Episode.1

1-1 新しい生活

 王都にあるヴェンデル伯爵家の屋敷は、最下層に近い出身であるエルゼにとって未知の世界だった。

 広い庭付きの二階建ての建物には使用していない部屋が幾つもあり、複数の使用人が住み込みで管理をしている。

 例え家主であるヴィルヘルムが長く不在にしようとも、使用していないものも含めた全ての部屋に行き届いた管理が徹底されるのだろう。


 この常に人目のある屋敷が、互いに結婚を承諾した日からエルゼの帰る場所になった。


 とは言うものの、今一つ実感も感慨も湧いてこないのは、エルゼがこの五日あまり与えられた一室からほぼ出ることなく過ごしているからかもしれない。


 広過ぎる部屋に、立派過ぎる調度品。肌触りの良いドレスに、無尽蔵かと思われるぐらい次々と出てくる革張りの立派な本。


 刺繍や裁縫など、読書以外にも暇潰しに提示されたものは色々とあり、どれも一度は手にとってみたものの、以前副官に言われた通り超不器用な自分を自覚するだけに終わった。


 実際手芸系は特に壊滅的だった。不器用過ぎて刺繍をすれば指が穴だらけになり、編み棒も針も折ったし、布は裂け糸は切れた。

 剣技以外誇れるものが無さそうな自分に改めて気付かされた。


 持て余している。

 暇である。やることがない。

 掃除洗濯など家事の類いは全て使用人が行っている。エルゼがこの家でやるべきことはない。


 読書は別に嫌いではないが、あくまで鍛錬と執務の合間の息抜きとして。読書を中心に据えた生活を続けられるほどエルゼは落ち着いた質ではない。

 ただ、主治医であるアルツトに絶対安静を厳命されている。


 五日前、気持ちを確かめ合ったあの直後、エルゼと一緒にアルツトから話を聞いたヴィルヘルムは、直ちにヴェンデル伯爵家の屋敷へとエルゼを連れ帰り、部屋に押し込め、屋敷に居る全ての使用人にエルゼに絶対的な安静を取らせるよう厳命した。


 同時にエルゼには安静にしているよう懇願を。

 さらに言うと、どうしても安静にできないなら魔法で眠らせる、とも。


 魔法で意思を奪われる、という状態には抵抗がある。

 安静にしていなければならない理由も理由だ。

 実際にあまり調子はよくない。倦怠感が付きまとい、エルゼにしては食も細い。そのせいだけではないだろうが、自覚できるぐらい鬱々としてもいる。


 この屋敷に来た五日前のあの日。ヴィルヘルムと気持ちを確認し合ったあの日。

 アルツトによる定期的な検診を受けたあの日の診察の結果、エルゼの腹には子がいないということになった、らしい。


 らしい、というのは色々説明をされたことは覚えているものの、衝撃が大きすぎて説明の内容をよく覚えていないからだ。

 ついでに言うと、その日は言われるままに鎮静効果のあるという薬草飲んで眠った。睡眠効果でもあったのだろう。目覚めたのは丸一日を過ぎた夕暮れ時。


 ヴィルヘルムはエルゼが目覚めないかと昼過ぎ近くまで傍にいたらしいが、目覚めたその時には既にいなかった。


 騎士団と魔法士団との遠征で十日程の期間、不在になるタイミング。

 魔法医師であるアルツトも遠征に同行したため不在。

 その件で話せる者がいないまま、今日に至る。


 ただ、とにかく腹に子はいない。


 空っぽの腹を抱え、エルゼは何をするでもなくぼんやりと過ごしていた。

 

 因果関係は判らない。

 子が流れたのか、そもそも最初からいなかったのか。

 だから体調が優れないのか、体調が優れないから子が育たなかったのか。


 判ることはただ、今現在この腹の中に子はいない、ということだけだ。


 目覚めてすぐ、見知らぬ部屋にひとりでぽつんといた。

 広すぎる部屋には、大きな窓から夕暮れ時の陽が差していた。


 赤く染まったその色に、思うのはいつか立っていた戦場の景色。

 放たれた火で染まる、その色。

 自らが屠った者達の血で濡れた、刃の色。


 その者達全てが、かつてはどこかの女が産んだ者達。誰かの息子で、誰かの娘で、その死を惜しみ、悲しんだかもしれない誰かがいる者達だ。

 そんなことは分かっていた。分かっていても殺した。


 後悔はしていない。


 エルゼはエルゼが己の命よりも大切にするもののために、何度でも敵を斬る。騎士ではなくなった今でも、必要があればそうする。何度でも何人でも、斬り捨てる。


 立ち塞がるものは全て殺す。殺してきた。


 でも、だからこそ、だから、そのせいで、思ってしまうのだ。


 エルゼに、惜しむ権利はあるだろうか。

 失くしたかもしれない命を、惜しむ権利は。

 

