聖女と王子
「彼が私の婚約者ですか」
聖女がとても嫌そうな顔をしたのを王子は見逃さなかった。王子と聖女は同じ歳だったが、相性が悪かった。
「何?文句があるのか?王子と婚約出来るのなんて凄いことなんだぞ」
どこにでもいる悪ガキだった幼い頃の王子は、それを咎められることもなく甘やかされて育った。
「神官、私は帰ります。手を繋いでください」
一方、生まれた時から聖女だと持て囃されながらも、一般家庭の温かさを知らない聖女は、自分に敵意を向ける相手と同じ空間にいる意味を見出せなかった。
ーーだって、お母様もゴミのような人間はゴミ箱に捨てればいいと言っていたもの。お母様もゴミの一歩手前だけど、まだ落書きくらいは出来る余地があるでしょう?
恐らく、聖女にとって王子は相手にする価値もないゴミにしか見えていなかった。
聖女は朝早くに起きて、日が沈むまで各地の教会を巡って加護を分け与えるのが仕事だ。日が沈めば疲れ切って寝てしまう日々に、私室では笑顔はだんだんと薄れていったが、信者の前では笑顔を絶やすことはなかった。
「今からお祈りを捧げます」
「おいブス、聞いているのか?」
王子の前では彼女は笑顔どころか最低限の会話しか行わない。朝の挨拶と祈りの開始を告げ、退室の言葉を毎日同じように繰り返すだけで、王子の言葉に反応をすることはなかった。
「神官、婚約者がうるさくて祈りが捧げられません。今日は帰ります」
王子には何度も丁寧な口調で聖女に接しなさいと進言があったようだが、何年経っても彼の態度は改善されなかった。半分は聖女の徹底した無視も原因なので、教会側も聖女に同じように進言していたが、愛想というのは本人にやる気がなければ身につけることは難しかった。
王国が栄えたのは聖女が神の加護を広めてくれているからだ。聖女を手に入れた者が次代の王と言われているのに、王子との仲は絶望的だった。
「キャハハッ!キャー!やめてよーくすぐったい!」
教会に併設された孤児院では、満開の笑顔を見せて遊ぶ聖女に人々の心は和み、彼女はたくさんの人に愛されていた。
教会側はある日聖女と王子を孤児院に一緒に連れていくことを提案した。
「笑えば可愛いじゃないか」
笑いながら転げ回る聖女を見て、王子が恋に落ちたと誰もが気が付いたが、彼が一緒に転げ回ることはなかった。そういった遊び方を知らなかったのだ。
「聖女、チェスを覚えたんだ。一緒にやろう」
「少しだけなら」
それでも僅かに王子は聖女に歩み寄って、敵意がなければ聖女も王子と時間を過ごせたので、皇室も教会側も緊張が和らいでいた。
「聖女は何が好きなんだ」
「料理長の作った料理です」
「聖女、聖女、今日は俺の誕生日だ」
「おめでとうございます。料理長にクッキーを焼いてもらいました。プレゼントです」
二人は拙いながらも愛を育んでいるように見えたが、王子がアカデミーに入るようになると、環境はガラリと変わった。
王子はチヤホヤと愛想を振り撒く女性達に囲まれて、愛想笑いもしない聖女に冷たく接するようになった。元々関心の薄かった聖女は毎朝決まりの言葉しか言わない日々に戻る。
「婚約者とは無意味なものですね」
「聖女様が苦慮されることはありません。ですが朝のお勤めだけは続けてください」
聖女の世話をしていた神官は、神官長となっていた。彼もまた、彼女の身の回りを世話するのみで、彼女が笑顔を見せる対象ではなかった。
「神官長、私はお腹が空いた」
「それは大変です。あぁ、食事の時間を三十分も過ぎていましたね。急いで食堂に向かいます」
神官長は聖女が成人しても、彼女を小脇に抱えて走る癖は治らなかった。
彼女は宙に浮きながら猛スピードで廊下を駆け抜けるのが好きなようで、神官長は決して見ることはできなかったが、抱えられている聖女様はいつも笑っていたので、誰もがその様子を微笑ましく見ていた。
聖女が夕方、神殿に戻ろうとした時、聖女は急に馬車を止めた。馬車が止まったのは、女性の腰に手を回した王子の前だった。
「いや、これは違うぞ、誤解するなよ?」
「どう誤解すればいいのか…馬車を出してください」
聖女は王子に何も問いかけるわけでもなく、事実確認したいだけだったのかもしれない。
その後、王子が面会を要求しても、聖女はそれに応えることもなく、朝の祈りも会話が成り立つことはなかった。彼女は義務として神官長の言いつけを守って祈りを捧げるだけだ。
「神官長、聖女は怒っていたか?」
王子は度々神官長を呼び出したが、神官長は彼の味方につくこともない。どちらかといえば、聖女を蔑ろにしている王子を嫌っていた。彼は心神深い神官長だ。
「お心を改められれば、聖女様のお心も手に入るでしょう」
神官長のお堅いお言葉は、王子の心の奥深くまで届くことはなかった。無視を決め込む聖女に彼の薄い恋心は届くことはなかった。時間が経てば王子は女性を侍らせ、聖女が何も口にしないのをいいことに、それが常態化するようになる。
「聖なる父よ、ただ一つの愛し子のお願いを聞いてください。婚約者との縁を切りたいのです」
長年聖女の隣にいた神官長でも、聖女が神に乞い願うのを聞いたのは、後にも先にもそれが最初で最後だ。
聖女の願いが他にないとは、神も思っていなかった。どれだけ寵愛し、愛を恵んでも、以降の聖女は神の愛に応えることはなく、何も神に望むことはない。
「神官長、私は今とても幸せ」
彼女の幸せは、出会った人の幸せを願い、共に泣き、共に眠ること。婚約破棄され聖女を辞めて、聖女はやっと幸せになったのだが、それは真に聖女の仕事に変わりなかった。
神がどれだけ泣き縋ろうとも、神官長は聖女と同じように神の願いを聞くことはない。
地に落ちた王子は、心から笑って過ごす聖女を物陰からこっそりと見ているらしいと風の噂を聞いて、聖騎士達は守りを固める。
「今日もお勤めご苦労様です」
どれだけ疲れていても、聖女の笑顔一つで世界は綻ぶのだ。
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