第26話 後悔の果て。私にこんな救いを受ける権利があるのだろうか‥。桐谷和美視点

 自分の罪を我が息子に突きつけられた日から、もう何日経っているのだろうか。


 この部屋には窓などもちろんない。電気を消されるとほとんど何も見えなくなる。一日中深い闇の中にいるようで、時間感覚など既に失ってしまった。


 悪夢にうなされながら苦労して眠りにつけたとしても、起きると辺り一面は闇、闇、闇‥。もはや起きているのか寝ているのかの区別すら簡単ではなかった。


 身体はとても動きそうにない。当然痛みのせいもある。しかし何よりも私自身が、もう生きたいとすら思えなくなってしまっていた事が一番大きい。


 息子が慈悲で置いてくれた水も飲む気にならない。食べ物なんてなおさらだった。衣服なんて今はどうでもいい。


 食べ物‥か。息子によって手の届く距離に置かれた粉末食を見る。愛情なんて微塵も込めようがない、酷く味気ない代物だ。


 私はこんなものを毎日自分の息子に食べさせていたのか‥。


 もう身体中の水分を出し切って、干からびてしまうんじゃないかと思える程泣いたのに‥また一筋の涙が私の頬をつたう。


 今更後悔してももう手遅れだ。他でもない、私自身が壊したのだから。私が心優しい彼を完膚なきまでに変えてしまったのだから。


 日に日に自分の意識が遠のいていくのを感じる。目を閉じると脳裏に自分が今まで息子にしてきた事が走馬灯のように蘇る。


(やめて‥こんなもの見せないで‥。お願い‥早く消えさせて‥早く私を殺して‥)


 楽に死ねる権利すらないのは分かってる。それでもこんな物見せられたら堪らず逃げたくなってしまう。今すぐにでも消えてしまいたくなる。


 とても直視出来るようモノではない。あまりにも酷く凄惨な虐待の日々の映像がとめどなく頭の中に流れ込んでくる。


 やめて‥お願いだから‥


 高校生の時、男に犯されたその日から私は悪魔になった。諸悪の根源であり、最も憎むべき相手の行方は分からない。


 だから私は愚かにも、産まれてくる命を心底憎んだ。何の罪もない赤ん坊を。私の息子を。


『家畜』の意味を込めて「禍稚傀」だと名付けた。

幼い時から愛おしいと感じた事は一度だってなかった。

大きくなるに連れて、あの男に似てきたように感じた。

だから愛情は一滴も与えなかった。

私を悪魔にしたクズの子なんだから。当然だと思った。

暴力を一度も振るわない日はなかった。

付き合っている男と共に苦しむ姿を見て嘲笑った。

酷い時は熱湯をかけたりもした。消えない傷をつけた。

毎日言葉で洗脳した。無価値だと、いらない子だと。

遊んであげた事等ない。勉強のみを強制した。

学校で虐められている事を知りながらその事実に喜んだ。


(やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて‥)


 一向に頭の中に流れ込むのが止まる気配がない。それどこらか映像はさらに惨い物になっていく。


『あんたなんか産まれてくるべきじゃなかったのよ』


 最後に、幼い我が子に憎しみの目を向け言い放つ愚かな母親の姿が映し出された。


「うわあああああああああああああああああああああああ」


 頭が割れそうな程痛い。これでもかと自分の罪を再確認させられ思わず上げた大声が誰もいない部屋に虚しく鳴り響く。


「か‥く‥。ごめん‥さい」


 謝ってももう遅い。そんな事分かっているが口は言う事をきかない。あまりにも大きすぎる私の罪‥。こんなもの償いきれるわけがない。それだけの苦痛を与えてきた事を再確認させられた。


 何がせめてこれまでの事を償ってから死のう、だ。無理だ‥


 償い切れない‥。もう許される事なく死ぬしかない。


 ギギギィ‥


 地下室のドアがゆっくりと開いた。男女の話し声が聞こえる。力を振り絞り顔をそちら側を向けると息子と綺麗な女の子が目を丸くして私の姿を見ていた。


 ああ‥かちく‥。私のたった1人の我が子‥なのに私は‥。


「ご‥ん‥‥い。ほん‥‥‥に、わた‥あな‥になん‥ていっ‥ら‥いい‥か‥」


 体力も気力も限界をとうに超えている私の声は彼に届いているだろうか?謝罪など無意味な事は百も承知だ。自己満足だという事も承知の上だ。


 それでも私はこの子に、何度でも謝罪しなければならない。


「か‥‥く。いま‥で‥ご‥め‥ね。わた‥ころ‥てく‥てもい‥から‥」

「やめろおおお‥っ!!なん‥なんなんだよ‥っ!お前は‥っ!!ふざけるな!!今更遅いんだよ何もかも‥。何で今になって‥そんな優しい目で俺を見るんだよ‥!そんな顔するなあああああ!いつもみたいに俺を憎めよ!蔑めよ!!」


