0-7 エルゼとヴィルヘルム

 切れたストロベリーブロンドの一部がはらりと落ちた。

 ヴィルヘルムの鼻腔から盛大に流れる血が頬を伝い髪を濡らし床に垂れる。


「……だった?」


 エルゼの口から漏れたのは唸るような声音。床に突き立てたメスを握る手に力が籠る。


「だった、ってなに。なんで過去形なの」


 圧し掛かる体勢で向かい合ったエルゼの顔を見上げたヴィルヘルムの目が、大きく開かれた。


「ちが、ちょ、ま、待ってエルゼ」


「うるさい! ばか!」


 ヴィルヘルムの頬に透明な雫が落ちた。真っ赤な血と混じり合って流れていく。


「あの熱だけで、ってなに!? 私はそんなのじゃ全然足りない! そんなんじゃ、私は生きていけない!」


「え」


 両手で掴んだ首元を捻りあげる。

 口から苦し気な息が漏れたが、何かを言いかけたヴィルヘルムはそこで言葉を切り、それっきり無抵抗になった。


「勝手に過去にしてんじゃないわよ! なんで勝手に諦めてんの!? 懇願しなさいよ! 絶対何がなんでも私が欲しいって言いなさい! 童貞とか知らないし! こちとら処女拗らせて素直になれない馬鹿女なんだから! もっと気を使いなさいよ! なんでもっと粘らないの! どうしてもって言われて、じゃあしょうがないわね、ってならないと私は素直になんてなれないのに!」


