第61話 未だ純潔の黒山羊
「三間坂シィ。ベトベトですわね。これ、本当に人間じゃなかったのですわね?」
「うん。多分。少なくとも泥人形だったよ」
曽我咲シノンの乾坤一擲の斬撃を受け、三間坂シィは消えた。腰から肩口にかけての切り上げを受けたからだ。両断した瞬間にはじけた彼女の身体は、黒い泥になって散らばって、今は床のシミになっている。
「復活してこないよね……?」
「今のところは、動きそうにないですわ……」
二人は、まだ警戒を解かない。
彼女は、自身のことをナイアであると語っていた。突然襲ってきたことからも、敵であったのは間違いないのだが、虚神ナイアルラトホテプ自身であったのか、ただの泥人形であったのかは謎だ。
いや、高確率でただの泥人形だろうとマツリカは思う。そうでないならば、お師匠であるアサヒ抜きで自分たちが敵うはずがないのだから。
「………………」
「………………」
二分ほど気を張ってやっと警戒を解く。少なくとも復活はしてこないようだ。
「はあああああ……、怖かったぁ……」
「なんだったんですのあれ」
シノンは、銀の腕の柄を握ってまだ少し震えていた。三間坂シィの不気味さにあてられたからだ。外見上はいつもの受付のお姉さん三間坂シィそのものだったが、その笑顔の裏に隠された、薄気味悪さ、得体のしれなさ、違和感。言葉で言い表せられないほど、すさまじいものだった。
本能的恐怖とでも言おうか。人の皮のすぐ裏側に、無数の蟲がうごめいているような。薄氷一枚挟んだ向こう側が、永劫に続く常闇であるような……。
気を抜けば、平衡感覚を失い、立っている地面から投げ出され、自分がどこかへ落ちてしまうのではないかと思われる感覚。近くに三間坂シィが存在しているだけで、それを感じてしまった。
「あれは生理的に駄目な奴でしたわね……」
まだ鳥肌が立っている。同時にそれに耐えて真正面から対峙できていたマツリカのことを素直にすごいと思った。私にあれはできないかも、と。
「嫌悪感って、感情でコントロールできないものなのですわね」
「
風に乗り、周囲を見回っていたドクターが戻って来た。三間坂シィ出現と共に、あたりにいた
「虚神、とくにあのナイアのすることにいちいち意味を見出すのは、逆に危険な事でぇすが、この襲撃の意図がわかりませんね。マァ、
「戯れって、遊びに来たって事ですか?」
「ええ、そうです。三間坂シィの姿をとって現れた意味が分からないでぇす。自身がナイアであると伝える意図も不明。あまりにもあっけなく撤退してますし、足止めでもないでしょう。それにマツリカ氏、あなた視聴者に煽られていたでしょう? あれが本当の視聴者であるかすら怪しい。ただの趣味の精神攻撃という可能性があると私は思いまぁすよ」
「なるほど……」
「ただのいやがらせだと思っておくのがいいでぇすね」
考えれば考えるほど馬鹿を見る相手ですから。アイツは。と言いながらドクターは風を解きふわりと着地した。
病室の前。個室だ。
ネームプレートには、『斎藤サクラ』の文字。
「ここに、お師匠さんの妹さんが……?」
「病院がこんな状態になっているのです。中もどうなっているのか怪しいところでぇすがね。少なくともアサヒは、妹氏のところへ行けと言ってましたぁね」
「ドクターは、サクラさんとは会ったことはあるのですか?」
シノンの質問に、ドクターはしばらく沈黙した。彼にしては珍しく両目を閉じ、一言も発せず黙りこくっていた。そしてゆっくりと口を開く。
「――いいえ。会ったことはありませんねぇ。アサヒがね。誰にも会わせたがらなかったからですねぇ」
◆◆◆
五年前のことだ。斎藤アサヒが、最初の幻想器『
刻一刻と悪くなっていく。もはやこれまでかと誰しもが思っていた。
だが、奇跡的に心臓移植のドナーが見つかった。彼女に適合する心臓の提供者が現れたとの報が入ったのだ。心臓移植の提供者とはすなわち死者だ。誰かが死に、使える心臓ができた。
それを移植する事で、アサヒの妹、斎藤サクラは生き延びることができたのだ。
心臓移植をすれば、すっきりと健康体になれるかというとそんな事はありえない。彼女に待っていたのは厳しいリハビリだった。
長年寝たきりで、たまの外出にも車いすを必要としていた彼女。
そして事件が起こる。チームの崩壊。ミウの死だ。
アサヒとドクターは生還したものの、それ以降、斎藤アサヒは抜け殻のようになっていた。だがそのあとも、病院には行っていたようだ。逆にいえば、病院にだけは行っていた。行き続けていた。それは、アサヒが妹サクラの事を深く想っていた証であるともいえるが――。
「兄さま?」
病室に入ってすぐに、マツリカは息をのんだ。
不自然なほど広い病室の中央。ベッドに身を横たえながら、半身を起こす少女がいた。
黒髪だった。マツリカも自分の髪の黒さ、艶やかさはひそかに自慢に思ってはいたが、その少女のそれは別格だった。漆黒。光を通さぬほど黒い髪。その中に血など通っていないかのように白い顔が浮かぶ。伸ばした手には、青い血管がうっすらと走っていた。細い。今にも折れてしまいそうな手だ。
健康とは程遠い。病人なのだから当たり前なのだろうが、この世の者ではないよういな、そんな雰囲気を放つ少女がいた。
「ああ、ああ。ついに迎えに来てくれたのですね。愛しい兄さま」
夢うつつの面持ちだった。両手を広げ、恍惚の表情を浮かべている。血の気がないはずなのに、頬にはうっすらと朱がさしている。
そして、その横には。
「あらあら、サクラさん。お兄さんは今日は来られていないようですよ? うふふ、それも分からないほどになってしまったのですね。うふふ、うふふ――」
ナース服を着て、ニタニタと笑う三間坂シィ控えていた。
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