第1話 外様ひち万石 作 かわごえともぞう

 座敷ざしきの隅に置かれた火鉢ひばちを囲み、二人の侍が声を殺して話し合っている。行燈あんどんの光に映し出された顔はにがり切っている。時は文久ぶんきゅう三年、秋も深く、この温暖な瀬戸内においても夜ともなるとずいぶんと冷え込んでくる。

「脱藩ともなると事は面倒になる。捨ててもおけぬ。どうにか思い止めることはできんのか」

 四十がらみの年長の方の男が、三十過ぎの男に問う。

「もはや決意は固く、無理かと思いまする。牢にでも放り込んでおくしか他に手立てはありますまい」

「うーん」

 腕を組んで宙を見上げた四十がらみの男の名は黒川知太郎くろかわともたろう、そしてもう一人の男の名は池原利三郎いけはらりさぶろうである。ともに伊予小松藩の侍で、黒川は奉行職にある。池原は黒川のもとで藩御用の舟手頭ふなてがしらを務めている。二人の侍の目下の悩みは、小松勤皇党の跳ね上がりの若侍たちのことである。


 ここで、この伊予小松藩の事を説明しておこう。伊予小松藩、四国は伊予にあり東に霊峰石鎚山いしづちさん、西に燧灘ひうちなだを望む石高一万石の小藩である。外様の一万石ということは大名の最低ランクにあたる。周囲は隣の西条藩、今治、松山の親藩・家門、天領に囲まれ、江戸時代を通じてよくぞ存続したといえるほどの小藩である。特に、隣の西条藩は、紀州藩の分家で徳川連支れんしとしての誇りが高い。

「そこもとの小松藩は石高は何万石でござるか」

 との西条藩士の問いかけに、

「ひち万石」

 と答えたという逸話いつわが残っている。

 分かっていながらの問いかけに、一とも七ともとれる答え方をして応じたという涙ぐましいものである。このような状態が二百年余り続き、その鬱屈うつくつした思いは、侍たちは無論、領民に至るまでおりのように沈殿してまっている。小馬鹿にされながらも、藩存続のためには、粗相そそうのないように、機嫌をそこなわぬように振舞ってきた訳で、二百余年にわたるその忍耐と努力は生半可なまはんかなものではなかった。

 だが、十数年前から、幕府の権勢の衰えとペリーの来航という事件をきっかけに、「尊王攘夷そんのうじょうい」という運動が全国的にき起こってきた。朝廷の許しを得ずに結んだ日米通商条約が運動に拍車をかけることになる。「尊王攘夷」は、やがて「勤皇倒幕きんのうとうばく」に変ってゆく。ここ小松藩でも、公然と声高に「勤皇倒幕」を唱えるやからが出てきた。あわてたのは、藩の重役たちである。倒幕を唱えても、周囲は幕府方に取り囲まれ、しかも一万石の小藩。いざともなれば半日で滅ぼされる運命にある。そこで、藩の跳ね上がりの若者たちを管理、掌握しょうわくするために、黒川が池原に命じて組織させたのが、この「小松勤皇党」であった。

 勤皇党と言えば、土佐勤皇党が有名だが、幕末には似たような組織が各藩にできた。理由としては、国学、歴史学の発展により、幕府が必ずしも唯一の権威ではなく、その上に朝廷があるということが認識されたことにあろう。幕府への反感というものがそれと相まって外様、譜代、果ては家門、御三家に至ってまで「勤皇・尊王」という思想は行き渡っていくことになる。「勤皇・尊王」という思想そのものに異を唱える者はおらず、「勤皇・尊王」を叫んでもとがめられることはない。ただ、これが攘夷・倒幕と結びつけば話は違ってくる。声を潜めて相談をする二人の侍は、藩内の若者たちを集めて組織された小松勤皇党が、倒幕へと傾いていることに危惧きぐを抱いているのである。

 小松勤皇党は、池原利三郎以下、人数がわずか14名の小組織である。藩内にもその存在は知られてはいない。池原が特に過激に走りそうな者に声をかけて秘密裏に結成したからである。武士が主だが、町人もいれば百姓、漁師、船乗りもいる。女もいる。十四才になるタイという名の漁師の娘である。わずか14名というが、藩士50名、足軽を入れても100名足らず、領民の数も一万人に満たないという小松藩においてはこの程度が限界である。


 小松勤皇党名簿

   池原利三郎(党首、舟手頭、武士)

   黒川知太郎(顧問、奉行、武士)

   飯塚亀五郎(武士)

   黒川易之進(武士、黒川知太郎の遠縁になる)

   黒川精一郎(黒川易之進の次弟)

   黒川邦衛(黒川易之進の末弟)

   喜多川鉄太郎(筆頭家老の嫡男)

   近藤定吉(医師)

   元山源太(足軽の子、百姓)

村上嘉助(漆器問屋、町人)

小吉(大工、職人)

寺内宗助(船乗り)

源三(漁師)

タイ(源三の妹、魚売り)


 この小松勤皇党の母体となったのが、藩の儒官である近藤南海こんどうなんかいの私塾に学んだ者たちである。近藤南海は、藩内藩外を問わず、また身分の上下なく向学心のある者は誰でも受け入れた。教えの核となるのは「知行合一ちぎょうごういつ」であった。学ぶだけでは本当の学問ではない。行いに生かしてこそ学ぶ価値があるとするのだ。これは、近藤南海の父親である近藤篤山こんどうこうざんからの伝統である。

近藤篤山は尾藤二州びとうじしゅう門下生で、昌平校で講義をするなどすでに儒者として全国的に名が知られていたのを、六代目の藩主が三顧さんこの礼で藩校の需官として迎えた。「伊予聖人」と呼ばれ、また、佐久間象山からは「徳行天下第一の人物」と絶賛された。佐久間象山は、自らの塾を開く際に近藤篤山に教室に飾る書を依頼している。

跡を継いだ篤山の長男である南海も「知行合一」を核に置いた。したがって、この近藤南海に学ぶ者たちにとっては、「勤皇」も「倒幕」も実行してこそ意味あるものとなる。藩の重役たちにとっては厄介やっかい極まりない。だが、この藩の重役たちも篤山、南海の教えを受けた者がほとんどで、跳ね上がりの若者をいさめはするが心のどこかでは理解をしているのだ。

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