【第三章 帰郷】 第3話 神亀の藻
私とは十代の頃からの仲でもあり、また、かつて仙人国への道のりを共にした者でもある。
満月の晩のことである。
私は程適と共に、執務室の入り口にひざまずき、床を見つめていた。
相変わらずの残業をしていたところ、程適が亀を連れてきたのだった。
亀は、執務室の床をのそりのそりと歩いている。部屋の中央に置かれた燭台を避けるように、窓際へと進んでいる。
「亀らしい歩みだと思うが」
私はつぶやく。程適は首を横に振った。
「いや、旦那。この目で見たんでさ。あの亀が、人よりも速く走るのを」
とはいえ、亀の足の長さは二寸ほどである。
どれだけ速く足を動かしても、人を超す速さにはなるまい。
「あり得ない、という顔をなさらなくても」
程適が不満そうに目を細めた。私は肩をすくめる。
本心を知られてしまったのでは、しかたがない。
「だが、見ている限りは、人を超えるどころか、走りもしないではないか」
「そんなことないんだけどなあ」
程適は駆け寄って、亀を持ち上げた。
足の着き場を失った亀が、手足をもぞもぞと動かす。あせっているようにも見えたが、なにぶん、動きが緩やかで、緊張感がない。
「ほら、旦那。顔つきだって、ちょっと亀にしては物がわかっている風で」
程適が私の鼻先に、亀の顔を近づけた。
亀は手足の動きを止め、真っ黒な瞳で私を見つめた。
あたかも、水から上がったばかりのように、目がうるんでいる。
口をむすんだ顔は、悲しげでもあったし、達観しているようでもあった。
長い年月を過ごしてきたのだろう。甲羅には
「私にはそうは見えないが。もう、川に放してやったらどうだ。長官の館なんて堅苦しい役所では、亀も居心地が悪いだろう」
「そうですかねえ」
「そうだよ。元の場所に帰してやったほうがよい」
程適が残念そうに、はい、と答えた。
そのとき、亀の瞳がぐるりと動き、白目が見えた。人の目に似ている。私は驚いて、身を固くした。すぐに程適に言うべきだと思ったが、声が出ない。
亀は首を伸ばすと、私に向かって口を開いた。
瞬間、白い煙が亀の口から吹き出た。
煙を浴びた私は、急に眠気を覚え、膝から崩れた。
どのくらい気を失っていたのだろう。
目を開けると、私は役所の床に寝そべっていた。
体を起こしてみるが、まだ眠気が重い。いつの間に、蝋燭が消えてしまったのか、辺りは窓から入る月明かりばかりである。
室内を見回し、ふと、机の辺りに人影を見つけた。
武人である。
胸元を守る護心鏡が、暗い室内で鈍色に浮かび上がって見える。金属をつづった肩当ても太い革の帯も、大昔の大帝国のものに似ている。
亀の甲羅に似た形の盾の上下には、柄のようなものが突き出ている。柄の先は
「
私の名が呼ばれた。武人の声はひび割れていた。だが、不思議と頭に心地よく響く。
「あなたは、どなたですか」
慎重に問いかける。
武人は、とん、と鉤を床に打ち当てて鳴らした。
「我は神亀である。そなたは捕らえられていた我を放って、徳を積んだ。これを召されよ。そなたを、仙人にして差し上げよう」
武人は
私は受け取り、手触りを確かめる。
よい絹のようだった。
ひそかに月明かりにさらすと、緑色をしているのがわかった。
「さあ、召し上がるがよい。仙人になれよう」
ひとくちに飲めぬ長さではない。
だが、自らを神亀と名乗る、見知らぬ武人からもらったものを腹に入れるほど、私は不用心ではなかった。
「なんとも、もったいないもので」
恐縮する振りをして、飾り紐をしまい込もうと
からん、と音がした。武人が盾から手を離し、私の手をつかんでいた。
「お飲みになられよ」
ぐるりと黒目を回す。あの亀と同じ目だ。
武人は湿り気のある手に、鋭い爪を生やしている。私の手に爪が食い込んだ。血が出るところまではいかないが、痛い。
私は空いている手で武人の手首をつかむと、力を込めた。
