水に浮かぶ虹

 蝉の鳴き声がした。梅雨は明けたらしく、額に滲む汗も堂に入っている。試験が終われば夏休みももう近い。

 由比と帆足は試験勉強と称して図書室にいた。学科が違うので試験内容も異なる。単に一緒にいる口実ともいえた。帆足の方が勉強は得意で、普通科ではトップクラスの成績だ。教わることはあっても教えられることは少ない。

「今日は暑いねえ」

「昨日よりも気温が高いわね」

「こんな日はクリームソーダかなあ」

「自販機にも食堂にもないメニューだけれど、確かにそんな気分になるわ」

「図書室はこんなに涼しいのに本当に不思議だよねえ」

「どこかへ寄っていく?」

「いろは庵だとクリームソーダに七色の求肥が乗ったやつがあるんだよ。期間限定なんだって」

「それだったら、この間灯理と行った時に頼んだわ。雅臣が好きそうだと思って」

 帆足はノートから顔を上げて微笑んだ。

「じゃあ今度はぼくと行こう」

「素敵ね」

「でも試験終わったらかなあ」

「そうね」

「だよねえ」

 由比は落胆した顔を隠そうとしなかった。学科試験は気が重い。数字や英語や化学式と睨めっこするのは思っている以上に疲れる。歴史は唯一得意で、平均点は楽にとれる教科だった。日本語は絶望的で、赤点の回避が当面の目標だ。夏休みの補習だけは何としても避けたかった。皆と遊べなくなるのは寂しい。

「そういえば、今日は虹の日なんだってよ」

「あら、そうなの。初めて聞いたわ」

「語呂で日付が七色だからっていうけど、ぼくも今朝ニュースで見たばっかりなんだよ。梅雨時期にあんなに雨が降るのに虹は見られなかったから、夏が終わるまでには見られると良いねえ」

「一緒に見られたら素敵ね」

「ほんとにね。灯理ちゃんだと宝探しに忙しくて眺めている余裕はなさそうだから、虹が見えてもちょっと勿体ないけど」

「レプラホーンだから仕方ないわね。運命か性分でしょう」

「本当に虹の麓には宝ものがあるのかなあ」

「信じていたらあるはずよ」

「帆足ちゃんもそう思う?」

「ないと灯理が困るでしょう。あの子の困った顔は苦手なの。ついなんとかしたくなるから。泣かないけど泣きそうなのよ」

「じゃあきっとどこかにあるんだねえ。ぼくも灯理ちゃんの涙は見たくないから」

 もっと見たくないのは帆足の涙だろうか、と考えて自分の前で泣いてくれるならその方がいいなと感じた。言葉にせずに飲み込んで、帆足のノートに並ぶ文字を眺める。呪文みたいな化学式だ。

「勉強は苦手なんだけどさ」

「そうなの?」

「うん。でもこうやって勉強してる自分は嫌いじゃないんだ」

「ええ。そうみたいね」

「ほんとに? そう思う?」

「だって、途中で投げださないでしょう?」

「実はもう投げてて、落ちる途中かもしれないよ」

「嘘ばっかり」

 帆足は微笑む。すごく素敵なのでこっそり写真を撮りたいくらいだ。カメラを向けるのを嫌がるので、由比の写真フォルダにもそんなにたくさんの帆足はいない。目の前の彼女を目に焼き付けておこうなんて、格好をつけるくらいは許されるだろう。

「嘘だけど、頑張ると空回りすることもあるんだよね。帆足ちゃんに良いところを見てもらいたいぼくは、空回りを挽回する術を身につけようとしてるわけです。こういうの、言い訳って言うのかなあ」

「言葉を重ねれば誤解は減るわよ」

「そうかなあ。なら良かった」

「言い訳はできるならしたくないけれど、本当に誤解なら、言い訳をしたいし、してほしいわね。なにも言わないのは嫌だわ」

 少し寂しそうに帆足は言った。

「じゃあテストの前にクリームソーダを飲む場合の言い訳を考えないと。やっぱり景気づけかなあ。うまくいきますように、みたいなのって大事だよね」

「そうね。とても大事だわ」

 一時間後、笑い合ってカフェのテーブルに同じように座る。特製の求肥は七色あるので、グラスの中で浮いたり沈んだりしていて少し食べづらい。しばらく眺めて、アイスが溶ける前に写真を撮った。

「眩しいねえ」

 由比は目を細めた。

 夏の強い光が窓越しでもわかった。古風な作りのステンドグラスのような光が壁やテーブルに落ちる。控えめに言っても美しい。少しずつ違う色が使われていて、何色あるのかは途中で考えるのを止めた。それこそ虹色だ。

 期間限定のクリームソーダの効果は上々だ。美味しいか美味しくないか、というよりは楽しいし嬉しいものだった。テストの結果は思った以上によくできていて、景気づけはずいぶん上手くいった。素敵な夏休みになるだろう。

 虹の日に虹を見たのだから当然だ。

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