第5話 空中歩行マジック


 空、飛びたくない? と星焔が言った。とうとう頭がおかしくなってしまったのだろうか。僕は哀れみの目でマジック部の彼女を見上げた。


「なにを言っているのかサッパリ理解できない」


「飛びたいよねぇ。空飛びたくない? 浅葱くんも飛びたいよね?」


「……なんだよ、宙に浮いてるやつが何を言う」


「浮くのと飛ぶのは違うよぅ。鳥さんみたいに思いっきり飛びたいんだよ」


「……あ、そう」


 部室に訪れた時にはすでに星焔が浮いていた。空気に腰かけているという表現がぴったりかもしれない。机の上の空間に後ろ手をついて、あたかも自室でクッションに座るがごとし気の抜けた有り様。季節は秋に差し掛かり夕暮れが空に赤い影を伸ばす。星焔のアンニュイな横顔がなぜだか詩的に美しかった。


「あ~あ、なんだかつまんないなぁ、人間って。羽をはばたかせて自由に空を飛び回りたい気分。そんなとき、ない?」


「どうせ糸で吊ってるか透明な板があるんだろう? 馬鹿なこと言ってないでマジックの練習でもしてろ」


 僕はソファにカバンを置くと星焔の頭上や腰かけている付近を手で探った。こういうマジックは大抵目に見えないもので体を支えているのが普通なのだが、星焔は天才的な手品師なのでそんなものは必要無いらしい。


「……どうやって浮いてんだ、お前」


「乙女の秘密。でも、確かめたいのならいいよ? 浅葱くんにだけは見せてあげる」


 と、星焔はスカートの裾をつまんでひらひらと揺らした。「ほら、私の秘密を暴いてみたいでしょ? 暴いてみなよ」と煽情的な笑みを浮かべて僕を見下ろしていた。


「……マジックのほうの、な。そういうのはしないって『約束』だろう」


「………ふふん。そうだよね。『約束』だよね」


 僕がしかめっ面で突っ立っていると星焔は「そうだ」と柏手かしわでを打って空気から飛び降りた(と、表現するのが最適なのだろうか……?)。もう新たな作戦を思いついたらしい。


「浅葱くんも飛ぼうよ、空」


「お前は何を言っている……?」


「だいじょ~ぶだいじょ~ぶ、初心者でも簡単に浮ける方法があるから。浮遊初心者の浅葱くんでも安心だよ」


 あたかもそれが当然であると言わんばかりに星焔が僕の手を引いて机の上に立たせる。


「いきなり飛ぶのは難しいからまずは高さを変えずに浮く練習しよっか。この机から歩いて浮いてみるよ。足場が無くなる時は言うからね、私の手を離さないようにしてれば大丈夫だよ」


「僕は一言もやるなんて言ってないんだけどな……」


「私、マジック部やめちゃおっかな~~~~」


「………やる」


「よろしい」


 星焔が魔術を操る悪魔にしか見えなかった。


 僕と星焔は机の上に立って手を繋ぐ。会議室によくある濃い茶色の長机だ。マジック部にはそれが二脚向い合せにくっつけて置いてあって一人で一つの机の上に立っていた。


 グラグラする机の上に立つ。なんだか今にも崩れそうで、浮遊感という言葉の方がまだ安定しているような気さえするガラクタぶりである。


「あのさ、普通何か説明してくれるんじゃないのか? そこに透明な板があって今からその上を歩くよ~とか、僕は観客じゃないんだぞ」


「ううん、観客だよ? 手品師は人の心を魅了する。私にとっては浅葱くんが唯一無二のお客サマ。だから何の説明もしてあげないよ」


「不安だ…………」


「さ、浅葱くん。今から空中歩行をするわけだけど、2つ、絶対に守ってほしいことがあります」


 星焔が真面目な顔をして言った。彼女が敬語になるのは手品が始まる合図である。空気感ががらりと変わって、彼女の時間が始まるのが分かった。


「まず、空中歩行はとても繊細な秘法です。それは針のように細い道を辿るに似て、全神経を集中させなければ歩むべき道も見えません。目をらして、空気の流れを感じて、全身の力を抜く。これがとても大切な事です。でも、浅葱くんは初めてだから目を開けて歩くのは困難でしょう。人間の脳に届く情報の8割は視覚だといいますからむしろ目は閉じておいた方がいいですね。目を閉じて、辺りの光を感じる事に集中してください。守ってほしい事というのが、一つ、絶対に目を開けない事。そしてもう一つが私の合図で歩くことです。右と言えば右足を、左と言えば左足を出してください。そうすれば、まあ、落ちる事はないでしょう」


