【第三章 帰郷】 第4話 勁草喰虫

  朝、不思議な蛇に会った。

 私の前を行きすぎるかと思えば、方向を変えて道をまっすぐに進み、次には逆方向へ行き、最後には、道を斜めに横切って茂みに消えていった。

 右往左往といったところだ。

 蛇は、たいてい人を避けるようにすいすいと道を過ぎっていくものである。

 出勤の時間が近づいていたが、私は好奇心を抑えきれず、蛇の消えた茂みを覗き込んだ。

 すると、手の平ほどの小さな石のほこらがあり、野の花が備えてあったのだった。

 祠が誰の、何のためのものかわからない。

 だが、私は祠の主が、また祠を守る人たちが、さらには、このげんという場所が安寧であることを祈った。

 そのとき、足元を水で浸したような感覚があった。その感覚は足元から、腹の方へ上がってくると、おさまった。


りくよう!」


 私は怒鳴られて、我に返る。私は、執務室の椅子に座ったまま、ぼうっとしていたようだ。机の側には、玄都の長官であるようえんが立っている。

 よい筆で描いたように整った眉を怒らせているこの男は、私の古い友人でもあった。


「すまん。少し、朝の出来事を思い返していた」


 すでに日は暮れている。燭台には太い蝋燭が一本、炎を揺らめかせていた。

 私は額を押さえ、蛇のことを記憶にしまい込むと、顔を上げた。


「どのような用だ。楊長官」


 私がそう言うと、淵季は顔を背け、舌打ちをした。


「周りに人がいないのに、そういう呼び方は嫌味だぞ」


 確かにそうだ。

 いつもならば、私は彼を「淵季」と字で呼ぶ。もちろん、昼間の、ほかの者の目があるときは「楊長官」と呼ぶのだが、夜間は、仕事中でも、たいていそんな呼び方はしない。

 おかしいな、と思いつつ、私は謝った。


「すまない、淵季。ちょっとぼうっとしていたんだ」

「見ていればわかる。朝の出来事とは何だ」


 淵季が机に両手を突いた。袖が机に当たって軽い風を起こす。蝋燭の炎が風を受けて左右に乱れた。


「ああ、朝、不思議な蛇に会って」


 行き過ぎると思えば、前を行き……。


 顛末てんまつを話そうとしたが、言葉を頭に思い浮かべるそばから、ふうっと気力が抜けていく。

 私はまた、額を押さえ、眉間をもんだ。

 どうも、今日はよくない。残業中だけでなく、朝からこうである。話すこと、することを思い浮かべると、ふうっとかすんで、気が緩んでしまう。


「変だぞ、陸洋。いったい、朝に何があった」

「だから蛇が、私の前を……横切って、いったんだ」

「どこへ」

「だから道を」

「蛇はどこに行ったんだ。道の脇の茂みか? それとも、人の家か」

「茂みだ。でも、茂みには」


 祠の話をしようと思ったら、急に頭が重くなった。

 私は椅子に背を預け、天井を見上げる。


「茂みにあったものは?」

「ほこら」


 私はぼんやりと言う。

 淵季がたたみかけた。


「どこの?」

「家のそば」

「そばって、どの辺りだ」

「ああ」


 私は机に突っ伏した。

 仕事は残っているが、もう眠ってしまいたい。家に帰るのも面倒だ。ここで、少し仮眠を。


「顔を上げろ! 欧陸洋」


 耳許で怒鳴られて、私は顔を上げた。

 ぼんやりしていた意識が一瞬はっきりする。だが、すぐに眠気に覆われた。


「いい加減にしろ。おい、ほこらで何があった」

「祈った。安寧を」

「その後はどうした! こら、しっかりしろ、陸洋」


 とうとう、淵季が私の背中をどん、と叩いた。

 私は痛みと衝撃でうめく。


「何をするんだ、淵季」

「おまえ、自分の状態がよくわかっていないだろう」


 淵季はじっと私の目を覗き込むと、面倒くさそうにため息をついた。


「やれやれ、ほこらで変なものを拾ったらしいな。悪いが改めさせてもらうぞ」


 私の腕を引いて立ち上がらせる。

 それから、淵季は衣の上から私の体を軽く叩いた。

 最初は胸や袖だ。

 両脇を確かめ、淵季は腹の辺りを見遣る。


「おや? おまえの衣はこんな形だったか?」


 淵季が衣を叩くと、朝に味わった、あの冷たい感覚が腹部から足元へと降りていった。


「……衣の形が変わったな。何が、入っていたんだ?」


 楊淵季はしばし思案にくれた。

 そのうちに、足元に降りていた冷たいものが、再び腹の辺りまで上がってくる。そして、衣の腹部にできた緩みにおさまると、もう動かなくなった。


「けいそうさんちゅう、か」


 淵季は記憶の底から引っ張り出すように、一字一字はっきりと発音した。

 明確に発音されても、そのような名の虫を、私は知らなかった。


「仕方ないな。おい、陸洋。すぐに戻るから、寝るなよ。……と言うだけは、むりか」


 淵季は私を椅子ごと動かすと、いきなり、足の指を踏みつけた。


「いたっ」


 私がのけぞり、椅子の背がぎしっと音を立てる。

 革の靴の上からとはいえ、足の小指を力いっぱい踏まれると、心臓が跳ねるほどに痛い。


「待ってろ。りんを呼んでくる」


 淵季が部屋を出ていく姿を見ることはできなかった。

 そのとき、私は腰を屈め、じんじんと痛む小指を手の平で包んで慰めていたのだった。


 小さな心臓があるかのように、小指の痛みは波打っている。もげたのではないかと靴を脱いでみたが、赤くなっているだけだった。爪も無事だ。

 だが、痛い。

 

 さっきまでの眠気は失せていた。頭の奥が重いから眠いのだろうが、それどころではない。


 ――それにしても、凜花を呼ぶとは?


