【第三章 帰郷】 第6話 万寿の薬
仙術といっても、我が帝国では扱ったことのない珍しい薬や、特別な技を必要とする治療などである。人の世のものではないように見えるが、すべては説明のつく技術である、と
とはいえ、珍しい薬について、楊淵季も私も知識を得たいと思っていた。楊淵季の護衛として
彼女の病気は、仙人国が崩壊したときの増水によって流れ出た毒を食らったためだと考えられる。病名も、仙人病という。
仙人国の病であれば、もともと仙人国にいた何虎敬の使う薬の中に効くものがあるのではないか、というのが我々の考えだった。
その何虎敬の助手に霊力のある生物に詳しいものがいて不老不死の薬を完成させたという噂が、近頃の玄都では広まっていた。
薬の名を、「
「そういうものをつくる暇があるのなら、仙人病をどうにかしてもらいたいものだ」
楊淵季が書類の山から一巻を取りながらぼやいた。
夜間は
近くにいるため、楊淵季がついた小さなため息が私の耳にも届いた。
私は顔を上げた。蝋燭の光の中、淵季はじっと書類を見つめている。視線は止まったままだ。
「考えごとなら、私が聞いてもよいが」
声を掛けると、淵季はけだるげに、うん、と言った。
「なあ、
「長寿の薬だろう。仙人病は急激に脳だけを老けさせる病気だと、おまえは言っていなかったか」
「だからだよ。不老不死の薬ならば、もう老けないのだろう。脳だけ例外というわけでもあるまい」
私は筆を置いた。楊淵季は怪異に詳しい割には現実的な男である。彼に言わせれば怪異にも論理があり、物理があるのだという。論理や物理でどうにもできぬものは時間だという。時間による変化は不可逆的なもので、元には戻らない。死んだ人が生き返らないのと同じだ。
いつもの淵季ならば、不老不死の薬など信じるはずもない。時が流れ続ける限り、死なない人はいないのである。
ただ、凜花の病気のこととなると、淵季は判断が鈍る。疲れていればなおさらだ。
「淵季、今日はもう切り上げたらどうだ。外で一杯飲んで帰ろう」
「そうだな、行くか」
淵季はあっさり言うと、書類を片づけ始めた。適当に紙を巻いては棚の空いているところに積み上げていく。
私は立ち上がり、彼の手をおさえた。
「ずいぶん疲れているな。片付けは私が手伝おう」
「ああ……すまん」
正面から見た淵季の目元には
「座っていたらどうだ。近頃、よく眠れないのか」
「眠れない、か。そうだな、どちらかというと五日ほど眠っていないのだ」
私は片付けの手を止めた。淵季は椅子の背にもたれ、手をだらりと下げると天井を仰いだ。
「何があった」
「……実は、何虎敬の助手がうちに『万寿』を売りにきたんだ」
何虎敬のうさんくさい顔を思い浮かべる。少年時代に出会って以来、いい思い出はない。私たちは彼に酷く騙されたのだ。
「まさか、買ったのか?」
「そんなわけないだろう。その薬師の老師は何虎敬だぞ。いちおう名医だが、そういう話はな。だが、毎日来る。凜花が聞きつけてしまったものだから、どうも、家の空気が悪い。今日も睨まれるのが嫌で、先に帰してしまったんだ」
なるほど、と私はため息をついた。
私たちはあの医者のことを知っている。自分の利益のためならば人を騙しもすれば裏切りもする。何虎敬の自尊心の高さに助けられたこともあるが、よほどのときである。
昔の話ではあるが、淵季が王を引き受けようとしていたころに、淵季を利用して自らが王になろうとしていた男だ。
一方、凜花はそのころの何虎敬を知らない。名医として知られる先生のところで作られた薬ならば、試してみたいと思うのが人情だ。
「私が凜花殿を説得しようか。いくらか……何虎敬の過去を話さなければならなくなるが」
「そうだな。それがいいかもしれない。あのときの話は、どうも俺は苦手でな」
淵季が弱気になるのも珍しかった。よほど参っているのだ。
「明日にでも話をしよう。さて、どこに飲みに行こうか」
「いつものところがいい。今日は新しい店では飲めない気分だ。行きつけといっても、どうせこのところ顔を見せていないからな」
私たちは蝋燭を消し、部屋にかぎを掛けて役所を出た。
いきつけは大路から一本入ったところで、道ばたに卓の並ぶ店だった。一軒ではなく数軒ある。酒の種類が違うので、気分によって一杯飲んでは次の店に行ったり、最後に最初の店で飲み直したりできる。
もうすぐ店だというとき、淵季が私の袖を引いた。
「今日はやめよう」
