【第三章 帰郷】 第8話 霊獣出現

 華都かとは我が国の中心にして、皇帝のおわすところである。しかし、近年、夜間の盗賊が増えたという。なんでも、以前は華都で跋扈ばっこしていた妖怪が現れなくなったため、人々が夜を恐れなくなったからだという。酔客も人だが、盗賊もまた人である。この世の法則では語り得ないものに襲われない夜は、彼らにとっても都合がよかった。


「実は、華都の西の野で、麒麟きりんを見かけたやつがいるらしいんだ」


 周仲興しゅうちゅうこうが少し不思議そうに眉をひそめて言った。

 山向こうから取り寄せたという香りの良い茶とも、玄都げんと一の商家として豪華に作られた応接間の様子とも合わぬ話題だった。


「麒麟、か」


 私がつぶやくと、仲興はうなずく。


「そうだ。……やっぱり、そういう顔色になるよな。欧陸洋おうりくよう


 仲興の視線を避けようと、居合わせた楊淵季ようえんき孫伯文そんはくぶんを見遣る。二人とも暗い表情をしていた。私も同じような顔をしているだろう。


 麒麟とは霊獣である。

 瑞獣で、聖人が現れるときに見かけられる霊獣だ。

 人よりもずっと大きなもので、龍の顔をしており、体にもうろこがある。遠くから見ると、大型の鹿に似ているというが、実際に見たものは、ほとんどいない。当世では皆無ではないだろうか。


「麒麟は生きていたのか」


 楊淵季が重い口を開いた。


「ああ、霧の中で立っているのを見たんだそうだ」


 仲興はいくぶん安堵あんどしたような声で告げた。

 麒麟が死んでいるというのは、ひどく不吉なことだ。国が滅ぶほどの凶兆だ。

 生きているというのだから、瑞祥である、と考えたいところだが。


「霧の中では、よく見えぬだろう。麒麟とわかったのはなぜだ」

「そういうと思ったよ、淵季。霧の中でも、ものの形くらいはわかるさ。形は鹿に似ていたがとても大きく、顔は龍だ。ひづめは馬。尻尾は牛。背中の毛は虹色」

「ひどく正確な麒麟だな。書物から出てきたようだ」

「からかうな。これだけそろっていて、麒麟じゃなければ何なんだ。おれはそれを聞いて華都の店を小さくしたんだ。いつでも逃げられるように」

「麒麟が生きていたというのに?」

「今の華都がどんなふうか知っているくせに。おれだって、それを無視して麒麟を喜べるほど出来が悪いわけじゃないからな」


 楊淵季が黙り込んだ。

 私はちらりと彼を見る。反論はできたはずだ。華都が荒れ始めたのは、私たちが玄都に派遣されてきてからである。伯文や文姫、あるいは父や兄の手紙で盗賊の話を読んだのだ。

 だから、楊淵季も華都の現状を、住んでいる人たちのように知るはずもない。


「なるほど。まあ、麒麟に見えた、というのなら、そうだろう。麒麟に見えただけでも評価すべきだな。俺などは、麒麟を見わけられないだろう。実物を見たわけでもなければ聖人でもない」


 淵季は面倒そうに手を顔の前で払った。

 みな、この話はやめだという雰囲気を感じ取り、肩をすくめて席を立った。

 孫伯文だけが、ぼそりとつぶやいた。


「不安を隠すな、楊淵季」


 淵季は唇の端だけで笑って、応接間を出ていった。慌てて追おうとした私に、伯文が呼びかけた。


「陸洋。北のほうはどうなっているんだ? 父上か兄上から何か聞いていないか」


 私は立ち止まった。

 実は、軍事に関わる二番目の兄から、北方がきな臭くなっているとは聞いていた。華都近郊の廟が壊されたのは反乱の兆しだとも伝えられた。兄たちがおさえこめればよいのだし、兄も大丈夫だと言っていた。

 危険ではある。そもそも、我が国は軍事力があまりない。他国と定期的に使者を行き来させることで、また、その際に多くの土産を持たせることで、威厳を保ってきた。軍事ではなく文化で力を示す方針だ。