 りょ凜花は楊家で最も腕の立つ者である。年若い女性で、日々、稽古けいこを続けているから、まだまだ強くなるだろう。

 もう一つ、彼女にはできることがある。

 彼女は仙人病という、正気を失う病気を患っている。そのせいか、正体がはっきりせず、剣の達人でも斬れないものを、彼女は捉えることができる。


 ――私が、怪しいものにとりつかれている、というのか。


 ようやく、私は淵季の考えに追いついた。

 だが、とりつかれたと言っても、別段、不便が生じているわけでもない。今日は単に、仕事の進みが遅いだけで。

 そうだ。

 今日は、どういうわけか、仕事をするぞ、という気力が抜けてしまうのだ。心をしっかりさせようとしても、急にやる気がなくなってしまう。


 ――それが、さっき言っていた、けいそうさんちゅう、のせいだというのか。


 けいそうさんちゅう。

 頭に蓄えた知識をひっくり返してみても、そんな言葉は出てこない。そもそも、どの漢字があてはまるのか、さっぱりわからない。最後の一字が、「虫」であろうというくらいだ。


 足の小指は、まだ痛い。

 当然と言えば当然だ。

 あの大柄な淵季が、顔を見る限り、全身の力を込めて、私の足の小指を踏みつけたのだ。

 衝撃としては、書物がたくさん積まれた棚の角に、小指をぶつけてしまったときくらいのものがあっただろう。

 けいそうさんちゅうが何ものかわからないが、友人への仕打ちとしてはあんまりである。

 私は堪えきれずに目尻からこぼれた涙を拭くこともせず、ああ、とか、うう、とか呻きながら、小指の痛みが消えるのを待つしかなかった。


 ――何で、こんなことを。

 

 淵季に怒りが湧いたころ、彼は凜花を伴って戻ってきた。

 

「陸洋! 無事か」


 悪気のない声で言うと、淵季は私に駆け寄った。


「立て。すぐに楽にしてやる」


 ――やめてくれ、今はしゃがんでいるほうが、まだよいのだ。


 思いを口にするひまもなく、淵季は私の両脇に手を突っ込み、立ち上がらせた。体重をくらった小指が軋んだ。


「ああ」


 悲鳴を上げる私に構わず、淵季は怒鳴った。


「行くぞ、凜花! 逃すな」


 視界の端で、呂凜花が真剣な表情になり、偃月刀を構えるのが見えた。


 ――私は、斬られるのではあるまいな。


 先ほど、淵季に酷い目に遭わされたばかりである。従者である凜花まで、もしや。


 危険を感じて、淵季をふりほどこうとした。

 その瞬間、淵季の手が私の腹を強く打った。

 衣から青い蛇が飛び出した。


「今だ! 斬れ!」


 呂凜花の偃月刀が蝋燭の炎を映して光る。

 瞬間、私の腹の辺りに刃が過ぎった。

 床に真っ二つになった蛇が、落ちた。

 頭の中の霧が急に晴れた。


「どうだ、陸洋。頭の具合は」


 私は淵季の顔を見た。

 彼は、私がこの蛇にとりつかれているのに気づき、妖を斬れる凜花を呼んできたのだ。そして、真っ二つになっている蛇が、けいそうさんちゅう、である。

 勁草喰虫、だ。


「ああ。ありがとう、凜花殿。……淵季も」


 勁草とは、根が強く、葉のかたい草のことを言う。それ故に、風になびくことがない。同じように、誰にもなびかない信念の強い人を、勁草というのだ。

 私は、蛇を見下ろした。


「しかし、これが勁草喰虫だというのなら、どうして私の気力がそがれてしまったのだ」


 べつに、仕事をするのに固い信念はいらないはずだが。


「ああ、それはな」


 淵季は蛇を二つの袋に分けて入れると、凜花に渡した。


「何事も、しようとする気力がなければできないだろう。やり遂げなければならぬという強い気持ちで行うことと、これが正しい、ゆえに、こうすべきだ、という信念に基づいた行動と、そうは変わらないのさ。つまり、こいつは、おまえのやる気を喰ったんだ」


 そんな怪しい力を持つ蛇だから、乾燥させて煎ずれば薬になるかもしれん、明日の朝、医者に渡してみろ、と淵季は続けた。

 凜花がうなずき、礼をして去った。


 私は、机の上に積まれた書類を見た。

 もはや、虫にやる気を喰われて霞の中で、まあいいや、と思っていた自分はいなかった。

 処理するのに夜中までかかるであろう仕事の山に、ただ、絶望があるだけだった。


        〈おわり〉

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