 そして、同時に考える。


 子がいないなら、結婚する必要はあるだろうか、と。


 ひとりきりの部屋、身体を包み込むかのような立派な椅子に身を沈め、分不相応なドレスに身を包み、膝には読む気のない本を広げて、延々と取り留めのないことを考え続けている。


 既に今が一体いつなのかもわからないし興味も湧かない。


 ただずっと、同じことを考え続けている。


 義務だろうか。

 情けだろうか。


 何がいけなかったのだろう。

 エルゼに何か問題があったのか。


 延々と、考え続けている。


 ふと、部屋の外が騒がしいことに気付いた。

 騒がしい足音が近付いてくる。


「エルゼ!」


 扉が乱暴に開け放たれたのと、草臥れたローブ姿の男が部屋に飛び込んできたのは同時だった。


「……ヴィル、ヘルム」


 久々に出した声は掠れていた。

 そういえば、ここ数日気を遣ってあれやこれやと話しかけてくれる使用人はいたが、エルゼからは首を縦に振るか横に振るかの意思表示しかしていなかったかもしれない。


 一直線に近付いて来て椅子の足元に跪いたヴィルヘルムが、エルゼの顔を見上げてくる。その指が、目元に触れた。

 濡れた指先をしばし見詰め、エルゼの手を取り矢継ぎ早に問いかける。


「エルゼ、大丈夫? 体調は? 辛くない? 痛いところはない? ぼくがいない間、不便はなかった?」


「ヴィル……」


「うん、ごめんね。こんなタイミングで不在にして」


「ヴィル」


「うん」


 いつも着ている魔法士団のローブはちょっと埃っぽくて、指先も何もかも汚れていて、爪の間にも何かが挟まり黒く汚れている。たぶん、遠征中まともに入浴などはできていなかったのだろう。


「って、ごめん、汚れてた。とりあえずすぐに着替えて……くる……」


 ぱっと離された手、立ち上がり後退るその姿を追いかけて、気付けばエルゼも立ち上がっていた。


「ヴィルヘルム」


 ローブの裾を掴んで、しかし何故か眩暈がした。

 ぐらりと揺れそうになる身体を意志の力でその場に留めた。


「……エルゼ?」


 口から、たくさんのものが溢れて出そうだった。ぐるぐると渦巻くものが、その中で、何を口にするべきか。

 考えようとしても、うまく思考がまとまらない。考える端から解けていくような気がする。


「………………………………結婚する必要は……ないと思う、だから……」


 言いながら、喉の奥から言葉以上の何かが込み上げてくる。その気持ち悪さに塞がれて、それ以上何も出てこない。


 いつの間にか視界にはローブの裾と長靴の足元だけになっていた。無意識のうちに俯いていた。

 だめだ。きちんと、話をしなければ。


 気合をかき集め、顔を上げる。

 視線の先には、深く被ったフードで陰になったヴィルヘルムの顔があった。


 凍り付き、表情の抜け落ちた、顔が。


 その表情の意味するところはなんだろう。

 なぜ黙るのか。どうして何も言ってくれないのか。やっぱり義務で結婚とか言い出したのか。今更引っ込みがつかなくて。後悔しているのか。


 エルゼの中で感情がぐるぐる掻き回されている気がする。


「少し」


 続く言葉に、世界が色を失った。


「少し、考えさせてほしい」


「………………………………」


 やっぱり。

 やっぱり、そうだよね。


 落胆に力が抜けた。ヴィルヘルムのローブを掴んでいた手が離れた。


 意識するより速く、身体が動いた。


 気が付けば、ドレスの裾が舞うように捲れ上がり、エルゼの右脚、足の甲が、ヴィルヘルムの側頭部を捉えていた。

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