第36話 最初のマジック


 ここに4枚のトランプがあります。それぞれハート、スペード、クローバー、ダイヤのエースです。この中から好きなスートを一枚選んでください。どれでも構いません。あなたが選んだトランプを瞬間移動させて御覧にいれましょう。


 目の前の女の子がそう言った。まるで、そうなる事が当然であるかのように言い切るのである。僕は、じゃあ……と迷いながらもスペードを選ぶ。すると、女の子はジッと見守っていた目を僕に向けて、「手に取ってください」と言う。


 僕は言われるがままにトランプを手に取る。と、女の子が手のひらを重ね合わせてきた。小さな手のひらだった。


「あのときも浅葱くんはスペードを選んだね」


「…………………」


「覚えていないフリ……だよね。本当は覚えているんだよね……」


 僕は何も答えなかった。答えられなかった。


 女の子の声は震えていた。まるで、そうであってほしいと願っているかのように。


「君は勘違いをしている。僕が覚えていないんじゃない。君が忘れたがっているんだ」


 そう言おうとした。でも、僕は言葉を呑んだ。


 あれは忘れもしない。僕達が小学生になったばかりの頃である。


     ☆☆☆


「みたまえ、この姿を!」


「それは燕尾えんび服? だっけ? なんのコスプレ?」


「コスプレじゃないよ。私はマジシャン。いまからあなたを魅了してみせます」


「勝手にどうぞ」


 星焔は大福のようなお腹をのけぞらせてふんと腰に手を当てた。いつぞやのマジックショーで見たマジシャンの恰好をそのまま真似したのだろう。黒い燕尾服に白いワイシャツ。黒のズボンが女の子らしい丸みに突っ張っている。買ってから初めて袖を通したのだろうか。全身がのりでぱりぱりだ。


「なんて素っ気ないやつ……意地でも魅了してやるんだから」


 そう言って胸ポケットにカードを仕込んでいたのは驚いたけれど、あれが初めて見せたマジックだった。


 星焔は心の底から手品を楽しんでいたし、僕も彼女の見せる不思議に惹きこまれていた。


 たどたどしい様子で手と手を重ねる。どうやっても僕を魅了したかったらしい。梅の花のような手のひらをぎゅっと押し付けてまなじりを紅くして、必死だった。


     ☆☆☆


「この格好を覚えているよね。燕尾服。あのときは卸したてだったけど、見て? 今はもう着こなしているでしょ?」


 女の子はいつの間にか着替えていた。さっきまで来ていた厚手の上着はどこへ行ったのか。もう部屋の中には無かった。そのかわりに女の子は黒い燕尾服を着ていた。育ち盛りの胸がピンとテントを張って、ズボンは逆にスラリとしていた。


 たしかに着こなしているようである。が、僕には、誰かの古着を着ているように見えた。


「あのときはまだ小さかったから胸ポケットにもトランプが入ったけど、いまはもう入ってないよ。背面が透けてバレるなんてへまはもうしないからね」


 たしかに胸ポケットには何も入っていないようである。確認のためにチラ見しただけだから、女子の胸を見たと怒らないで欲しい。……が、当時の星焔はそのへまも計算のうちだったように思う。


「浅葱くんの手……大きくなったね。こうして手を重ねると、やっぱり男の子なんだなぁって思うよ。……カードと私、どっちが冷たいかな」


 女の子の手はたしかにひんやりしていた。あのときの星焔の手は陽だまりのように温かくて、少し震えていたようだった。少なくとも彼女は冷え性では無かった。


「あの日から、いろんなことが変わったよね。本当に、いろんなことが……でも、これだけは……私の気持ちだけは変わらないって、ハッキリ言えるから」


 女の子は真正面から僕を見つめていた。たしかにあの日からずっと彼女は変わらなかった。いつも僕の事を気にかけてくれて、いつも僕の隣にいて、いつも笑っていた。そして、いつも自分の気持ちをまっすぐに伝えてくれた。


 だからこそハッキリ言える。あの日から一番変わってしまったのが彼女の心なのだと。あの事故があってもっとも変わってしまったのは彼女自身なのだと。


 僕は呟くように言った。


「やめてくれ………」


 あの日から変わった事。一番大きく変わった事。


「ねえ、浅葱くん。本当は記憶があるんだよね」


「やめてくれ……そうじゃないんだ」


「ねえ、私の事も、浅葱くん自身の事も、ぜんぶ、ぜんぶ覚えてるんだよね……そうなんだよね?」


「違うんだ……違う。やめてくれ。僕の事を苗字で呼ばないでくれ……もう、だって、君はそう呼ばなかったじゃないか!」


「……浅葱くん?」


 そうだ。女の子は僕の事を『ようにいちゃん』と呼ぶのだ。いつもそうだった。なのに、あの日以来、女の子は僕の事を『浅葱くん』と呼ぶようになった。


 女の子は長い髪を短く切ってボブカットにした。


 女の子は手品なんてまったくできなかったのに突然できるようになった。


 女の子は、彼女が知らないはずの思い出を話すようになった。


 女の子は自分の事を『天渡星焔』だと名乗るようになった。


 女の子は自分の名前を忘れてしまったのだった。


「君は……君は天渡星焔ではないんだ」


 女の子は天渡星焔ではない。


 女の子にとって僕の言葉は受け入れがたいものだった。拒絶反応なのだろうか。彼女は本当の名前を聞くと気を失ってしまうようになった。医者の話では、女の子が受け入れるまで慎重に見守る必要があるそうだ。だから僕は女の子の勘違いを利用する事にした。


