってはおけない気がする」
その話を聞いて、さっきここに上がってくる時の一直線の道を思い出した。彼女もその道を知っているはずである。どんな気持ちになっているのか、聞いてみたい気がした。
「この下に赤い鳥居がありますが、そこから真っすぐに伸びた道がありますよね?」
「ええ」
「僕はさっき、鳥居の前で立ち止まって、歩いてきた真っすぐに伸びた道を振り返ってみたんです。とても新鮮な気がしました」
「そうですね。あの絵を描いてから、私は自分の絵に対する考え方が変わったような気がしたんです。急に見えなかったものが見えてきたとでもいうんでしょうか? いや、それよりも今まで見えていたものが見えなくなったような気もしてきたんです。それが何だったのかも分からないんですけどね」
「それが悪いことであればいいんですが、いいことだったら、もったいないという気はしますね」
「もったいない……ですか?」
「ええ、違うんですか?」
「私はもったいないという考え方をしたことはないですね。忘れてしまったものであれば、忘れるべくして忘れたものだって考えるようにしているんです」
――この人は、冷静というか、少しとっつきにくい気がするな――
と感じ、思わず苦笑している自分に気が付いた。
話をしながら、声を掛けてしまったことに後悔しながら、適当に話を切り上げるタイミングを計ったいた。
「潔い考えですね」
何と言って返答すればいいか考えていたが、思わず苦笑してしまったことで、
――とにかく何か答えなければ――
と思ったことで、最初に感じたこととは違う言葉が口から出てきたことにはビックリした。確かに潔いという言葉、自分で言っておきながら、
――なかなか的確な回答だ――
と感心したほどだ。
潔いという言葉には、漠然とした意味も入っていて、しかも、皮肉も含まれているような気がする。
――一番差しさわりのない皮肉――
と感じた正則は、
――これで、適当に話を相手の方から切り上げてくれるような気がするな――
と思った。
正則は、最初から彼女に対してあまりいい印象を持っていなかった。それはなぜかというと、彼女は決して正則を正面から見て話をしようとはしていない。目深にかぶった帽子に守られるように、目を見せることはなかった。雰囲気から、年齢は少し離れているような気はしたが、その落ち着きも、年齢からくるものだと思えば、不思議なことではなかった。
正則の思った通り、彼女も場の雰囲気を察したのか、片づけを始めた。
――いや、そろそろ日没の時間だからかな?
とも思ったが、片づけを始めたのは、今まで途切れもない会話に終止符を打っての態度だった。彼女はそそくさとデッサンの画用紙をカバンに収めて、返り支度を始める。その態度は、正則を意識しているわけではなく、完全に自分のペースでの行動だった。
正則はその様子をじっと見ていたが、別に嫌われたわけではないような気がしていた。たった一言で気分を害する人はたくさんいる。初対面の相手だと余計に気に障ることを言われれば、一気に冷めてしまうだろう。
――どうせ、もうこの人と二度と会うことはないんだ――
という思いが頭をもたげるからで、もし出会ったとしても、無視すればいいだけだった。相手がそれでも話しかけてくれば、自分が思っていた通りに失礼な人なので、そこから先は容赦のない対応をすればいいだけである。
正則は、彼女と話をしていた時間が五分程度のものだと思っていたが、時計を見ると、実際には三十分近く過ぎていた。境内にはベンチはなく、石に座って絵を描いていた彼女の横に立って話をしていたので、
――道理で足がだるいわけだ――
と感じた。
そのわりには、彼女の手際のいい片づけの間は、時間があっという間だった。デッサンなので、それほど時間も掛からないのだろうが、それまでの時間の経過を考えると、彼女の手際の良さは際立っていた。
「それじゃあ、失礼します」
と言って、彼女は立ち上がり、初めて彼女の表情を見ることができた。
帽子をかぶっていたのでハッキリとは分からなかったが、
――どこかで見たことがあるような気がするな――
と感じた。
ただ、それは今のその女性ではなく、その人の若い頃のイメージだった。だが、真正面から見ると、正則が想像していたほどの年配には見えなかった。
