0-3 シュミットの悪夢

 今自分は泣いている。

 どこかで冷静な自分が、この今の状態をそう結論付ける。


 そう、エルゼは今泣いていた。

 鳴り物入りした腕に覚えのある新人団員、その全てを千切っては投げるように端から残らず叩きのめし、プライドも何もかも粉微塵にする剣鬼。泣く子も黙る第三騎士団団長。

 戦場で数えきれないぐらいの敵兵をその剣で屠ったエルゼ・マイヤーが。


 ただの、女みたいに。


 でも、感情が全然追いついてこない。

 なんで、私泣いてるんだろう。そんなことを思いながらも、馬鹿みたいに涙が溢れてくる。


「……っあああ、もう!」


 いつもビシっとヘアセットしてキメた頭をぐしゃぐしゃと自ら掻き回したティハルト・フォン・シュミットは、自らを奮い立たせるように声を上げ、エルゼの両肩をがしっと掴んだ。


 真正面、至近距離、いくら長く連れ添った副官とはいえ、この距離感はあまり経験がない。


「団長、やっぱり考え直してください」


「何を」


「辞めないで」


「もう剣返した」


「そこは俺が陛下にうまいこと言ってなんとかします。それに、まだ妊娠したって確定じゃないですよね。あくまでその疑いがある、でしょ。焦って辞める段階じゃない。お願いです団長、辞めないで」


「無理」


「意思固いな! ……でも、ほら、ヴェンデル団長ともまだちゃんと話してないですよね?」


 その距離感に驚いて一旦はぴたりと止まっていた涙が、再びじわりとせり上がってくる。

 こんな顔は誰にも見せたくなかったのに。自分の涙腺が少しも言う事をきかない。


「せめてちゃんと話しましょう。あの様子じゃ、今日初めて知らせたんでしょ」


 そう、シュミットの言う通り、今日初めてあの場で知らせた。


 でももう、傷付きたくない。

 あの夜以来、何度もヴィルヘルムに会おうとして、話をしようと第一魔法士団の執務室を訪れて、会議の度に声を掛けようとして、その全部が徒労に終わった。


 逃げるように去っていく背中を飽きるぐらい見送り、今忙しいので、と彼の副官から断りの言葉を聞くたびに、エルゼの中で諦めが積もっていった。

 避けられているのだと、バカなエルゼでも理解できるぐらい、徹底して避けられ続けた。


 だからもう、会議室で話したことで全て。あれ以上話すことなどない。

 子どもの父親になって欲しいとか、認知して欲しいとか、そんなことも思ってない。


 できることなら後はもう、ヴィルヘルムの影も形もないどこか遠くで、一切関わることなく静かに穏やかに暮らしたい。

 望むのは、それだけ。


「もう、いい」


「こんな時まで強がるなよ。よくないから泣いてんでしょうが」


「泣いてない」


「いや、さすがにそれはないわ」


 シュミットは、エルゼの肩を掴んだまま、大きく息を吐いた。

 聞き分けのない子どもに言い聞かせるように。


「行きずりの見ず知らずの他人とはわけが違うでしょ。ちゃんと責任取らせましょう」


 本当は、わかってる。馬鹿みたいな意地を張っていると。

 でも、エルゼとしても譲れないものがある。譲りたくないものがある。


「結構です。できればもう二度と関わりたくありません」


「ええええ。だってまだ確定じゃないんでしょ。どうすんの妊娠してなかったら。仕事以外に趣味らしい趣味も無いし超不器用だし、持て余すよ。隠居にはいくらなんでも早すぎるでしょ。それにもし本当に妊娠してて、子供産んでも、一人で育てられるんですか」


