第3話 沢 宜嘉

「とにかく、明日、説得をしてみまする。今日は遅いのでこれにて失礼いたしまする」

 二人の侍が館の門を開いた時であった。黒い塊が動いた。

「何者じゃ」

 黒川知太郎くろかわともたろうが声を上げ、提灯を黒い塊の方に差し出し顔を映した。

「田岡さん、田岡さんじゃないさんですか」

 池原利三郎が声を殺して呼びかける。

「田岡、なにゆえ此処ここに」

 黒川が問う。二人は近藤南海の下で机を並べた仲なのだ。

 田岡俊三郎は憔悴しょうすいしきっていた。立ち上がることもできず。二人が屋敷の中まで肩を抱いて運んだ。

「助けてくれ。幕府に追われている。このとおりじゃ」

 田岡は二人の前で手を合わせた。

「幕府に? もしや、生野いくのの挙兵に加わっていたのか?」

 黒川は、すでに悟っていた。

御明察ごめいさつ

 田岡は、そう言うと薄笑いを浮かべた。そして、続けた。

「助けて欲しいのはわしではない。沢卿じゃ。沢卿を如何にしても長州にお戻しせねばならん」

「沢卿もおられるのか」

 黒川の言葉に田岡はうなづいた。

 黒川は、十日ほど前に播州生野ばんしゅういくので勤皇方の挙兵がありすぐに鎮められたということを今朝けさ聞いたばかりだった。詳しいことはまだ分からず、頭目に担がれたのが七卿落ちの公家の一人だということだけは回ってきた手配書で知っていた。。

「沢卿をお主たちが担いで起こしたのか」

 黒川は、田岡の肩をゆすりながら聞いた。

「そういうことだ。じゃけん、わしは沢卿を無事に…」

 田岡はそこまで言うと、全身の力が抜けたように地に伏せた。

 田岡を大八車に乗せむしろをかけて隠し、漁師の源八げんぱちの漁師小屋へ向かった。源八の漁師小屋は小松勤皇党が隠れ家として使っている。途中で田岡が気が付き、むしろをはぐって、

「沢卿らが潜まれているほこらに回ってくれ」

と声をかけてきた。

「どこの祠だ」

金住かなずみの祠よ」

「分かった」

 黒川と田岡が子供の頃よく遊んだ祠だ。古い祠だが、誰も管理する者がおらず荒れ果てるままになっている。祠に着くと田岡が立ち上がり、外から声をかけた。

「沢様、田岡でございます。仲間を連れて帰って参りました。信頼できる者たちです。どうかご安心を」

 扉が開き、中から二人の男が這えずり出てきた。提灯に浮かび上がる顔はいずれも生気がない。

「沢じゃ。お主たちに身を委ねるしかない。願わくは、今一度の再起を期せん。われらを助けてたもれ。このとおりじゃ」

 沢と名乗る色白の男はそう言った。かたわら高橋甲太郎たかはしこうたろうと名乗るもう一人の男も頭を下げた。

 広江川尻ひろえかわしりと呼ばれる海岸沿いに漁師の源八の漁師小屋がある。沢と田岡、高橋を大八車に乗せ一行は小屋に急いだ。池原が引き戸を開け提灯で中を照らし出すと二十余りの目が光った。小松勤皇党の面々であった。

「お前たち、何をしている」

 池原は、尋常じんじょうでない気配を察して声を荒げた。だが、一同押し黙って何も言わない。

「よもや脱藩を図ったのではないな」

 池原の詰問に、

「私が脱藩を図りました。他の者には先ほど伝えたのでございます。罪はございません」

 黒川易之進くろかわえきのしんが進み出て平伏する。続いて喜多川鉄太郎きたがわてつたろうも進み出て平伏した。二人とも二十歳を出たばかりの若侍わかさむらいだ。

「喜多川殿、そなたまでが…」

 喜多川家は、代々の筆頭家老ひっとうかろう職を務める家柄である。鉄太郎は,先の家老の嫡男で近い将来、家老職を継ぐことが決まっている。池原は開いた口がふさがらなかった。

「かくなる上は、ここで腹を切ってお詫び申し上げまする」

 黒川易之進は脇差わきざしを抜き、腹をはだけた。喜多川鉄太郎もそれにう。

「待て、今はお前たちの切腹などに付き合っている暇はない。一大事が起きたのだ。その腹はわしが預かっておく」

 池原が言った時、戸口から男たちが入ってきた。

 黒川知太郎が、

「控えい。沢宣嘉さわのぶよし卿にあらせられるぞ」

 と言葉を発すると、一人の男の前で平伏した。皆、訳も分からず同じように平伏する。黒川易之進も喜多川鉄太郎も慌ててはだけた腹を元に戻し平伏した。易之進も鉄太郎も沢卿の事については知っていた。藩主の一柳頼紹が御所に参内して天皇に拝謁しお言葉を賜るという栄誉に浴した時の大恩人と聞かされていたのだ。だが、なんでその沢卿がこのような田舎の、それもまた薄汚い漁師小屋に現れたのかはさっぱり理解できない。そして、頭を上げよと言われ上げたとき、その目に飛び込んできたのが田岡俊三郎だった。

「皆、この度は世話になる」

 田岡は、かすれた小さな声を出すと、頭を下げた。

 

 この日、小松勤皇党は、頭目の池原利三郎の許しも得ず、黒川易之進、喜多川鉄太郎、飯塚亀五郎いいづかかめごろうの三名の脱藩を画した。飯塚亀五郎は、藩が京の情勢を分析すべく遣わしていたのだが、先日、薩摩、会津のクーデターの情報を持って帰藩し、その後、病気と称して引き籠っていた。その間、脱藩の準備をしていたのだが、喜多川鉄太郎と黒川易之進の知り得るところとなり、三人そろっての脱藩という成り行きとなったのだ。

「飯塚様は船に無事乗られました。荷駄にだも載せました。喜多川様、黒川様、早く」

 小屋の外から声が聞こえた。漁師の源三げんぞうの声だ。

「………」

 誰も返事をしない。やがて、不審に思った源三が裏木戸を開けた。

「飯塚もか」

 池原は、溜息ためいきいた。何も知らされなかったことに自らいきどりを感じていた。

 飯塚は既に沖の船に乗り込んだようだ。漁師の源三が漁師船に乗せて沖に停泊する船まで運ぶ手はずになっていた。沖に停泊する船は、神通丸じんつうまると称する全長十間程の舟で、小松藩の西隣にある桜井という天領で生産する漆器を積み込み、瀬戸内沿岸から九州熊本あたりまで売って回るために借り上げられた船である。土地の者は、吸い物椀を満載して出向するので、椀船わんぶねとも呼ぶ。船頭は船主でもある寺内宗助てらうちそうすけ、荷主は漆器問屋の村上嘉助むらかみきすけ、漁師の源三も含め、三人とも近藤南海門下生で小松勤皇党の同志である。椀船で商いをしながら飯塚以下三人を長州まで送り届ける計画だった。

「飯塚については捨て置く。今更戻れと言って戻るわけはないであろう」

 池原利三郎は、そう言うと、沖に停泊する椀船の月明かりをぼんやりと見ていた。

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