第9話 沢宣嘉包囲網

文久四年になると、さすがに幕府の勤皇派への締め付けが厳しくなってきた。生野いくのの乱の首謀者の主だった者はほとんど囚われ、刑場の露と消えている。ここ小松まで逃げてきた三人は数少ない生き残りとなっていた。幕府は追及の手とその包囲網を縮めてきていた。

 この時代、写真という物はほとんど普及しておらず、また、写真を撮ると魂を抜き取られるとの迷信があった。沢自身もその迷信を信じ、写真を撮ることはなかったことが幸いして、顔を知られることはなかった。だが、幕府は、沢家に出入りの商人からその顔の特徴を聞き出し、人相書きを用意して全国の代官所に配布した。無論、その捜査線上に、三木佐三方に潜伏する男が浮かんできた。また、都から落ちてきた公家という触れ込みが、今度は怪しさを増して来ていた。さらに、赤衣丹兵衛一派が、勤皇派の動向を調べるうち、勤皇派が隠し事をしていることに気が付いた。


三木佐三みきさぞう方離れに住まいし公家を名乗る者、取調べの要あり」

 との進言を幕府代官所にしたのだ。


 その日から幕府の密偵みっていが監視に付いた。三木佐三の屋敷を百姓姿や町人姿に変装して入れ代わり立ち代わり見張るようになった。無論、その状況は、沢を匿っている小松勤皇党も十分理解していた。すでに袋のネズミ状態で、幕府は最後の本人確認のために泳がせていることは明白であった。いずれは、踏み込まれ捕縛されるであろう。捕縛されれば京まで護送され斬首ということになる。その首を加茂の河原にさらされるのだ。沢は、さすがに覚悟を決めた。遺書をしたため、辞世の和歌を詠み、長州に居る三条実美の元に送ることにした。使者に選ばれたのは、近藤定吉だった。定吉は、沢の辞世の歌を携えて小松を出立した。陸路を行くことは危険ということから、小松勤皇党同士の寺内宗助てらうちそうすけあやつる神通丸じんつうまるで小松から直接長州を目指した。三条実美の文を携え戻ってきたのが五月の中頃であった。文には、決して自害などしてはならぬ、いかなる手段を使っても急ぎ長州へ戻るようしたためてあった。

 

 密かに長州送還への準備が始められた。潜伏先の三木佐三の屋敷からほど近い垣生の港から舟で直接長州へ渡るのが最も危険が少ないであろうという事になった。だが、船の手配に戸惑った。寺内宗助の神通丸は、定吉を長州から連れ戻った後、すぐに、漆器を満載して岡山、福山あたりの中国筋の商いに出ていたのだ。戻ってくるのはいつか分からない。だが、事が事だけに、他の舟に依頼することはできない。とりあえず、寄港しているであろう港々に「急ぎ戻れ」との手紙を送った。五月の終わりには、すべての準備が整い、後は神通丸の帰還を待つだけとなった。その間にも、幕府の監視は厳しくなり、何人もの密偵が、もはや変装もすることなくあからさまに監視を始めるようになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る