0-2 まるで水の中

 王宮の裏手にある騎士団の訓練棟と騎士団寮は、各団の区画に分けられ、第一から第五までの騎士団員がそれぞれ生活を共にしている。

 その中の第三騎士団に与えられている棟、訓練場が望める一番広い部屋が、団長である、いや、つい先ほどまで団長であったエルゼに与えられていた執務室である。


 執務室から奥へと続く私室とあわせ、既に個人的な物は全て片付け、衣類や多少の本、そのほとんどは先行して運び出してある。寮の方にも部屋は割り当てられていたが、そちらはほとんど使っていなかった。

 執務机の上に用意してある小さなトランクひとつで、持ち出す荷物は全てだ。


 私室で騎士団の団服を脱いで手早く私服に着替えたエルゼは、脱いだ服を丁寧にたたみ、寝台にのせた。

 白いパンツに黒の上着。第三騎士団に所属していることを示す鮮やかな黄のサッシュに、団長の証である肩章とマント、そして金の飾緒。ひとつひとつ、丁寧に並べていく。


 さらに戦場でのみ着用する戦闘用の制服。こちらについては結局、団長となってからは一度も袖を通すことがなかった。

 最後に、普段は着用しない儀礼式典用の制帽。

 これで、全て。


 ふと視界に過ったのは、姿見に映る自分。剣はなく、団服でもないことが少し新鮮で、ほんの少しだけ、寂しさを感じる。


 平民出身、二十五歳、女。結婚適齢期を過ぎ、剣を振るうのに邪魔でしかない髪は伸ばさず肩で切り揃えている。飾り気の無い短い黒髪に、化粧のひとつもしていない。

 ドレスどころかスカートすら、最後に穿いたのは子どもだった頃、遥か昔。


 女としてはいかがなものかということは、自分でもよくわかっている。


 パンツに長靴、ブラウスに上着を羽織っただけの姿は胸元が膨らんでいなければ、まるで男のようだと自分でも思う。

 背が低い分、間違われるとしたら少年だろうか。二十五歳で少年に間違われる女、わりと笑えない。


 世間一般で望まれるような淑やかで貞淑な女でも、若くて美人で可愛げのある女でもない。

 剣を振るうために鍛え上げた肉体は筋肉でムキムキ……とまでは言わないが、柔らかさはない。胸部の肉はそれなりにあると思うが、腹は薄っすら割れているし、「華奢」あるいは「儚げ」などという言葉とは無縁である。


 ……だから、だろうか。

 だから、一晩きりの相手にしかなれなかったのだろうか。


「…………」


 いや、馬鹿なことを考えてしまった。

 今更だ。今更。もう、エルゼの道は定まっているのだから。


 今後、そう、今後は、スカートぐらい穿くべきなのかもしれない。

 まだ確定ではないけれど、生まれてくるであろう我が子のためにも、今までしてこなかった人並みの暮らしをしたい、良い母親になりたいと、そう思っている。

 誰もが当たり前に得る権利を有する、当たり前の暮らしを与えてやりたい。何よりも、大切にしたい、しなければと思っているのだ。

 そもそも妊娠はまだ確定ではないけれど。


 腹に手を当ててみるも、自分ではよくわからない。そもそも本当にこの腹の中に命が宿っているのだろうか。信じられないし、今だ変化は感じられない。


 気のせいかもしれないその温もりに、うっすらと感じていた心細さが少しなりとも緩和された気もする。


 大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせる。


 剣を返上し、団服を脱いでしまえば、エルゼが騎士であることを示すものは何もなくなる。

 これから先はもう騎士ではない、ただのエルゼ・マイヤーだ。


 後悔はしていない。それでもさすがに、感傷的にはなる。心残りがないとも言わない。

 自分で決めた退団。それでも本音を言えば、今この時に至ってなお、迷いはある。


 自ら望んで騎士となり、十年。十五で従士として入団、そこから叩き上げ、戦場で功績を上げ、がむしゃらに剣を振るって走り抜けた十年。

 幸運と不運によって異例の早さで団長にまで登り付め、望みうる最高の栄誉を得たと思っている。


 まだ騎士として、剣士として、この国のためにやれることはある。そう、思う。


 それでも、ようやく訪れた本当の平和を、新たな命と共にこれからは享受する側になると決めたのだ。


 最後に今一度たたんだ団服に触れ、エルゼはもう二度と訪れることのない部屋を出た。


「マイヤー団長」


 執務室にはいつものようにエルゼの副心、先ほどエルゼが置き去りにしてきた会議室から抜け出してきたらしい、第三騎士団副団長のティハルト・フォン・シュミットが佇んでいた。


 今し方エルゼが脱いだ団服に、返上した剣、それらを纏うシュミットが、今は少しだけ眩い。

 これからエルゼに代り第三騎士団団長として団を率いていくシュミットは、いつにない真面目な表情でエルゼに詰め寄った。


「相手ってヴィルヘルム・フォン・ヴェンデルなんですか? まじで?」


 そつなく整った少し軽薄な雰囲気の青年は、その見た目に反し存外切れ者でもある。

 が、エルゼからは見上げる位置にあるその頭の中身、その明晰な頭脳も今は蒸発気味であるらしい。


「……他に言うことないの?」


「いつから? いつから付き合ってたんです?」


「付き合ってない!」


 なおも言い募るシュミットにうっかり声を荒げたのは、その質問内容に対しエルゼ自身、思うところがあるが故に他ならない。


 思わず上げたその声に、シュミットは目を見開いた。


「……え、堅物だと思ってたマイヤー団長が、剣術馬鹿で男遊びも男が絡まない遊びも何も知らない純粋初心で実はちょっと少女趣味なマイヤー団長が……? まさかそんな、意外とそういう感じだったんすか……まじで……?」


 よろりと、これ見よがしに一歩後退して見せられて、ちょっとイラっとする。

 片手をちょうど横にあったサイドチェストに置きつつも、その上にあった花瓶はしっかり避けているあたり、どこまで本気なのかは怪しいところだ。


「ねえ、ちょっと、今私のこと馬鹿って言った?」


「ヴェンデル団長もですよ……あんなこの世の楽しいことなんも知りません、興味ありませんみたいな顔して、なんだそれ、結局あいつもただの男かよ。しっかり遊んでんじゃねーか……」


「………………」


 遊び、そう。結局、そうなんだろう。


 別に本気にしたわけじゃない。お互いに酔っていたし、気分も高揚していたし、成り行きで、そういうことになっただけで、本気では、全然なかった。


 エルゼは初めてだったけど、少なくともあの時、あの瞬間、後悔なんて絶対しないと思ってた。

 そういうことから始まる関係があってもいいのかもしれない、とかちょっとだけ思ったりして。一人で舞い上がって、本当は相手にもされてないとか、そんなことにも気付けなかっただけ。


 意外と優しいことも、名前を呼ばれて嬉しかったことも、甘い吐息も、あの熱も、ぜんぶ、ただの遊び。


「……え、マイヤー団長……?」


 ぶつぶつ言っていたシュミットが、ギョッとしたようにエルゼを見た。


 たくさんの女の子たちからキャーキャー騒がれてる、副官の表情がまるで水の中のように歪んで見えた。


 気が付けば、ぼたりと、大粒の雫が床板にこぼれて吸い込まれていくのを、エルゼはまるで他人事のように眺めていた。

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