 僕は記憶喪失ではない。記憶喪失というのは女の子が言い出した事であるが、彼女の記憶を取り戻すために都合が良かったからそれを演じる事にしたまでだ。


 女の子はぶるぶると震えはじめた。


「違うよ。私は星焔。天渡星焔だよ。浅葱くんの恋人……。私は星焔。私は星焔。私は星焔」


 あの事故は受け入れがたいものだったのだろう。僕にとってもそうだけど、女の子にとってはなおさら受け入れがたいはずである。


「誰も事故に遭ってない。ようにいちゃんだってそう。私だってそう。誰も事故に遭ってなんかない!」


「………………………」


「違うの。お姉ちゃんは事故になんか遭ってないの。私のせいじゃない、私のせいじゃない、私のせいじゃない……………」


 女の子はトランプを取り落として顔を覆った。自分に言い聞かせるように「私のせいじゃない」と繰り返し唱え、涙を流した。まるで、要らない記憶を涙と一緒に排出しているにも見えた


 このままだと彼女はまた気を失ってしまうかもしれない。ただでさえ最近は女の子自身の記憶と天渡星焔の記憶が混在しているのだ。女の子が僕の事を『ようにいちゃん』と呼んだことがあるのは読者諸君もご存知の通りであろう。雲英星先輩のマジックの後から特に顕著けんちょになったが、あれがまずかったらしい。あのときから女の子は星焔の記憶を模倣する事をやめ、自身の記憶として取り込みはじめたのである。


 閉所恐怖症も暗所恐怖症も星焔がそうなのであって、女の子はまったく平気だったはずだ。


 女の子が僕を『ようにいちゃん』と呼ぶたびに僕は恐ろしくなった。このままだと本当の女の子が消えてなくなってしまいそうで、天渡星焔の帰ってくる場所が無くなってしまいそうで、僕は、彼女の気持ちが落ち着くのを待つことしかできなかった。


 いまも、そうした。


「うん。君は星焔だ。天渡星焔だ。大丈夫、大丈夫だから……」


「おにいちゃん……ようにいちゃん………」


 かなり混乱しているらしい。今日はしばらく女の子に付き添う必要があるだろう。僕は震える体を抱き留めて、ただ背中を撫でた。小さな背中だった。これで2人分の記憶を背負い込むにはスペースが足りないのかもしれない。


 僕だって僕の記憶で手一杯なのだ。女の子が誰であろうと、誰である事を選ぼうと、その結果を責めるべきではないのかもしれない。選ばれなかった記憶が弾きだされたとしても、受け入れるしかないのかもしれない。


「ほむら先輩!? 大丈夫ですか!?」


 部屋のドアが開いて相良さんが飛び込んできた。


「やっぱり、いたのか」


「部長さん! ほむら先輩はどうしたんですか! 事と次第によっちゃあ部長さんを許しませんよ!」


 犬歯をむき出しにして相良さんは僕の肩を掴む。指が食い込んで痛い。……でも、うん、僕が責められるべきなんだろう。


 こうなるまで放っておいた僕が、責められるべきなんだ。


「星焔は少し混乱しているだけだ。じきによくなる」


「そんな、だって……部長さんにマジックを見せていきなりなんですよ!?」


「うん。僕がついているから。大丈夫」


「大丈夫って……そんな……」


 いまはそっとしておいた方がいい。女の子が落ち着くまで余計な刺激を与えたくない。


「いいから、そっとしておいてくれ」


 僕は相良さんの体を掴んで離した。2人が何を企んでいたのかは後で聞くとして、今は女の子を優先するべきである。「後ですべて教えるから、いまは刺激しないでほしいんだ」


 そう言って、僕は驚愕した。


 相良さんが入ってきたドアの向こう側。部屋に続く廊下に人影が立っていた。水色のロングヘアーに今にも消えてしまいそうな輪郭。


 七星戯曲であった。


「私の助けが必要かな? あの子を取り戻すんだろう。手伝ってやるよ」


「違う。やめてくれ」


「遠慮するなって」


 七星はズカズカと部屋に入ってきた。


 僕は思わず「やめろ!」と声を荒げたけれど、そんな事を聞く七星ではないし、ただ、相良さんを驚かせただけだった。


「君はずぅっと頑張っていたようだけどね、いつかは苦しまなければいけないんだ。取り戻すために傷つかなければいけないんだ。このまま日和見ひよりみ主義を貫いたところで事態が好転するわけがないと知ってたんだろう? 知ってて行動しなかった。この子を傷つけるのが怖くて、彼女を失うのが怖くて、君は決めあぐねて逃げ続けた。そのむくいを受けろ」


 七星は女の子の耳元に顔を近づけるとそっと囁いた。


 やめてくれと叫んで手を伸ばしたが、その手は七星の体をすり抜けた。僕には止める術が無かった。


 七星は口にしてしまった。あの名前を。女の子の本当の名前を。


 女の子が拒絶し続けた名前を。


「君は天渡星焔ではない。彼女の妹。天渡瑞星みずほだよ」


 僕がやめろと叫ぶのと同時であった。七星がそう呟いたとたん、女の子は猛毒を打たれたかのように目を丸々と見開いて、身を裂くような叫び声をあげた。


「違う! 私は星焔! 私が、私がほむらなの! みずほなんて名前は知らない! 私は――――――――!」


 そう叫んで、女の子―――天渡瑞星はパタリと倒れこんだ。


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