1-4 ぼくだけの君

 部屋の温度が、確実に下がっている。

 ベッドに正座しているエルゼを、離れた位置のヴィルヘルムがフードの奥からじっと見ていた。

 

「怪我、したの?」


 溢れ出る魔力が、周囲を凍りつかせんばかりに冷やしている。

 その、纏う空気、魔力を帯び殺気に酷似したその気配に、アルツトが息を呑んだ。

 シュミットが条件反射的に右手を剣の柄に置く。エルゼも帯剣していたら同じようにしただろう。意志ではどうにもならない本能的な恐怖に、肌が粟立つのを感じる。


 エルゼにかけられた冷静に聴こえる声が不気味に感じるほど、ヴィルヘルムを中心に渦巻く魔力は激しさを帯びている。


 これが、第一魔法士団を預かる魔法士。この国最高峰の魔法士が、ここにいる。


「……怪我は、してない」


 だが、相手は魔法士がただ一人。

 エルゼも一時は騎士団長を任された身である。怯えを見せるなどプライドが許さない。


「具合は?」


「……は?」


 ヴィルヘルムが、エルゼの前に立った。


 具合、とはなんだ。

 むしろそちらが大丈夫かと問いたい。


 やはり強く蹴り過ぎたのだろうか。エルゼへの報復を、という空気感ではないような気がしてきたがどうだろう。

 いや、実は側頭部が凹んでいてそのせいで感情の発露がおかしくなってしまったのかもしれない。


 ふいに外れたその視線が、今度はアルツトに移動した。


「どういう状況?」


「……鍛錬、だってよ。第三騎士団の連中と……っておい待て待て待て待て!」


 言い終わる前に踵を返したヴィルヘルムの肩をアルツトが掴んで止めた。


「止めるな」


「そんな殺意振り撒いてるやつ止めるに決まってんだろ! これ以上オレの仕事増やすんじゃねえよ! よく見ろバカ! 返り血だよ! むしろエルゼ嬢が加害者だ!」


「知ったことじゃない。全員殺す。止めるならお前も」


 物騒の上に物騒を重ねた発言に、エルゼは瞬いた。

 なにこれ。どういう状況?


 そっとシュミットを伺うと、無表情になっていた。その無表情がエルゼを見て、顎でヴィルヘルムを指す。

 止めろ、ということだろう。たぶん。


 こういう判断に困ることが起こった時、エルゼはシュミットに従うことにしている。この副官の言う通りにしておけば間違いない。


「えええええと…………ヴィルヘルム、さん……?」


「大丈夫。すぐに片付けて来るよ」


 よくわからないなりにヴィルヘルムに声を掛けると、何故か穏やかな笑みが返ってきた。

 なにそれこわい。

 こんなに危険しか感じない大丈夫に今まで遭遇したことがあっただろうか。


「えっと、ほんとに返り血だから……私は、怪我してない」


「君に向けてそんな汚いものを飛ばしたことが許し難い」


 まあ綺麗とは思わないが、返り血を浴びる程度はそう珍しいことでもない。

 それに、この血の主はもっとたいへんな目に合っていると思う。木剣で斬れた、ということもないだろうから、飛んだ血は鼻か口から出た、あるいはおかしな具合に傷を負ったのだろう。

 骨がどうかなって皮膚を傷付けるとか、なんかそんな感じで。すごく痛いやつだ。


「エルゼに向けられたものはぼくに向けたと同じこと。絶対に許さない。二度とそんな舐めた真似ができないよう体中の血を絞り尽くしてやる」


 なにそれこわい。


 怖いけど、なんとなく見えてきた、気がする。

 おそらく今、この魔法士の殺意の餌食にされそうに、危険に晒されているのは先程医務室から叩き出された第三騎士団の面々だ。ぼこぼこにされて回復したばかりの、エルゼの元部下たち。


「……ちょっと待って。あいつらは」


 エルゼの言葉を遮って、子どもが駄々を捏ねるように、いやいやとフードを被った頭が振られる。


「あいつら、と、君がそう呼ぶことも不愉快だ。君を慕うことも、君が誰かを気にかけることも、全て、不愉快で許し難い。全部壊してしまいたい」


 両の手が、顔を覆った。

 顔を覆ったヴィルヘルムから、うわ言のような声が紡がれる。


「ぼくのエルゼなのに、ぼくだけのエルゼなのに、今もまだ君の心はここにある。そんなもの、ぜんぶぼくがこの手で……」


 ……なんだって?