 今更遅い‥。その通りだ。私は今優しい目をしているのだろうか?そうだ‥。私はいつも憎しみの目しかこの子に向けてやれなかった。


 優しい眼差しで我が子を見てやれなかった。


 『殺してくれてもいいから』なんて自分勝手な言葉なんだろう。本当にそう思ってる事は事実なのだ。息子の気が済むならそうしてくれて一向に構わない。


 でも私は殺される事で罪の意識から解放されたいのではないか?生きて償う等もう手遅れな程息子を壊してしまった、その現実から逃げたいのではないか?


 今の私の言葉は何を言っても空虚だ‥。どうして届くと言うのか?生まれてからずっと悪意しか与えてやれなかった女の言葉が。


 ああ‥この感情を本当の絶望というのだろう。視界がどんどんぼやけていく。自分の身体が自分のものじゃなくなるような、そんな感覚。


 息子と女の子が何やら話し合っている声が聞こえる。「処分」‥か。それでいい。哀れで愚かな罪深い女にはそれが相応しい‥


「この女は俺の獲物なんだ‥。だから処理はしないで欲しい。こんな事言っといて虫のいい話だが、怪我を治してしばらくそちらで預かってくれないか‥?すまない‥頼む。‥もちろん金は払うから‥」


 ‥‥っ!!!

 いま‥何を言ったの‥?? 処理しなくていい‥??

 なんで??私はあなたに許されていい存在じゃない!!

 最低なんていう言葉では表せない程酷い扱いをしてきたのに‥怪我を治してくれるって何よ? 


 何でかちくは‥私の息子はそんな必死に私なんかのために頭を下げているの??


「ど‥う‥て?わ‥し‥なん‥かを??」


 こんな簡単に許されていい訳ない。優しくされていいわけない。憎しみの限りをぶつけられて然るべきだ。


「勘違いするな‥。俺はお前を許した訳じゃない。俺が今までお前の世話をした分、今度はお前に俺の世話をしてもらう」


 当たり前だ。許されなくて当然。‥なのに何故あなたはそんな優しい顔で私を見るの??


「怪我を治したら迎えに行く。お前には俺の『家政婦」になってもらう。‥コキ使ってやるから覚悟しておけよ?」


 ああ‥ああ‥ かちく‥あなたはどこまで‥


『お母さん‥僕‥出来損ないで‥ごめん‥なさい』

『わかったよ。お母さんに喜んで貰うように俺頑張るよ』

『わかった。俺もっと勉強して絶対母さんに楽させるよ』

『‥わかった。母さんが喜ぶなら』


『‥いつか母さんに俺を愛してもらえるようにがんばるよ』


 息子の言葉を思い出す。‥そうだ‥この子はいつだってこんな私を喜ばせようと‥どうしようもない毒親の私に愛されようと頑張ってきたんだ‥私に対してはいつもこんな優しい表情を向けてくれていたんだ‥


 なのに‥私は‥ああ‥ああ‥


 涙を顔に溢れさせる私を息子はおんぶしてくれる。‥なんて温かいのだろう。私には息子からこんな温かさを受け取る権利がない事は分かっているのに‥そのハズなのに‥いつのまにか大きくなった背中に身体を預けてしまう。


「家政婦なんだからさ‥今度‥俺にアンタの作った温かいご飯を食べさせてくれよ‥」


 その一言に私は崩れ落ちた。どこまでこの子は優しいのだろう‥こんな優しさを私は貰ってはいけないのに‥今は少しだけ‥自分勝手にも救われた気分になってしまう。


 でも‥おかげで完全に目が覚めた。


 死んで罪から逃げるなんて甘ったれた事を考えるのはもう終わりにしよう。


 残りの私の人生をかけて、息子から受けた計り知れない愛情を今度は私が必ず返して見せる。


 それで許して貰おう等とは思わない。もう『母さん』と呼んで貰えなくていい。家政婦でも居候でも何だっていい。


 今度は私が息子をちゃんと愛してあげたい。


 まずはあったかい手作り料理を息子の為に作る事から始めよう、そう強く私は心に誓った。

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