淵季は眉を寄せ、あごをしゃくった。
店には道服を着た男がいる。卓を回って客たちに丸薬を渡していた。ちょうどあごの先端を覆うように短い
「白と赤の薬……あれが、『万寿』だ。あいつが何虎敬の助手だよ」
「二つの丸薬で一つの薬なのか」
「そうだ。まず、白を飲む。それから赤だ。そう言っていた」
私は、へえ、と間抜けな声を返す。そういった薬は赤いものだと思いこんでいた。
「さあ、お試しくださいませ」
何虎敬の助手は酔客に頭を下げた。
「不老不死か、いいなあ、いつまでも酒が飲める」
だいぶできあがっている男が、白い薬を口に含むと酒で飲み下した。周りの客が、おお、と歓声を上げる。
「続けて、赤い方もお飲み下さい。できるだけ早く」
「おう、これで酒が飲み放題だ」
男は上機嫌で薬を口に放り込み、杯に残っていた酒をあおった。
だが、しばらくして不満げに薬師を見遣る。
「おいおい。何にも起こらないじゃないか。力がわくとか、頭のくらくらしているのが直るとか、ないのか」
「いやいや」
薬師が笑った。相変わらずの爽やかな笑顔だが、道服にも妙に整えられた髭にも似合っていない。
「不老不死は今日明日でわかるものではありません。七日は飲み続けていただきませんと。次第に赤玉の効果が出て参りますゆえ」
酔客たちは顔を見合わせた。
「それなら、赤玉だけ飲めば効果が早く出るんじゃないかよ」
一人が赤い丸薬を酒で飲んだ。とたん、薬師が、あっと叫び、背を向ける。
「そいつを逃がすな!」
淵季が飛び出した。外に出ていた店員たちが薬師につかみかかり、取り押さえる。
私は赤い丸薬を飲んだ男のほうを見た。
男は目を一杯に見開き、胸をかきむしっていた。
止めなければ、と思ったときだった。
「ぼあああ」
男が奇妙な音を出し、口から何かをはき出した。軒先の白い明かりに照らされたのは、赤い糸状のものだった。血ではない。一つ一つは小指の先ほどの短さだが、くねくねと動いている。それが口からあふれ出ていた。
「おまえ、虫を飲ませていたのか!」
店員が薬師を押さえつけたまま怒鳴った。薬師はもがき、顔を上げた。
「あれは霊力のある虫なんだ! 体の中の老人の元を食べてしまう。老人になると血が滞りがちになるが、血がさらさらと体中を流れるのだ。でも、徐々に慣らす必要があって」
言い訳を聞いている暇はなかった。どうにかして口から噴き出される虫を止めないと、道中が赤く染まってしまう。
「陸洋! 白玉だ。白い薬を酒に溶かしてかけろ!」
私は卓の上にあった白い丸薬を杯の酒に落とした。杯を揺らして薬を溶かすと、男の口元にまき散らした。
白い薬が男の口に入ると、赤い虫たちは動きを止め、互いに身を寄せ合うように固まった。赤い虫の塊は次第に縮み、もとの小さな丸薬になる。
「ほら、元通りだ。もういいだろう」
店員たちが力を緩めた途端、薬師は跳ね起きた。淵季が追おうとすると、路地から人影が出てきて、薬師と淵季の間に立った。
「おや。こんなところで」
鷹揚に
「
淵季は顔をしかめた。
「ああいうの?」
「二度と老いず、二度と死なない薬、ということです。あの男は白玉の薬を浴びなかったら死んでいたでしょう。時を止めてしまえば、もう老いも死にもしない」
「何をおっしゃりたいのか」
「赤玉は毒、白玉が解毒。違いますか」
「あれはどちらも霊力のある虫です。おかしいな、まずはあなた様に飲んでいただくようにと、助手には言いつけたのだが」
淵季の顔色が悪くなるのが店の光の下でもわかった。私も血の気が引くのを感じる。
あの薬をまず淵季に飲ませようというのは、まっさきに淵季を殺そうということだ。
私は拳を握りしめた。呼吸を整え、力を逃す。
何虎敬は私たちの様子には構わず、くるりと背を向けた。助手が何虎敬の数歩後ろについた。
「ああ、そうだ」
一軒分ほど歩いたところで、何虎敬が振り返った。
「陸洋殿。もうすぐ、
文姫とは私の妹だ。私の友人と結婚し、
「なぜ、文姫が?」
「おや、まだ何もご存じないのですね。あなた方の社会では駅路がないというのは、噂も遅れるということだ」
何虎敬は礼をし、また歩き始めた。
追いかけようとしたとき、背後で、うへえ、と情けない声が上がった。
振り返ると、最初に丸薬を飲んだ男が、泣きそうな顔で腹をさすっていた。
〈おわり〉
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