第38話 天渡瑞星
「………本当の星焔先輩は2年前に事故に遭ってずっと寝たきりだった。私が星焔先輩だと思って接していたのは事故のせいで精神的な病気を抱えた瑞星先輩だった……はあ、意味が分からないんですけど………」
相良さんは頭を抱えて唸っていた。まあ、混乱するだろう。いきなり目の前の女の子は星焔ではなく、実の妹の瑞星だ、なんて言われて、すぐに理解できるわけがない。
「もっと言うなら相良さんと同い年だけどね瑞星は。……まぁ、それはいいや」
「そうですよ! なんで部長さんは嘘をついていたんですか? みずほ先輩の気持ちを知っておきながらなんで!」
「それを、いまから話そうとしている」
「う、ごめんなさい………」
相良さんが深呼吸するのを待って、僕は、また話し出した。
「まず、そうだな……順番が難しいんだけど、一番初めは瑞星が自分の事を星焔だと思い込むようになった事からだね。僕が付き合わない理由も、嘘をつき続けたのも、ぜんぶ彼女の記憶が混濁した事に起因するから」
「思い込むっていうのは、えっと、みずほ先輩が、自分の事をほむら先輩だと思い込んだっていう事ですよね」
「そう。医者の話によるとストレス障害の一種なのだそうだ。自分を他の誰かだと思い込んで事故のストレスから逃げようとしている。これは無理もないと思う。実の姉の事故を目の前で見せられたんだ。しかも、自分に向かって来たトラックから助けるために事故が起こったんだよ。当時は中学生だった。逃げたくなっても仕方がないと思う」
「なるほど……」相良さんはううんと唸った。
「先生も詳しくは教えてくれなかったし、僕も専門家ではないから分からないけどさ……だけど、治療は出来ないという事だった。瑞星が受け入れるのを待つしかないらしい。………順調に進んでると思ってたんだけどな」
「……………………」
「あれは、うん、僕達が病院に運び込まれた次の日だったかな。腕やあばら骨を骨折して全治数か月の傷だった僕はベッドの上で暇をしていたんだけどさ、瑞星の様子も分からないし、星焔が無事なのかも分からないしでもんもんとしていたんだけど、そこへ瑞星が駆けこんで来たんだよ。それはものすごい形相だった。僕はきっと星焔の容体が思わしくないんだと身構えたけど、違った」
「………みずほ先輩が、ほむらと名乗ったんですね」
僕は静かに頷いた。
「もうあの頃から拒絶反応があった。さっきのを見ただろう? あんなのが昔はしょっちゅうあったよ。名前も事故も、瑞星はすべてをなかったことにした」
「だからみずほ先輩を守るために、ほむら先輩として接していた、と?」
「うん。瑞星は自分の名前を聞くと拒絶反応を起こすんだ。さっきみたいなね。だから記憶喪失って嘘は都合が良かった。治療という
「……はあ、頭の良い人って、ときどき何考えるか分からないです。でも、それで、みずほ先輩は戻りつつあったんですね?」
「うん。表情や言葉遣いが戻りはじめていた。良い方向に向かっていると思ってたんだけどね……」七星に邪魔をされた。
七星が余計なことをしなければ順調にいっていたのだ。
僕は悲しいやら悔しいやらで胸をぐちゃぐちゃに潰されたようになって、そのなんとも形容しがたい嫌悪感に
「………………もう、戻ってこないんでしょうか」
「分からない。誰が戻ってくるのか、誰として戻ってくるのかは、彼女次第だ」
僕には目の前で眠っている女の子が誰なのかさえ分からなかった。
相良さんにとってはどうなのだろうか。星焔として戻ってきた方が嬉しいのだろうか。瑞星として戻ってきてほしいのか。戻ってきた女の子と仲良くしてくれるのだろうか。
僕は天渡星焔の場所を守ろうと尽力したが、女の子の居場所すら守れなかったのだろうか。
「―――――あ」
ベッドの方から声がした。
「あれ……ここは………」
「あ、ほ、ほむら先輩……じゃないや、みずほ先輩! 目が覚めたんですね?」
「うえぇ、先輩? ……あ、ようにいちゃんだ」
目を覚ました女の子はむくりと体を起こした。まるで永い眠りから目を覚ましたお姫様のようにぽーっとした顔で辺りを見回している。舌ったらずな言葉遣いだった。空虚。空白。そんな言葉を連想させた。
「ようにいちゃん。この子は……だぁれ?」
