第2話 田岡俊三郎

「とにかく、明日にでも勤皇党の連中を集め、説得を試みてみまする。それでも訊かぬなら縛り上げて牢にでも放り込むしかありますまい」

 池原はそう言うと立ち上がろうとした。その肩を抑えて黒川は、

「いや、脱藩したければさせてやるのも一考かと思っておる」

「なんと…」

 池原は、黒川の思いもよらぬ言葉に目を大きく見開いて驚いた。

「それは黒川様の御本意にござりまするか」

 池原の問いに、黒川は一呼吸おいてささやくように答えた。

「御家老の御意見じゃ」

「御家老の?」

 池原は、さらに驚いた。

「うむ。田岡俊三郎たおかしゅんざぶろうの事もある。脱藩という仕儀になったが、それは、むしろ藩にとっては都合がよいということじゃ。藩籍はんせきを置いたまま事を成せば藩の責めが問われる。田岡が何の便りも寄こさず脱藩という扱いになったのは、田岡自身がよくよく考えての事。何をなそうと藩にとがが及ぶことを恐れての事じゃ。あの男らしい」

「なるほど。ですが、脱藩をみすみす見過ごすというのもいかがなものかと」

 池原は、黒川に問いただした。

「御家老がお考えなのは、担保たんぽよ」

「担保?」

「そうよ、担保よ。これから世の中は動く。勤皇に傾いてゆくか、はたまた幕府が底力でもって盛り返すか、先のことは全く分からん。我が藩などは荒波に揉まれる小舟よ。勤皇方にも人を送り込んでおけば、いざという時には役に立つというものよ」

 

 田岡俊三郎、小松藩の藩士で剣・槍では右に出る者はいない。槍の師範を務めていたが、藩命により京の情勢を探っていたところ、勤皇派の公家、沢宣嘉さわのぶよしの知遇を得ることになる。沢のつてを頼って三条実美の御意ぎょいを得、藩主、一柳ひとつやなぎ頼紹よりつぐが時の天皇、孝明天皇に拝謁することができた。御簾みす越しにではあったが、「なんじの忠節、頼もしゅう思うぞ」との言葉もいただき、藩主以下、家臣一同感涙かんるいにむせんだのだ。一柳家、開闢かいびゃく以来のほまれであった。

 田岡にすれば、これ以上の手柄はないとも言えたのだが、間もなく起きた八月十八日の政変が事態を一変させる。薩摩藩と会津藩の策謀により、それまで御所の警護にあたっていた長州藩が、その任を解かれ京から追放されたのだ。勤皇派の公家たちも三条実美をはじめとして、いわゆる七卿落ひちきょうおちちと呼ばれる事態となった。田岡俊三郎もその七卿の一人、沢と行動を共にし、長州まで落ち延びて行った。そして、その後は連絡が途絶える。小松藩としては、田岡の処遇に困ったが、結局、脱藩扱いということになった。田岡の功績を思えば断腸の思いであった。しばらく時を見てという者もいたが、藩内の佐幕派さばくはが黙ってはいなかった。急速に台頭してきた藩内佐幕派の力は勤皇派を圧しようとしていた。


 小松藩の佐幕派は、赤衣丹兵衛あかいたんべえを頭目とする集団である。赤衣は、江戸留守居役えどるすいやくせがれで、生まれも育ちも江戸である。江戸での放蕩ほうとうに藩主が怒り、江戸留守居役を解任されて小松に帰された。小松に来て三年となるが、なかなかこの田舎に馴染なじもうとはしない。江戸っ子弁でまくしたて、地元の者には何を言っているのか分からない。この地方の方言で、言葉尻に「のーえー」を付けるのだが、それを小馬鹿にして、藩の侍を「のーえーさむらい」と陰で呼ぶ。若侍や領民には全くもって人気がない。煙草の吸いすぎで、いつも喉を鳴らし、所かまわず血の混じったたんを吐く。若侍や領民たちもその様子を見て、陰では「赤タン」と呼んでいる。

 赤衣を取り巻いているのは、近藤南海から疎遠そえんになった者たちである。付いてゆけず勉学を放棄した者や素行が悪く破門になった者たちがほとんどである。この小松藩では近藤南海の弟子でないと出世は望めない。閑職かんしょくに甘んじるしかないとあきらめかけていたところに、佐幕派の赤衣が台頭してきたのである。反南海派として群がり徒党を成した。佐幕派と言ってもその本質を分かっている者はほとんどいない。自らの立ち位置を有利なものにしようとするだけの者たちで、動機は極めて不純である。だが、赤衣本人だけは少々違っていた。江戸生まれの江戸育ちである赤衣は、幕府の力というものを十分理解していた。藩をあげての勤皇騒ぎに危惧を抱いていたのだ。

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