第8話 出戻り年増の結衣

 定吉は、あくる日、早速、池原利三郎に報告した。姉の結衣は沢卿の事を知ってはいない。沢卿の所へ三味線の稽古につかわすことはどんなものか尋ねた。

「それはよいのではないか。これは殿の命ゆえ、何とかせねばならぬ。沢卿が年増好みとあらば、その意に沿うよう計らうのが、我らの務めというものじゃ」

 定吉は池原とともに姉の結衣の住む離れにおもむき事情を話すと、二つ返事で承諾した。無論、ただの三味線の稽古というわけではないことは重々承知の上だ。

「でも、そのような高貴なお方のお相手がわたくしのような女子に務まるのかのーえー」

 とは言いながら、早速準備を始めている。

 結衣にとってはこの話は、渡りに船だったのだ。赤衣丹兵衛との話が煮詰につまってきていて、今日、明日にでも返事をしなくてはならない状況だったのだ。断れば、あの赤衣の事だ、腹立ちまぎれにどのような仕返しをしてくるか分からない。

「姉さん、もう行くんかのーえー」

「お殿様の御命ごめいというからには、もたもたしてはおれん。善は急げじゃ」

 赤衣丹兵衛にだけは抱かれたくはない。顔を見ただけで全身にほろせが出る。高貴なお方かどうかなどはどうでもよい。とにかく、赤衣から逃げ出したかったのだ。結衣は、三味線を一本、風呂敷に包むと玄関に降りた。定吉と池原はあっけにとられて結衣を見つめている。

「父上と母上には、お四国参りに発ったとでも言うといて」

「そんな…」

「本当の事情を話す訳にはいかんじゃろうが。それより、早よ案内して」

 結衣は、裏木戸から忍び出ると、すたすた歩き始めた。


 沢と結衣は、その夜のうちに男と女の仲になった。互いに男盛り、女盛りときて、しばらくの間、日照りが続いていたのだ。当然の成り行きだった。

 この頃になると、沢も潜伏生活にも慣れが出てきて、平気で外を出歩くようになってきていた。近隣きんりんの者たちも、散歩をする沢に挨拶あいさつをして通る。ここでは、不穏で物騒な都から落ち、友人の医師、三木佐三の元に居候をしている公家だと言うことになっている。名も、姉小路五郎丸あねのこうじごろうまると変名している。誰も疑わない。こそこそ隠れているよりは、堂々としている方がバレないものなのだ。今日は、昼下がりに結衣と二人でそぞろ歩いている。

「よい日和によりにございますのーえ」

 まきかついだ百姓が声をかけてきた。

「まことよき日よりじゃのー、こんな日が続いてくれればよいのじゃがのー、ほっほっ」

 扇子せんすを口に当てて甲高かんだかい声で笑う。

「このお美しき姫様ひめさまは?」

 百姓が訊ねた。

「我が室じゃ。都より呼び寄せた。都は物騒ゆえにのー、ほっほっ」

 結衣は、顔を赤らめ沢の陰に隠れる。髪も着物も化粧も公家風のものに変えている。知っている者が見ても結衣とは分からないであろう。

 幕末の混乱期である文久三年、この四国の片田舎は、何の出来事もなく平凡に過ぎようとしていた。


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