武人が私の手を離した。すかさず、私は武人の口の中に飾り紐を押し込む。
「何をなさるか!」
武人は慌てて口に手を突っ込み、飾り紐をはき出した。
「仙人になれるというのなら、なぜ、武人殿がお飲みにならぬ」
「いや、我はすでに神であって、徳を積んだそなたを仙人にしてやろうと」
「それでは、私も神にしていただきたい」
「で、では、その飾り紐を飲まれるがよい」
「これを飲めば、仙人になるのではないですか」
「ああ、だから」
武人はしどろもどろになると、頭を抱えた。そのままうずくまる。
「
そのまま、武人は縮んで丸くなり、一匹の亀に戻った。
床には、緑の飾り紐がはき出されたままになっていた。
私は紐を拾い、亀を持ち上げた。
甲羅に結んで、玄都の長官である
その時だった。
「愚かな」
武人の声がして、亀が私の顔に飛びかかった。
鼻をふさがれ、口を開ける。
唇に何かが当たった。あの、飾り紐に違いない。
亀を顔から離れさせようともがいていると、声がした。
「陸洋、亀の首をつかめ!」
楊淵季だ。
私は手探りで亀の甲羅側から首を探す。指先でつまもうとした途端、首が引っ込み、亀が顔から落ちた。
「……おい、大丈夫か」
再び、楊淵季の声がした。私は目を開ける。いつの間にか、うつぶせに転がっていた。両手を床につき、立ち上がる。
「大丈夫ですか。旦那。いきなり倒れたんで、驚いて」
程適が心配そうに私を覗き込んだ。
「しかも、亀はおまえの口に、甲羅の藻を押しつけていたからな。藻を食べてしまうのではないかと心配したぞ」
淵季の左手は亀の甲羅をつかんでいた。
右手には、武人の護心鏡の飾り紐と同じ色の藻が握られている。
「それは」
「おまえが食べようとしていた藻だ。口に入りそうだったから、むしった。得体の知れないものを食らって、腹を壊してもいけないからな。ここの医者は腕はいいが、たちが悪い」
淵季が顔をしかめた。
私も、天井を見遣る。
玄都の名医と言われる
「たしかに。健康でいるのがよいだろうな」
「当たり前だ」
淵季が力を込めて行った。
そのとき、彼の手から亀がすり抜け、床に落ちた。
亀はゴトリと重たい音を立て、手足を引っ込めた。だが、無事だったらしく、すぐに首と手足を甲羅から出すと、窓に向かって逃げ出した。
どうせ、窓のさんはまで上がれまい、と私たちは高をくくった。
その時だった。
亀は馬車のような速さで床を駆けると、一気に壁をよじ登り、窓から飛び出した。
「あ、待て!」
淵季が怒鳴ったが、待つはずもない。
私たちは呆然と亀を見送った。
「ほら、神亀でございましたでしょう」
ぼんやりした口調で、程適が告げた。
私たちも、ああ、と曖昧な返事をする。
「せっかくだから、甲羅を薬にでもしてやろうかと思ったのに」
淵季は残念そうにつぶやくと、右手の藻を捨てようとした。
「待て、淵季。さっきの亀は、それを仙人になれるものだと言っていたぞ」
「仙人?」
私は厳しい表情で彼を見た。淵季も、次第に顔色が悪くなった。
「では、
「おそらく。飲ませられなくてよかった」
「もう少しでおまえの口に入るところだったぞ」
私はぞっとし、身震いのついでに、はは、と声を上げた。
淵季は右手の藻をじっと見つめていたが、不意に懐から呪言の書かれた袋を出し、藻を入れた。
「どうするつもりだ」
「これを、あの気に入らない医者に見せるさ。これが毒のようなものならば、解毒の方法もわかるかもしれない」
私は、亀が消えていった暗がりを見つめた。
程適が言った。
「それにしてもあの亀、たくさんいたんだよなあ」
淵季と私は慌てて程適の方を向いた。
程適はぶるっと体を震わせると、答えた。
「池の周りに集まって、月光浴をしていたんです。ざっと百はおりました。みんな、甲羅じゅうに、その藻をつけていたんでさあ」
〈おわり〉
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