「…………………………」


「……そうです。そうやって意識を集中させてください。そう、そう。呼吸を整えて……リラックスです……リラックス」


 準備はできたようですね、と、星焔が僕の手を取る。いよいよ空中歩行とやらが始まるのだろう。手のひらに伝わる末端冷え性のモチモチは星焔の手だろうか。僕はとにかく呼吸を整えて辺りの気配に意識を集中させた。


 右………


 左………


 右………


 左………


 星焔の囁くような声に合わせて僕は足を出す。こつん、こつん、という確かな硬さが返ってきて自分がまだ机の上にいるのだと教えてくれる。それは安心する反面、いつ空中に飛び出すのか分からないというじれったさを起こした。


 右………


 左………


 右………


 左………


 右………


 左………


 右………


 そうです、良い感じ。そのまま集中して………


 左………


 右………


 さあ、次の一歩で空中に出ますよ。でも、慌てないで………


 左………


 足が沈み込むのが分かるでしょうか。ふわりと包み込むような感触が、体に返ってくると思います。でも、大丈夫。私がいるから大丈夫ですよ………


 星焔の言葉は一定のリズムを持っているようでどこか不規則な、でも不思議と安心するような、心に染み渡るような、そんな声で囁いた。僕はその声に騙されてしまったのか、あるいは本当に浮いているのか、本当に足が沈む感覚を覚えた。


「どうなってるんだ……?」


「しーー、驚かないで。浅葱くんはいま、空中を歩いているの。でも、集中を切らしたらダメ。私の声に合わせて」


「う、うん……」


 なんだか綿の上を歩いているようだった。足元が心許こころもとない。自分がまっすぐ立っているかも分からないのである。ふわっ、ふわっ、と、底の無いところに密度が濃くなって足を受け止める厚みができる。これが空中歩行の感覚なのだろうか。


 僕は不安でいっぱいだったけれどとにかく足を動かした。星焔が大丈夫だというのだから大丈夫なのだろう。


「右………左………右………左………私の声に集中して。疑ってはダメ。一歩一歩に注意を払って………右………左………右………左………あっ」


「ん?」


「あ、あ、ストップ、ストップ!」


「え、なに、なに?」


「あ~~~~~」


 星焔がふいに腕を引っ張る、それでバランスを崩した僕の足にガツンと固いものが当たった。なんだか本が数冊重なっているような硬さであった。


「いってぇ! なんだこれ、僕のカバン……?」


「あ~~~~、しくじったぁ~~~」


 星焔が目を開けていいと言うので開けてみた。僕が蹴っ飛ばしたのは、僕が部室に来たときにソファに置いたカバンである。視線を下に向けると僕は………ソファに立っていた。


「人が空を歩けるわけが無いとは思っていたが……まさかソファの上を歩いていたとはな…………」


 ソファから降りる。と、星焔は珍しく意気消沈したように僕を見上げて「怒った?」と聞いてきた。マジックの失敗にショックを受けているようだが、僕はむしろ狐につままれたような気持ちだった。


「怒ってはいないけど……段差を降りたような感覚はなかったぞ? ソファと机じゃ高さは違うし、それに歩数だって合わないだろう? 僕はその間どこを歩いていたんだ……?」


 人の得る情報の8割は視覚。目をつむっていたからどこにいるか分からなかったというだけでは説明しきれない不可思議を僕は体験したように思う。ソファも長机もそんなに大きくはない。せいぜい僕の歩幅で2歩である。だけれど、僕は少なくとも10歩以上は歩いているはずだ。


「手品師は五感を騙してこそだから……」


 彼女が天才たるゆえんはこういうところにあるのかもしれない。


「見事に騙されたよ、このやろう」


 こつん、と頭を軽く小突いてやると星焔は「えへっ」と笑った。


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