最初は、四十代後半くらいなのかも知れないと思っていたが、よく見ると、お姉さんと言った方がいいくらいの雰囲気だった。色つやもさほど老けて見えるわけではない。しかも化粧っ気がないにも関わらず、肌のきめ細かさが感じられた。
――いや、薄化粧だから、肌のきめ細かさが感じられるのかも知れないな――
と感じた。
ただ、彼女の顔を正面から見て、正則は衝撃を受けた。それは、
――どこかで見たことがあるような気がする――
という思いとは違い、彼女の表情そのものに感じたことだった。
人間というのは、顔が完全に左右対称というわけではない。必ず二つのパーツがあれば、どこかが違って見えたりするものだということを本能的に感じていた。
例えば、目でも正面から凝視していれば、必ずどちらかが大きかったり、どちらかが垂れていたりするものだ。同じ垂れていたとしても、角度も微妙に違っている。だからこそ、その人それぞれの表情を作ることができるのだと思っていた。
しかし今目の前にしている女性は、真正面から見ると、左右対称にしか見えないのだ。
なぜなら、彼女には表情を感じない。今は感情を表に出していないから無表情なのだろうが、笑った顔や、怒った顔、悲しい顔などの喜怒哀楽の表情を思い浮かべることはできないからだった。
――それが左右対称のイメージとすぐに結び付くなんて――
自分でもビックリだった。
後から思い返せば分かるのかも知れないと思ったが、
――いや、後から思い出せるような表情じゃない。これだけ印象に深いと今記憶できなければ、後から思い出すことはできないだろう――
と思った。
人の顔を覚えることが大の苦手の正則にとって、それは致命的な感覚であった。
だからこそ、彼女に対して、どこかで見たようなというイメージを持っても、それがいつだったのか思い出せないのだ。
人の顔を記憶するのが苦手なのは、ビジュアルで覚えることができないからだろう。それが自分にとってのバランス感覚や遠近感が取れない原因の一つだと思っているが、ほぼ間違いはないだろう。
それにしても左右対称に見えると、その人のそれ以外の表情が想像できないばかりか、とても醜く感じられる。それは、動物の顔を正面から見ている感覚になるからで、しかも、犬や猫のようなペットや家畜の表情ではない。
例えば魚だったり、昆虫だったりと、あまり普段、正面から見つめることのないものだからおかしなものだ。
――どうして、そんなものを思い浮かべてしまうんだ?
やはり表情を思い浮かべることができないからだろう。
犬や猫、家畜は正面から見ると、その表情から感情が分かってくることもある。だが、それを錯覚だと思っている人もいるかも知れない。なぜなら、犬や猫は、声を出して鳴くことができるからだ。鳴いている声を聞いて、悲しいと思っている時や、嬉しく思っているのが分かる。そんな時の態度も決まっているので、全体を見ると、一目瞭然に分かるのだ。
だが、魚や昆虫は、人間に分かるような鳴き方をしない。昆虫には鳴く種類もいるが、彼らが何を思って泣いているのか分からない。
声で分からなければ表情で分かろうとするのが人間、しかし、表情もハッキリしない。――それは顔が左右対称だからではないか?
という思いを正則は以前から考えていた。
――いつもそんなことを感じているから、今日彼女の顔に左右対称を感じたのかも知れない――
とも思った。
一瞬の出来事だった。それなのに、これだけいろいろ頭の中で考えが廻った。彼女は、そんな正則にかかわることなく、踵を返すと、すでに石段を下りているところだった。それを目で追いながら、正則も神社を後にした。ただ、歩き始めたのは、彼女の頭が自分の視界から消えるのを待ってのことだった。
本当はもっと早く歩き始めるつもりだったが、足が動いてくれなかった。
――たった三十分だったのに、足が痺れて動けないのか?
と思ったが、それよりも金縛りに遭ったかのような感じがした。
今まで金縛りになど遭ったことがなかった正則だったが、
――金縛りというのは、第一歩が踏み出せなかった時、陥る可能性があるんじゃないかな?
と感じた。
それは今日初めて遭ったはずの金縛りなのに、これからも時々感じることを予感するような気がしたからだ。
だが、彼女が視界から消えた瞬間に、その金縛りは消えてしまった。
――なんだったんだろう?