 再び助けを求めてシュミットを見るが、今度は目を合わせて貰えなかった。

 エルゼ、というよりヴィルヘルムから隠すように逸らした頭と肩が、小刻みに震えている。


 こいつ、笑ってる……!


「ぼくには、エルゼしかいないのに……」


 ふらり、とヴィルヘルムの身体が崩れ落ちた。


「え、ヴィル!?」


 床に座り込んだヴィルヘルムに駆け寄ると、どうやら意識がない。

 ぐったりと脱力した身体は着ているローブも含めあちこち汚れ、目元のクマはいつになく濃いし、目を閉じていてもわかるぐらい憔悴している。あとちょっと臭う。


「……過労だな」


 ヴィルヘルムを見下ろすアルツトが、苦虫を噛み潰したような表情で診断を下した。


「過労……え? 過労!? だって、これなんか錯乱してなかった!?」


「アンタらも戦ってハイになったりすんだろ。大体は魔法士も同じだが、魔力は精神に作用すっからこういう場合もある。魔法士には稀によくあるって感じだな。一時的なもんだから一晩寝りゃ治る。気にすんな」


 稀によくあるってなに、どっち。

 気にしないとか難しいし、もうやだ魔法士意味わかんない。こわい。


「今回の遠征、元は十日超の予定だったが三日で終わらせてきてんだよ。現地との往復に二日、飛ばせるだけ飛ばしてな。国境付近に湧いたっつー徒党を組んだ賊の討伐って任務だったが、作戦も部下もガン無視。こいつ一人、問答無用の大規模魔法で一発。全部凍らせて終了。普通の魔法士なら魔力枯渇で死んでる。お手柄、と言えんこともないが、現地の状況確認怠って決行したから査問行きだ。呼び出し食らうまで謹慎処分ってことになってるから、めんどくせえのに見つかる前にさっさと連れ帰れ」


「え」


 それは、結構まずい事態ではなかろうか。


「オレの知る限り一般人に被害は出てない。状況確認怠った、ってのはあくまでこのバカ以外の主観。ただ説明を怠ったのは間違いない。いつものことだがな。いつも通り、相応の説教食らうって話だよ。こいつは聞く耳なんて持ってねえだろうけど」


 いや、そんな単純な話ではない気だろう。


 今回の任務は、ブランカ共和国との国境付近、徒党を組みやや規模が膨れつつある野党の討伐。

 戦争を終えたとはいえ、むしろ戦争を終えた今だからこそ、国境付近のいざこざは慎重になる必要がある。


 ましてその野党連中が、戦争終結の煽りを食ったどちらかの国、あるいは両方の軍人崩れ、その集まりである可能性も十二分にある。その場合はそこそこ繊細な状況になり得るだろう。


 第二騎士団と第一魔法士団の共同任務だが、国境付近であることが考慮され、人数はかなり絞って行ったはずだ。

 その規模に見合わない、騎士、魔法士、両名の団長二人が同行したのはあらゆる展開を想定してのこと。


 最悪の場合一人でも戦況を変えることができるヴィルヘルムがいる第一魔法士団が選ばれたのも、そういった事情があってのことだろう。


 そして、万一の場合その魔法士団長の暴走を諌めることを期待されての第二騎士団。『騎士団の理性』と渾名される第二騎士団団長と、アルツト魔法医士の同行。


 そんな二人がただ黙ってヴィルヘルムの暴挙を許したとは考え難い。


 後始末は第二騎士団の連中に任せてきた、というアルツトの言葉はほぼ耳に入らなかった。


 意識を失いエルゼの胸に凭れた状態のヴィルヘルムから、先ほど振り撒いていた魔王みたいな気配が嘘のような平和な寝息が漏れている。


「なんで、そんな無茶……」


 エルゼのこぼした独り言に、アルツトとシュミットが視線を合わせた。


「それ、本気で言ってます?」


 途中から安全であることを確信したらしく、成り行きを静観していたシュミットが呆れた様子でため息混じりに言った。


「アンタのため、っていうか、アンタのとこに早く帰って来るため。それ以外あるかよ。決まってんだろーが」


 言葉を継いだアルツトのそれを、否定する材料をエルゼは持ってない。


 そんなヴィルヘルムに返せるものも、示せる価値も何も、何ひとつ。

 エルゼは、何も持ってない。


 帰宅して着替えもそこそこに部屋を訪れ、開口一番にエルゼの無事を確認したヴィルヘルムを思い出す。

 これを、この状態を「愛されている」と、呼ぶのだろうか。

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