第1話 外様ひち万石 作 かわごえともぞう
「脱藩ともなると事は面倒になる。捨ててもおけぬ。どうにか思い止めることはできんのか」
四十がらみの年長の方の男が、三十過ぎの男に問う。
「もはや決意は固く、無理かと思いまする。牢にでも放り込んでおくしか他に手立てはありますまい」
「うーん」
腕を組んで宙を見上げた四十がらみの男の名は
ここで、この伊予小松藩の事を説明しておこう。伊予小松藩、四国は伊予にあり東に
「そこもとの小松藩は石高は何万石でござるか」
との西条藩士の問いかけに、
「ひち万石」
と答えたという
分かっていながらの問いかけに、一とも七ともとれる答え方をして応じたという涙ぐましいものである。このような状態が二百年余り続き、その
だが、十数年前から、幕府の権勢の衰えとペリーの来航という事件をきっかけに、「
勤皇党と言えば、土佐勤皇党が有名だが、幕末には似たような組織が各藩にできた。理由としては、国学、歴史学の発展により、幕府が必ずしも唯一の権威ではなく、その上に朝廷があるということが認識されたことにあろう。幕府への反感というものがそれと相まって外様、譜代、果ては家門、御三家に至ってまで「勤皇・尊王」という思想は行き渡っていくことになる。「勤皇・尊王」という思想そのものに異を唱える者はおらず、「勤皇・尊王」を叫んでも
小松勤皇党は、池原利三郎以下、人数がわずか14名の小組織である。藩内にもその存在は知られてはいない。池原が特に過激に走りそうな者に声をかけて秘密裏に結成したからである。武士が主だが、町人もいれば百姓、漁師、船乗りもいる。女もいる。十四才になるタイという名の漁師の娘である。わずか14名というが、藩士50名、足軽を入れても100名足らず、領民の数も一万人に満たないという小松藩においてはこの程度が限界である。
小松勤皇党名簿
池原利三郎(党首、舟手頭、武士)
黒川知太郎(顧問、奉行、武士)
飯塚亀五郎(武士)
黒川易之進(武士、黒川知太郎の遠縁になる)
黒川精一郎(黒川易之進の次弟)
黒川邦衛(黒川易之進の末弟)
喜多川鉄太郎(筆頭家老の嫡男)
近藤定吉(医師)
元山源太(足軽の子、百姓)
村上嘉助(漆器問屋、町人)
小吉(大工、職人)
寺内宗助(船乗り)
源三(漁師)
タイ(源三の妹、魚売り)
この小松勤皇党の母体となったのが、藩の儒官である
近藤篤山は
跡を継いだ篤山の長男である南海も「知行合一」を核に置いた。したがって、この近藤南海に学ぶ者たちにとっては、「勤皇」も「倒幕」も実行してこそ意味あるものとなる。藩の重役たちにとっては
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