「どっちにしろ、もう戦わないって決めたの。ごめん。変なところ見せて。大丈夫。大丈夫だから」


「えー……………………あー、じゃあもういっそ俺なんて父親にどーです?」


 どこか冗談のようなその言葉に、思わず笑みがこぼれた。


「無理。私より弱いから」


「あんたより強いやつなんて数えるぐらいしかいねーよ!」


 ようやく、肩から離れた手が、エルゼの頬を拭う。


「……でも、ほんとにさ」


 一瞬、何かを堪えるような表情をした、そんな気がするシュミットは、次の瞬間へらりと笑った。


 いつもの、真意を隠した軽薄な笑み。

 でも、その距離はいつになく近い。


「ほーら、パパですよー、なんちゃってー」


「エルゼ!」


 ティハルト・フォン・シュミットが唾棄すべき冗談をエルゼの腹部に向けて常にない至近距離で放ったのと、執務室の扉が乱暴に開かれ明らかに取り乱した様子の第一魔法士団団長ヴィルヘルム・フォン・ヴェンデルが部屋に踏み込んだのはほぼ同時だった。

 そのことが、それまでの人生における最も悪い、少なくとも三本の指には入るぐらいには最悪な、冗談のような悪夢だった。


 完全に一度死んだ、そう思った。


 と、ヴァイス公国第三騎士団団長ティハルト・フォン・シュミットは後に語っている。



◇◆◇



 一年前、隣国ブランカ共和国との五十年に渡る戦争、その争いに終止符が打たれた。

 両国間で結ばれた和平。その締結から数えて八ヵ月のその日、ヴァイス公国は公妃となる姫君をブランカ共和国より迎え入れたのである。


 ヴァイス公国からは公王の姉、ユリア公女がブランカ共和国へと嫁いでいった。

 互いの婚姻を、平和の証とするために。


 夫となるヴァイス公国公王エミル・フォン・ケーニヒは十六歳。

 共和国の執政筆頭間の妹、アドラ姫は十五になったばかり。


 子ども同士のままごとのような、政略の末の結婚。

 それでも、遠慮がちでありながらも互いを気に掛ける、そんな初々しい新郎新婦の姿を目にした誰もが喜んだ。

 これから来るであろう平和な世を、誰もが予期した。


 エルゼの身に起こったこと、その発端は、その両国の懸け橋となった婚姻の宴、二カ月前の晩に遡る。


 立食形式のパーティーで、王宮のほぼ全てが解放されていて、その広い会場でヴィルヘルム・フォン・ヴェンデルに遭遇した。


 騎士と魔法士の違いはあれ、団を預かる団長同士。特別親しくしたことはなかったが、当然面識はあったし、既知の間柄ではある。

 なんなら戦場を共に駆け、互いに背中を預けたこともある。


 いつもは俯いて目深に被ったフードの陰に隠れている景気の悪い仏頂面が、少しだけ緩んでいた。そんなことすらもが、平和な未来を予期させた。


 互いに一人だったので、なんとなくそのまま一緒に料理を食べて、酒を飲んで、他愛ない話をして、気付いたら適当な一室に二人でいた。


 この時点で、二人とも相当に酔っていた。

 酩酊感に酔いしれて、楽しい気分にさせられて、そこからさらに酔いを深めた。


 いたずらにフードを取り払い、出てきたストロベリーブロンドは密かにエルゼのお気に入りだった。

 隠したがるヴィルヘルムのその髪を、無遠慮に触りまくった気がする。


 それからどういうわけか、なんとなくそういうことになって、朝になって、部屋にはすでにヴィルヘルムの姿は無くて、裸のエルゼが一人寝台に取り残されていた。


 ただ、それだけのこと。


 もしかしたら、何か幻滅させてしまうようなことがあったのかもしれない。

 そもそも不本意だったのかもしれない。


 最中は少しもそんな雰囲気は匂わせずにいたように思うが、大人同士の割り切ったマナーというやつだったのかもしれない。


 珍しい破顔したように見えたあれも、照れくさそうに微笑むあの表情も、酔いが見せた都合のいい幻だったに違いない。

 好きだとか、愛してるとか、耳朶に直接吹き込まれたあれもこれも全部、きっと幻聴だった。


 むしろいい思いをさせてもらって、いい夢を見せてくれてありがとう、ぐらい言えば良かったのかもしれない。


 言う機会は、与えられなかったけれど。

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