という思いが頭をよぎったが、とりあえず歩き始めることができたことでホッとしていた。
彼女が視界から消えてくれていたことも、正則にはありがたかった。ここから今視界から消えた彼女がいたところまではすぐに辿りつけそうなので、下を歩いていく彼女の後姿を見ることにはなるだろうが、正面から見る姿ではないので、別に気にはならなかった。それにさっきの態度を見る限り、彼女が振り返ってこちらを見ることはないはずだ。顔を合わせることはない。
そう思うと、歩き始め鳥居のところに来るまで、さっきの金縛りがまるでウソのように足取りが軽やかだったのだ。
正則が鳥居のところまで辿り着くと、目の前に、この街の景色が飛び込んできた。
「結構、綺麗じゃないか」
前に住んでいた街の光景をイメージしていただけに、さすがに少しだけとはいえ都会なだけのことはある。かなり遠くまで家が立ち並んでいて、マンションも目立っていることで、この街が都心部へのベッドタウンであることを示していた。
この街は、目の前に海が広がっていて、後ろにはそれほど高くはないが、山があった。人が住める範囲は限られているので、どうしても、横に広がるしかないのだ。
それは分かっているつもりだったが、上から見る光景は、地図で見るのとはかなり違っていた。
――やっぱり、この街に来てよかった――
と感じた。
あのまま前の街にいても、自分を殺して生きていかなければいけない。今から思えば、
――なんて、もったいない時間だったんだ――
と感じた。
「もったいない……」
そういえば、さっきの彼女ともったいないという会話をしたのを思い出した。
その時はあまり深くは考えていなかったが、今から思えば、もったいないという言葉が今の心境への前兆のようなものだったのかも知れないと思うと不思議な感覚だった。
――彼女が分かっていたような気がする――
正則の、
「もったいない」
という言葉に反応したのも、自分のことだけではなく、正則の語句のどこかに感情が含まれていたからなのかも知れない。そう思うと、正則にとって感情というものを表現する時、いかに自分で意識していないかということを示しているような気がする。
――もしそうなら、今まで結構損をしてきたのかも知れないな――
と感じた。
ただこの場合の損というのは、自分にとっての不利益になっていたのかということは分からない。もし不利益になっていたとしても、それは気づいていなければ、何も問題のないことだったはずである。
遠くを見つめていた時間はあっという間だったはずだ。それなのに、石段に足を掛けて、足元から伸びる石段をどんどん先に視界を移していくと、さっきまでの彼女の姿はどこにも見られなかった。石段を下りてからの道は三つだが、その三つとも結構先まで見渡せるようになっている。それなのに、彼女は忽然と消えてしまっていた。
神社を下りてからは、どの方向にも民家はなかった。森のようなものが広がっていたり、学校になっていたり、惣菜工場のようなものがあったりと、入り込むところはそんなにはない。本当に忽然と消えてしまったという表現がピッタリだった。
ここから見える三本の道も、さっき確認した道以外も、ほとんど一直線になっていて、視界から消えることはなかった。どっちの道を通っても、これくらいの時間なら、視界に入るはずの場所を歩いているはずだった。
――僕の思いが通じたのかな?
彼女が消えてしまったことよりも、見えなくなっていることの方が安心だった。
――これで、もう会うことはないな――
と感じたからであり、視界から消えてしまったことで彼女に感じた、
――以前にも見かけたことがあるような気がする――
という思いも、どこかに行ってしまった。
今までにも初対面の人で、印象が悪いため、
――遭ったのをなかったことにしよう――
と思いたいのに、どうしても意識の中に残ってしまって、しばらく残像を消すことができなかったことがあったが、今回はそんなこともなさそうだ。
綺麗サッパリ忘れ去ってしまうことが今回できれば、これからも忘れたいと思う相手を忘れることができるような気がするのだった。
その女性の後姿はおろか、どんな雰囲気の女性だったかということまで、石段を下り終わってしまう頃にはすっかり意識の中から消えていた。
――不思議な女性に出会った――
という意識があるだけで、彼女の何を不思議に感じたのかということすら忘れている。しかし、
「絵を描いていたということ」
そして、
「左右対称」
という二つがキーワードとなって頭の中に残った。
その二つがどういう意味を持つのかということが分かるわけではない。だから不思議な女性としての認識しかないのだ。
――たったこれだけの短期間で簡単に忘れてしまうというのは、まるで夢でも見ていたかのようだわ――
と感じた。
この日のことは、次の日になると、
――夢だったんだ――
という意識を持つことで、自分を何とか納得させた正則だったのだ……。
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