【第三章 帰郷】 第9話 氷中の虫
そこで、玄都の長官である
その中には、灰色の目の医師、
玄都の西側に何虎敬やその弟子が診療所を開き、仙人国風の治療を行うことを許可するというものである。
代わりに、淵季は「
淵季はそれを、従者の
もう、七日になるだろうか。
淵季は朝からぼんやりしていた。長官の部屋にこもり、机に
その晩も、私は残業だった。
私が書類を広げていると、淵季がぶつぶつ言うのが聞こえた。
「七日経ったら夜に部屋の前に立つがよい。竹を割って作った船に帆を張って、川の上流に送るのだ」
くり返し、そう言う。
私は奇妙に思い、淵季の肩を叩いた。
彼の肩が震えた。
「ああ、
淵季は土産物でも見るように、部屋を眺め回した。
それから、慌てたように立ち上がった。
「夜か!」
長官の机には書類が山積みになっているのに、淵季は帰り支度を始めた。
「どうした、淵季」
「今日は七日目だ。凜花の部屋に行かなければ」
引き出しに手を突っ込み、ごそごそさせる。取り出したのは竹を割ったものだ。それに絹の帆を張り、抱える。
「それをどうするんだ?」
「何虎敬に言われたんだよ。凜花の飲んでいる薬の話だ。七日目の夜に部屋の前に立て、船を持って行くがよい。船は
薬と竹の船がどうつながるのかわからず、私は首を傾げた。
楊淵季が眉間に
「よせよ。そんな顔をするな。俺もわけがわからないんだ。だが、何虎敬が言うことだからな。何かあるのだろう」
「その通りにしてみようというわけだな」
「ああ、何もなければ文句を言うさ。今日は七日目なんだ」
私たちは顔を見合わせた。
「行くか」
淵季が竹の船を胸元にひょいと持ち上げて見せた。
「そうだな」
私はうなずいた。
凜花の部屋は淵季の屋敷の端にある。
いくら
今日は見上げても月はない。
玄都は、「都」とはいうが華都に比べるとずっと店が少ない。とくに役人の館ばかりのこの辺りでは、庭の池から流れ出る小川の音が響いて聞こえるほどの静けさである。
小川は館の周りを巻くように流れるようにつくるのが庭の基本だ。たいていの役人の家の場合は、塀ぞいの堀に流れ出る。
だが、淵季の家は川のほとりにあり、そのまま大きな川の支流に流れ込む形になっていた。
それ故、館の端に行くにつれ、支流の川の音が混じり、水音が大きくなる。
前を行く淵季が足を止めた。
水音に混じって、声が聞こえてきた。
「山には氷河が残っているそうだ」
「秋がくれば氷河が育つそうだよ」
また別の細い声が言う。
「冬にはずいぶん凍結するだろうね」
「そうなると中には入れない」
「夏のうちに近づいていかないと」
「なあ」
「なあ」
幼いようにも、老人が声を絞って言うようにも聞こえる。
私が体を起こそうとすると、淵季が肩を押さえた。
そして、水面を指さす。
「でも船がないね」
片方がしゅんとした声で言った。子どもが新しい着物を汚してしまったときのような口調だった。
「昔は
「天君の恵みじゃないよ。そういう名前で、みんなが船を流したんだよ」
「今年病気になった人の数だけ」
「氷河に向かって、団扇で扇いで」
うっとりとした声で、彼らは、船、とつぶやく。
私たちは顔を見合わせた。
小川は目の前である。視線を川へと振ると、誘われたように淵季が竹の船を水面に浮かべた。
船はゆっくりと建物の隅に向かって流れていく。
「あ、船」
そんな声がしただろうか。
不意に辺りが青白く光った。
光がおさまるのを待って、船を見る。
船には蟋蟀のような虫が二匹、仲よく並んで乗っている。
私たちは、そのまま船が館の外へに向かって流れていくのを見送る。
やがて船は、塀の下に空いた穴から川へと流れ出た。
「行くぞ」
淵季に
館の外には船がつながれている。ちょうど淵季と私が乗り込めるくらいの大きさだ。私は
青白く光る竹船は、下流に流れかかっていた。
淵季が
淵季が団扇を動かすと、竹船も少し川を上る。
それをくり返していると、やがて船は切り立った山のそばに
川の一部が、
冷たい風が洞窟から吹いてくる。
私たちは竹船を洞窟へと送った。私は自分たちの船が飲まれないように、流れに対して船が横向きになるように動かす。淵季は舳先から船の側面に移動し、手を伸ばして竹船を扇ぐ。
竹船が洞窟に飲まれる間際、ころころと虫の鳴き声がした気がした。
私たちは竹船が流れ込んだ真っ暗な穴を、しばらく見守っていた。
暗い中にいたせいですっかり夜目が利くようになっていた。星の明かりがやけに明るい。
館に戻ると、凜花が廊下に立っていた。ちょうど虫たちがもたれていたあたりで、手すりに手を当てている。
「どうした、起きたのか」
淵季が庭から見上げると、凜花は寝間着のまま階段を降りてきた。
「淵季様こそ。今までお仕事でしたか」
「まあな。しかし、どうして目が覚めたのだ」
「夢を見たのです。この国が滅びて、別の国が
淵季はただ、そうか、と言った。
「あの薬のせいでしょうか」
凜花が、何虎敬様の、とつけ加える。
「そうかもしれないな。つらい夢だったか」
「毎日、国が滅びる夢を見ていましたから。昨日の夢で初めて蛍になって、今日の夢で飛び立って。でも、今日の夢で極まったように感じました」
「あの薬は明日から飲まなくてよい。どうせ、七日分しかもらっていないからな」
「ええ、私も仙人病が治ったように感じます」
淵季が黙り込んだ。
目を凝らすと、彼が凜花をじっと見下ろしているのがわかった。
「……それでは、おまえはもう、自由だ」
私は彼らから視線を逸らす。
淵季が凜花を連れ歩いたのは、病気を治す薬を見つけようとしていたからだった。年頃の従者には見合いをさせて、別の家を与える主人も多い中、そうしなかったのは、凜花の病気に責任を感じていたせいだ。
おそらく仙人病は、私たちが仙人国を壊したときに流れ出た水が原因だと考えていたからだ。
「よい婿を探してやろう。家は建ててやる。
淵季の声はわずかに湿っている。
そのときだった。
「いいえ」
凜花が淵季に飛びついた。思わぬ衝撃に、淵季の体が揺れた。
「淵季様。私に婿はいりません。これからも修業を続けて、淵季様をお守りいたします。ずっと、長く使ってくださいませ」
淵季はしばらく動かなかった。私はひやひやしながら、彼の言葉を待っていた。
「……物好きな」
ため息とともに、淵季が凜花を抱きしめた。
「俺は妻帯するつもりはないぞ。家庭を持って経験するようなわずらわしさは、陸洋といるだけで十分味わえる」
「存じております。私も、武術を為す者として味わう余計なことは、淵季様にお仕えしているだけで、おもしろいくらいに出会うのです」
私は
後に知ったことだが、あのとき青白く光っていた虫は、氷の中に住む虫だということだ。氷の中にいるうちは悪させずに夢を見て眠っているが、外に流れ出ると人の頭に住みついて白昼に夢を見せるということだ。夢はやがて現実を侵食して、宿主を殺してしまうという。
やがて、玄都では仙人病が流行すると、竹船に絹の帆を張り、川を遡らせる祭りが行われるようになった。
〈おわり〉
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