 そこへ、兵力を蓄えた国が攻めてきたら防ぎきれるのか。

 先日、父からは、万が一に備えよという手紙が来た。つまり、どれだけきれい事を言っても、現状はそうなっている、ということだ。

 だが、そういうことは、家族の外には出さない決まりになっていた。


「私には何とも言えないよ」


 無表情を取り繕って答える。

 伯文が薄く笑った。


「わかった。そんな状況なんだな」


 私はうなずくこともできず、廊下に出た。

 淵季は少し先で待っていた。


「やはりそうか」


 私の顔を見るなり、淵季は渋面になった。


「何が?」

「さっき、伯文に答えていただろう」

「……ああ」

「実は俺のところにも陛下から命が来ている」


 思わず体が震えた。

 非常時に来る命令など、徴兵か兵糧の徴収だろう。


「どっちだ」

「どちらでもない」

「え?」


 ぽかんとする私を置いて、淵季は廊下を進んでいく。

 けっきょく、私たちは一言も交わさず仲興の屋敷を出て、役所に戻った。


☆☆☆☆☆☆☆


 長官の執務室に入ると、淵季は引き出しから金の糸で刺繍ししゅうほどこされた小さな袋を出した。そこから小さく畳まれた白い布を取り出す。

 嫌な予感がした。


「命令はこの通りだ」


 机に広げられた白い布には、陛下の文字で命令が書かれていた。

 わずか数行。

 私はそれを読み、血の気が引くのを感じた。倒れそうになるのを、机の端をつかんで堪える。


「陛下は……本気なのか」

「そうだろう。使者が商人に紛れて持ってきた」

「おまえは返事をしたのか」

「していない」

「使者は」

「帰した」

「どうして」

「帰りたがったからだ。華都に家族を残している。俺の返事に時間がかかるのなら、その間に家族を連れて玄都に移ってくると」

「しかし」

「大丈夫だ。表向きには、まだ使者はここにいることになっている」


 私は華都に残っている父や兄のことを思った。政治に深く関わり、軍事に携わる者たちは逃げることはできない。そういう者が逃げたら、いよいよ華都は危ないと国外にも知らせるようなものだ。もしものときはふんばって、ふんばりきって死ぬしかない。

 いざとなれば、兄や父は華都の民と共に、家族を逃がすだろう。私はその受け入れ準備をしておかなければならない。

 欧家のもので華都の外に出ているのは私だけだ。私の屋敷にはげんという私が幼いころから欧家にいる使用人がいて、今は使用人をまとめる役を担っているが、彼には状況を伝えなければならないだろう。程適ていてきもだ。もし、南安あたりまで親戚を迎えに行くとすれば、程適を責任者とするのがよいだろう。彼は南安から玄都までの道をよく知っている。


 しかし、そういう状況になる、ということは、我が国は?


「おまえは……命令に従うのか」

「従えば、俺は反逆者だ。従わなければ、帝国の一部として滅びることになるだろう」


 私も同意見だった。玄都はまだ帝国の都市としては十分ではない。北方の兵、あるいは反乱軍と戦えるほどの兵力などあるはずもない。

 私は机の上の文字を見つめた。



 玄都は一国として独立せよ。



 そう書かれた一文に釘付けになる。


「最初から、陛下はそのつもりだったのか?」


 私はつぶやいた。

 淵季は、以前この辺りにあった仙人国の最後の王だ。彼に長官を任せたのは、最初からこの土地を灰色の目の者の国にするためだったのだろうか。

 しかし、私たちが華都で働いている間、灰色の目の者が不審な動きをすることはあったし、淵季や私に直接交渉をもちかけてくることもあった。それを、私たちはしのいできたはずだ。再び仙人国を作らせないように。自分たちの国の安寧を守るために。

 だいたい、我が国は祖父の代に統一を果たした若い国だ。皇帝も二代目である。欧家は三代にわたって、この国を守ろうとしてきた。北方からも、玄都周辺に拠点を持つ灰色の目の者たちからも。

 それなのに。


「これでは、敗北ではないか」


 国は滅び、玄都も灰色の目の者の国となる。淵季はもはや帝国の人間だが、玄都には灰色の目の者が多いのだ。多すぎる。


「泣くな、陸洋」


 淵季が私の肩を抱いた。私は手の甲で目元を拭った。


「安心しろ。玄都の長官は俺だ。以前のあの国のようにはしない。……この辺りは、長い撤退戦の最後の砦となる。独立は全体を見極めてから考える」


 淵季の言葉から、彼も敗北を認めているのがわかった。


「ここは山がちで土地も少ない。華都の人々、それから安朱あたりからも逃げてくるかな。そういった者を受け入れるためには、玄都と南安の間の土地を拓くしかないだろうな」

「……しかも、秘密裏に、だな。淵季」

「そうだ」


 淵季はにやりと笑った。


「そうだよ、欧陸洋。前に西方の小屋で、何とかなる、と言ったのはおまえだろう。俺とおまえならうまくやる。わかりきったことだ」


 肩をぽんぽんと叩くと、淵季は私の正面に立った。


「まあ、落ち着いていこう。麒麟ごときで俺たち知識人が慌ててもな。書物どおりの麒麟など、実際にいるものではない。見たという者も、書物の知識があったから、そう見えてしまったのだろう。実際は木か何かだろうよ」


 彼らしい現実的な意見だった。私はうつむき、微笑む。皮膚にはひりひりした緊張が残っていたが、心の奥は少し和らいだ。

 そうだな、と答えようと顔を上げる。だが、淵季の顔は強ばっていた。私の後ろ、執務室の入り口を見ている。

 振り返ると、大きな龍の顔が見えた。閉めたはずの部屋の扉は目一杯開かれ、龍の髭で押さえられていた。身を屈めているのだろう。顔のすぐ下に足が見えた。馬のひづめだが、おそろしく大きい。ひづめの裏が落ち着かないのか、床で足をこすっている。


「麒麟、だ」


 私は思わず口走る。

 瑞獣であるのは穏やかな雰囲気から察せられた。

 足をあんまりこするので、私はそっと近づき、様子をうかがう。どうやら、足の裏に長い草が貼りついているようだ。


「失礼します」


 声を掛けて、ひづめのうらに手を伸ばす。平べったいものをはぎ取ると、やはり草だった。この辺りでは見かけない草だ。懐かしい。華都の近郊にはよくある植物の葉である。

 私は体を反らし、麒麟を見上げた。

 麒麟は穏やかな視線でまっすぐに淵季を見つめていた。

 それから、礼をするように、うやうやしく頭を下げた。

 私は体を避け、壁際に手を突いた。


「うそだろ」


 麒麟の視線の先で、楊淵季がへたり込むのが見えた。

 

     〈おわり〉

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