第19話 コーヒーと幽霊
「喉が
「……仮に飲料水を用意したとしてだ。飲めるのか、君は?」
「知らないよ。でもほら、さっきまで女の子がいた席の周りが提供した飲料水で汚れていてあの女の子実は……! ってなる展開は美味しいだろう?」
「掃除が大変になるだけだろうが」
それに何が美味しいんだよ。と僕は言いながら、それでも水くらいは出してやる。
七星戯曲が何者で、何の目的があってここにいて、何をしようと企んでいるのか。僕はそれを知らなければいけない気がした。
コトリと机に置くや否や七星はコップを取り上げた。
「本当に飲めるんだろうな」
「君には好奇心というものが無いのか? 私のような死者でさえチャレンジしているんだぞ。死者と生者を分けるのはその好奇心やチャレンジ精神では無いのか? 君のようなつまらないヤツは死んでいるのと変わらないぞ。ああ
七星戯曲が傾けたコップから勢いよく水が飛び出して、上を向いた首筋からダバダバとこれまた勢いよく飛び出して行く。それはもう綺麗な放物線であった。
「おや、残念だ」
「そうなるってわかってるからチャレンジしたくなかったんだ!」
ここへ入ってくる時だってドアを開けていなかったんだから水に触れられるわけがないのだ。
七星は理知的な物言いをするが、なんでも試してみないと気が済まない子供みたいな一面もあるらしい。「どうにかして飲めないものか……」と悔しがっていた。
迷惑な好奇心が星焔にそっくりだ。床を拭きながらそう思った。
「君が幽霊らしくないのが一番問題なんだ。死者ならもっと僕を驚かせろよ」
「それっぽいのはこの前やったからねぇ。同じことをやっても芸が無い」
「……………」
「そうだ。コーヒーなら飲めるかもしれない。君、コーヒーを
「断る」
このよく分からない幽霊が何のために僕に付きまとうのかを探らなければ面倒事が増える一方だ。星焔の事も解決せねばならない僕にとって、余計な心配は増やしたくない。
「君はなぜ僕に付きまとう。理由を言え」
その理由が僕に手伝える事なら、先に解決して成仏してもらうのが楽だろうと考えたのだ。
ところが、床を拭き終えて顔をあげると、寂しそうな顔をした七星と目が合った。
「……なんだよ。そんな顔をすんなって」
「君は、なぜ私が現世にとどまるのか、その理由を知りたいと言うんだね」
七星が思い詰めたように俯く。あるいは彼女の死因に関係したりするのだろうか。涙をためる目じりは身を切るような苦痛を感じさせ、硬く紡いだ口元が決意の強さを物語る。
「君にだけは教えるけどね………」
「………………うん」
「実は…………」
七星が上目遣いに見上げる。
僕は思わず生唾を呑み込んだ。「……うん」
「実は、君のコーヒーが飲みたいんだ」
「…………はぁ?」
「君の淹れたコーヒーを飲みたくてここにいるんだ。私は」
「……………………」
ジッと見つめる瞳はとても冗談を言っているようには見えなかった。
「ほら、後ろの吊り本棚の左から3冊目にオーナーの書いたレシピブックがあるだろう。ここはカフェなんだからコーヒーくらい出したまえよ」
「なんだコイツ…………」
いつもの
人をおちょくるのが好きな所まで星焔にそっくりだと思った。
☆☆☆
「60度のお湯で6分蒸らす。その際に大切な事はドリッパーの中央にくぼみを作るように豆を入れる事。そして、蒸らすためのお湯がポットに落ちないようにする事。1滴1滴に細心の注意を払って、薄い氷を扱うように丁寧に蒸らす事………」
「おいどうした手が震えているぞ。そんなんで美味しいコーヒーが淹れられるのかね?」
「抽出の工程は3度までで終わらせる事。豆に含まれる苦み成分や渋みが多く出てしまって美味しくなくなるから。ただ、その際に勢いよくお湯を
「その割にはどばどば注いでるじゃないか。お客様に美味しいコーヒーを飲んでもらおうとは思わないのかね」
「うるっっさいな! こちとら緊張してるんだよ!」
「ほらほら、怒鳴ると手元が狂うだろう?」
「くそ……」
コーヒーを淹れる事がこんなに難しいなんて思ってもみなかった。
藤波さんはコーヒーを淹れる事を芸術的創作だとよく言っている。同じ味を再現することは絶対に不可能で、コーヒーを淹れる事は一期一会の出会いを楽しむ事なのだと。鼻歌交じりにコーヒーを淹れる藤波さんの姿はあたかも豆と対話しているようであり、とてもリラックスしているように見えた。
そんなところをよく見ていたから七星にコーヒーを淹れろと言われたときも簡単に請け負ったのだけど、なるほど、藤波さんはあれでもスペシャリストだったらしい。
「………ダメだ。ぜんぜん上手くいかない」
「まっ、藤波さんほどのは期待していないさ」
七星がコーヒーカップをクルクルと揺らして表面張力を作る。カップのふちギリギリに押し寄せる小さな
「そういえば、藤波さんもここでアルバイトしてもう4年になるのか。時が経つのは早いもんだね」
「……彼女を知っているのか?」
「そりゃあ知ってるとも。もっとも、その頃の私は七星戯曲なんて名前では無かったけれどね」
「……ま、偽名だろうとは思っていたよ。君の本当の名前は?」
「盗られた」
「盗られたぁ?」
七星は髪をさらりとかき上げて明後日の方向を見た。遠い昔を思い出すように細められた目が
「……いつか僕の淹れたコーヒーを飲んでね。約束だよ」
「え?」
「誰だったかな。天渡星焔に向かって誰かが言ったんだ。……あれは誰だったろうかねぇ。彼も星焔も本気にしていなかったけど、私は今になって思い出すんだ」
「………………………」
「………ま、今日のところは帰ってあげるよ。そろそろ彼女が戻ってくるだろうから」
そう言って七星は席を立った。
「おい待て、いろんな謎を残して出て行くな。せめて僕に憑りつく理由だけでも教えろ!」
僕は七星の肩を掴もうとした。しかしその手は空を切り(というか七星の体を貫通し)、冷たい手応えだけが残る。「それは、君が思い出せばすべて分かることだ」
「思い出せばって………僕が何を忘れているって言うんだ」
「コーヒー美味しかったよ。では、また会おう」
「七星!」
ヒュウ―――――と風が吹いて七星は掻き消えてしまった。マジックでも何でもない。本物の霊現象である。僕はしばらく茫然としていた。
まるで今までのすべてが夢であったかのように、彼女の温度すら残っていなかった。
「……………なんなんだ、アイツ」
と、ふと、コーヒーカップの中が透明であることに気がついた。飲んでみるとただの水であった。
それはたしかに僕がコーヒーを淹れたカップである。
「……………優れた手品師。まさかな」
出来の悪い冗談としか思えなかった。
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