「ちょっと待って、童……いや、まあそれはいいや、待ってエルゼ。一回落ち着いて」


「好きなら好きって、ちゃんとあの時に言いなさいよ!」


「え、それは、言ったと思うけど」


 ……確かに。


 好きだとか、愛してるとか、耳朶に直接吹き込まれたあれやこれやを思い出す。ついでにあれとかそれとかなんか色々。


 そうだった。言われてた。

 でも。


「大体! なんで朝もういなかったの!」


「朝一で魔法士団の会議があって……声かけたけど、君は起きなかったから。すぐ顔合わせて話すだろうから、って思って……たんだけど」


 エルゼが避けまくってそれもままならなかった、と。


「……ごめん。もっと早く、無理やりにでも君と話すべきだったみたいだ」


 黙り込んだエルゼの視界の端で、ヴィルヘルムの手が持ち上がった。濡れたエルゼの頬を優しく拭い、そっと目元に触れる。

 一方で、エルゼは腹の上に乗り上げ、両手で襟首を掴みかかっている状態。ほんの少しだけ緩めた手の下で、ヴィルヘルムが息を吐いた。


「エルゼ」


「……なに」


「怒ってる?」


「他のどういう状態に見えるっていうの」


「言ったら本当に怒りそうだから言わないでおく。……あのさ、勘違いだったらごめんなさいなんだけど」


 一瞬の逡巡。言い淀んだヴィルヘルムの目に、熱がこもる。


「……もしかして、ぼく片想いじゃ、なかった?」


 思わず離した手を、ヴィルヘルムの手が掴んだ。上半身を起こしたヴィルヘルムの手が背中に回る。


 無言を肯定と受けて、あるいはそのエルゼの表情から否定以外の返答を受け取って、ヴィルヘルムは確信に近いものを得たのかもしれない。


 息がかかるほど距離が近い。互いの睫毛が、触れそうなぐらい。


「ねえ、エルゼ」


 ヴィルヘルムが名を呼ぶ。

 その指先が、掴んだ手首をさわりと撫でる。

 熱を持った視線が注がれている。触れるというその行為に、嫌悪感がないことを確かめるように。


 そんなもの、あるわけはないのに。


「もう一度、やり直させて」


 唇が触れそうな至近距離。耳元で、声がする。


 もう、顔を上げてなどいられなかった。限界だ。いつの間にか甘い雰囲気しかない。


 鼻血出してるくせに。目の下には濃いクマをつくってるくせに。ついさっきまで、死にそうな顔をしてたくせに。


 今はもう平気そうな顔して、エルゼばかりが照れくさくて死にそうで、でも、もう間違えるわけにはいかない。

 俯きながらも頷けば、視界の隅で淡い光が見えた。


 ふわりと浮いたエルゼの身体が、先ほどまで腰かけていたベッドの上に着地する。


 赤く濡れる自らの鼻の下を、腕で乱暴に拭ったヴィルヘルムが、そのエルゼの足元で姿勢を正した。


 片膝をつき、跪く。


「エルゼ・マイヤー」


 首を垂れるその姿は、まるで主君に忠誠を誓うもの。


「これから先この命が尽きるまで、生涯君を愛したい。この命とそれ以外の全てをかけて、君のために在り続けると誓う」


 冷静に、淡々と紡いでいるように感じられた言葉に反し、顔を上げたヴィルヘルムはまるで動揺しているかのように開きかけた口を一旦閉じた。


 その口を再び開いて、もう一度閉じて、それを幾度か繰り返し、落ち着きを促すように、自らの胸に手を当てる。

 そして深呼吸をして、今度はしっかりと、エルゼと目を合わせた。


「エルゼ」


「……はい」


「ぼくと、結婚してください」


 言い終えたヴィルヘルムは僅かな間を置いて、堪え切れないと言わんばかりに顔を伏せた。


「………………あの……実は緊張で死にそうだから、早めに返答をくれると嬉しい」


 片手で目元を覆う、その姿は締まらない。

 

 そんなこと、どうだって良いことではあるけれど。


「……勘違いじゃなければ、君からはある程度の好意があるように感じているんだけど、気のせい……それとも好意はあるけど結婚までは考えられないとか、精々愛人止まりだろとか、やっぱりぼくの妄想で気のせいで勘違いだったとか言うならもういっそ殺して欲しい気分です……ちょっと、吐きそうだからこれ以上の醜態晒す前に一回帰らせて貰いたい……」


 ぼそぼそと喋り出したヴィルヘルムの肩に、そっと手を置く。


「ヴィル」


「あああああああい!」


 物凄い揺れ方をしたヴィルヘルムが、伏せていた顔を上げた。

 エルゼもそのすぐ前にしゃがみ込む。


 覗き込むようにすれば、潤んだ瞳と目が合った。目を縁取る睫毛は髪と同じか、ちょっと濃い色をしている。

 鮮やかなグリーンの瞳が、怯えたようにエルゼを見返してくる。


 跪くヴィルヘルムのその首筋に、両腕を回す。

 肩に顔を埋めれば、あの夜と同じ匂いがした。


「……私の方こそ、ごめんなさい。ごめん。怖かったの。あなたにどう思われてるのかとか、一回寝たぐらいで何様のつもりだとか、お前なんか知るかとか言われたらどうしようとか」


「想像のぼくが酷い」


「あと恥ずかしかったし、どんな顔すればいいのかわからなかったし」


 なにひとつ、言い訳にはならないけど。

 それでも、ありのままを話すことしか、もうエルゼにできることなんてない。


 ありのまま、全てを。


「あなたが私に救われたという三年前のあの戦場で、私こそあなたに命を救われた。それにね、あなたがいたから思えたの。必ず生きて戻ると。私一人だったらきっと簡単に諦めてた。その上偉そうな啖呵切ったものの殆ど動けなかった私を、守って戦ったのはヴィルヘルムだったでしょ。覚えてる。忘れるわけない。敵に立ち向かう姿を見て、この世界で一番かっこいい人だと思った」


 三年が経った今も覚えてる。その背中を、鮮明に覚えてる。


 ヴィルヘルムの両腕が、エルゼの背中に触れる。


「だから二か月前のあの夜も本当は、酔った勢いなんかじゃ、全然なかった。うれしかった。うれし過ぎて、不安になるぐらい。……今までなにひとつ言葉にできなくて、ごめんなさい」


 返答の代わりに、強く、抱きしめられた。


 それまで渦巻いていた負の感情の全部が、嘘みたいに溶けていく。


「私もずっと好きだった。今までの全部、ありがとう。だからねヴィルヘルム、私の方こそ、お願いしたい」

 

 大好き。

 愛してる。


 この気持ちだけで、今ならどんな奇蹟でも起こせる。


「私と、結婚してください」




〈 Episode.0 了〉

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