「……お前。元気か?」
思わず月並みな事を聞いてしまった。驚いた時に頭が回らないというのは本当の事らしい。この子が誰なのか。記憶がどうなっているのか。そういう事を確かめなければいけないのに。
「……変な事を聞く。みずほは平気だよぉ。ちょっと頭がフワフワしてるけど……あぅ」
「あぶない!」
女の子はベッドから降りようとして体勢を崩した。僕が慌てて抱き留めると、女の子は嬉しそうに僕の背中に手を回して「えへへ、ありがとぉ」と囁いた。
ひとまず女の子をベッドから下ろして、クッションに座らせる。
「あの、えっと、どういう状況……? その人は、ようにいちゃんの彼女?」
女の子は人形のようにきょとんとしていて、触ったら壊れてしまいそうな儚さだった。星焔の厭世観とも、瑞星の無邪気さとも違う、まったくの空白だった。
「相良さんが分からないのか?」
「相良さん……あれ、ねえ、ようにいちゃん。背、伸びた? 急に?」
「僕の事が分かるのか」
「うん。浅葱光陽。15歳。ヴァイオリンが上手なみずほの好きな人。なのにお姉ちゃんばっかり相手にしてる憎らしい人」
「ああ、お前は瑞星だな」
「みずほだよぅ。……で、そっちの人。ようにいちゃんに何の用? あなたも邪魔するなら噛みつくよ」
女の子は相良さんをジッと見つめた。なるほど、瑞星らしい言葉遣いだった。僕の事も分かるようだし、ひとまず、瑞星として戻ってきたとみていいだろう。けど、そこはキチンと確認しなければならない。
「なあ、自分の事が言えるか?」
「まぁた変な事きく~。みずほは瑞星だよ。ようにいちゃんと同じ中学校に通う14歳。一昨日お姉ちゃんの真似して早着替えマジックやったら見事に失敗してようにいちゃんに下着を見られました」
「………本当に瑞星か」それが分かっただけでも安心だ。肩の荷がようやく下りた気がした。
どうやら瑞星としての記憶は事故の直前で止まっているらしいけれど、いまは、彼女が帰ってきたことだけで充分。なくなった時間はゆっくり取り戻していけばいい。
「おかえり、瑞星」
「わっ、やめてよぉ。みずほに会えてそんなに嬉しい? ………え、泣いてる。さすがに引くかも………」
「うるさいな」
僕達は軽い
けれど、そんな事では納得しない人物が、ここにいた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。私の事が分からないんですか? 相良です。相良夕空です。先輩と同じマジック部の唯一の後輩!」
彼女にしてみれば自分の事を忘れられているというのがショックなのだろう。あれだけ慕っていた先輩が突然見知らぬ人になるのが怖かったのだろう。
「マジック部……相良……ごめん、分からない」
「そんな………」
相良さんは青ざめて唇を震わせた。
「相良さん。気持ちは分かるけれど、落ち着いて」
「……………。そう、ですね」
七星がやった事の是非はどうあれ瑞星が帰ってきたことには変わりない。相良さんの事も、いま通っている高校の事も、星焔の現状の事も、ゆっくり理解していけばいいだろう。僕はそう思っていた。
「まあ、そうだな。瑞星も目が覚めたばかりで良く分からない事も多いだろうから、みんなが落ち着くまでゆっくり話でもしようじゃないか」
しかし、僕がそう言おうとした時だった。
人生楽あれば苦ありと言うが、おそらくこの世で起こる出来事のほとんどは僕達の準備なんて待ってくれないのだろう。瑞星が帰ってきてホッとしているところに、今度は厳しい知らせが飛び込んできた。
「光陽くん! 今すぐ病院に行くよ!」
「え、あ、おばさん!? どうしたんですか!?」
「ほむらが……星焔の容体が急変したって!」
部屋に飛び込んできたのは瑞星の母親だった。手にはスマホを握りしめており、顔にはひどい汗をかいている。
人生で起こるほとんどの事が、僕達の事なんか待ってはくれない。
「これが最後かもしれないって、覚悟だけはしておいて」
おばさんの目がきつく僕を見た。
僕達にできる事は、覚悟を決める事だけなのかもしれない。
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