【第三章 帰郷】 第11話 龍虎の路
ある晩、新しい街にできた店で酒を飲もうということになった。
酒や料理でもてなす二階建ての店からは、華都風の音楽が聞こえている。窓からは客が酔いにまかせて踊る姿も、ちらりと見えた。
「あっという間に栄えたな」
淵季も二階から漏れる光を見上げていた。
そうだな、と返そうとしたときである。
「
虫の鳴くような薄い声が聞こえてきた。
それと同時に、大路のあちこちで、「龍虎、龍虎」と呼応する。
「聞こえるか、
「ああ、龍虎、と言っているな」
辺りを見回すと、酔客はみな店に入ってしまったのか、通りには私たちだけになっていた。遠くで「龍虎」という声がしたかと思うと、蛍のような光が、ぼう、と灯る。刺激されたように、明かりは奥から手前へと順に光っていく。
「来るぞ」
楊淵季が言ったとたん、光は私たちの足元にも現れ、今来た路をなぞるように広がっていく。気がついたときには、路の両側を縁取るように明かりの列ができあがっていた。
「龍虎、龍虎」
光の数が多くなると、路全体が鳴いているように聞こえた。
まるで、ここは「龍虎」という名の路であるとでもいうように。
「欧陸洋」
楊淵季がこちらを見た。
「ああ」
私もうなずき返す。
私たちはそうっと身を屈め、光に近づいた。目を凝らすと、一つの光の中に二つの影がある。どちらも丸い玉で、小指の先ほどの大きさだ。
何度かまばたきをして目を慣らすと、それらが交互に身体を揺らしているのがわかった。かたほうは青か緑か、深い色がついているようだ。もう片方は白い。二つの玉からは細い手が伸びていて、互いの手を握っている。
深い色がついているほうが揺れると、「龍」という。白いほうが揺れると「虎」という。
楊淵季が口元を
「ここも妖の住むところだったようだな」
うんざりという口調だった。視線を上げると、楊淵季は案の定、渋面である。
私たちが少年時代、妖怪と出会った場所は避けたつもりだが、この辺り一帯が妖しいものの住むところだったようである。
「どうりで、
確かに、彼らが全員住むには玄都は狭い。仙人国が滅びて十年ほどかけて、西側に玄都を広げてそちらにも住むようになっていたが、それでも手狭であったことは間違いない。
「しかし、この妖は、路の名を呼び、明かりを灯すことくらいではないか。それだけのためにこの地を避けるとは」
小声で返す。淵季が小さく、ち、と舌打ちするのが聞こえた。
「困るんだよ。勝手に路の名をつけられてもな。そういうのは、街を整備する者がすることだ」
言われてみれば、たいていの都市では後に王になった者や、初代長官などが計画的に門や路を作り、名づけている。
しかし、すでに華都は陥落、敵であった者たちが新たな王朝を名乗っている。
本当は敵が落とした宮殿にいたのは、偽の皇帝である。宝物を身にまとい、宮殿ごと燃え尽きたと聞いている。華都から逃れてきた人々は、皇帝は宝物が好きだったから、などと噂しているが、違うだろう。玄都に逃れた本物の皇帝を守るために、身元がわからぬようにしたに違いない。本物の皇帝陛下から親しみを込めて
「……陛下に頼むか? 改めて路の名をつけていただくのは」
本物の皇帝陛下は、仲興の屋敷に
「あの方が皇帝だということは、俺たち以外に知らないじゃないか。しかも、少し前までこの辺りをきちんと支配できていなかった亡国の皇帝ではな」
確かに、私たちが玄都に来るまで、この辺りは国の一部ではあったが、十分に把握できていない土地だった。
「淵季……おまえではどうだ」
私はおそるおそる尋ねる。淵季はこの辺りに影響があった仙人国の王であった。そちらも亡国ではあるが、灰色の目の者たちは、淵季のことを「
「やめてくれ。俺はまだ、玄都の長官のつもりだぞ」
仙人国の王であることより、亡国の役人であることを選ぶのは、いかにも淵季らしい。私は思わず、ふ、と笑い声を漏らした。
「何だよ」
淵季は不満げだ。私は小さく首を振った。少年時代のあの日、私と共に華都に戻って帝国人として生きることを選んだ彼の姿が思い出された。自分では存在自体が不敬だとか何だと言いながら、実に生真面目な男である。
「そうは言っても、ここを治められるのはおまえしかいないだろう。この小さな妖たちに路の命名権を奪われないためには」
「陸洋らしくないことを言うな。忠臣だったんじゃないのか」
「私は少年時代、おまえを探しに行く旅で、華都以外の場所の生活を知った。場所が変われば取るべき態度も違う」
同じく、忠臣と呼ばれていた父や兄の顔が思い浮かぶ。
偽皇帝は宝物を身につけて滅びたというが、その場に父や兄もいたはずである。そもそも、身体を覆うほどの宝物をすべて一人で運び出すのは無理だ。楊大哥は後宮の世話をする役人も華都の外に逃がし、国の政治において責任の重い者ばかりを残したという。雑用を担う者がいない以上、その場に残ったもので宝物を取り出すしかなかっただろう。父や兄も、手伝ったに違いない。
たとえ、それが国の宝を失うことでも、少しでも敵の目を引きつけ、できるだけ多くの者を華都から遠ざける時間を稼ぐことを優先しただろう。父も兄も、そういう人だ。
「淵季。もう、玄都では玄都の方法でするしかないのだ。おまえは、陛下から玄都を託された。おまえの判断でできることは、してよいのだ」
そして、私も彼に同行することを命じられた亡国の役人だ。
玄都を保つために変わらざるを得ない淵季を、公私ともに支え続けることは、亡国への忠義でもある、と思う。
もとより、相手は共にあろうと誓った楊淵季である。私に苦労のあろうはずもない。
「大丈夫だ。何があっても、おまえと一緒に右往左往するよ」
「おいおい、それは、大丈夫なのか?」
頼りないな、とつぶやくと、淵季は首の後ろを
楊淵季の周りの空気が冷たさを帯びたように感じた。
妖たちの光に照らされた彼の顔は真剣だ。穏やかだが、隙がない。
風が吹き、楊淵季の衣がばさりと鳴った。同時に彼は右手を前に突き出す。仙人国で扉を開けるときにしていた仕草だった。
「
淵季が告げると、「龍虎」の声はやんだ。光は空に浮かび上がり、二階の屋根よりも高い場所で集まった。
光は二つに分かれ、それぞれ龍と虎を形作り、龍は南安、虎は玄都へ続く方向へ飛び去った。
私は光の粒で形作られた龍を見送る。南安は、親戚たちが逃げてくるときに通った都市だ。おそらく、最後に経験した、帝国風の都市だろう。
淵季の背中が私の背に当たった。
彼は虎を見送っているようだった。少年時代、王を務めた国の麓にある玄都の方角を。
私たちは背中合わせに立ち、しばらく空を眺めていた。
やがて、目の奥に残っていた光の影は消えた。空いっぱいに広がる星々の影を見て、私は我に返る。
振り向くと、楊淵季も同じ姿勢で私を見ていた。
龍虎の路には、その後も酔客が道に迷うと小さな明かりが灯るそうだ。おかげでこの街では家に帰り着けぬ者はおらず、酔客の持ち物を奪う盗賊も現れることがないということである。
〈おわり〉
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