【第三章 帰郷】 第2話 珊瑚魔鏡

 玄都げんとには、西方から流れる細い川がある。水は清らかで冷たく、川底まで見えた。

 楊淵季ようえんきの言うのには、山奥にある氷河が少しずつ溶けてできた川であろうという。


「川で拾った、というのか? 盗品ではなく」


 淵季は執務室の机に肘をつき、珊瑚さんごで作られた平たい飾り物をのぞき込んだ。


「ええ、川のそばでおばあさんに渡されたんです。腰も曲がっていましたし、歩くのも遅くて、とても盗みができるようには見えませんでした」


 珊瑚の飾り物を手にしているのは、淵季の従者、呂凜花りょりんかである。年若い女性だが、楊家では最も武芸に秀でた人物で、我々は幾度も助けられていた。


 私は、時折、目の奥に痛みが走るのをこらえながら、淵季のかたわらに立っていた。

 けっきょく、こちらに来ても残業である。

 新しくできた役所だけに、処理しなければならないものも多い。今は、与えられた仕事以外の雑事も、みなでこなしていかなければ間に合わない忙しさだった。


「なぜ、老婆はおまえにそれを渡したのだ。俺の従者だと名乗ったのか?」


 淵季は合点がいかぬようで、手の平にあごを乗せ、首を傾げた。


「いえ。お名前をおっしゃらなかったし、賄賂わいろということはないでしょう。ただ」


 凜花も首を傾げる。頭頂に近いところでまとめた髪が肩をさらりと流れた。同時に、髪にした金色の飾りが、蝋燭ろうそくの炎を映じて光った。光は、髪にも、瞳にも宿る。頬も、薄い紅しかさしていない唇も、いつもより柔らかく、赤みが差しているように見える。


「私を助ける鏡だと、おばあさんはおっしゃったんです」


 眉を寄せ、憂い顔になる。私はどきりとした。少女の頃から見ている人だが、ふとしたときに大人の表情を見せるようになった。


「鏡だと? 珊瑚細工じゃないのか」

「ええ、反対側がよく磨かれているのです」


 凜花は珊瑚の飾り物をくるりと回した。そちらの面には彫刻がなく、平らである。


「確かに、映るといえば、映るな。金属の鏡のようにはいかないが」


 淵季がちらりとこちらを見上げた。私も、珊瑚を覗き込んでみる。よく磨かれた面にはうっすらと私の顔が映っていた。

 と、目の辺りがチラチラとまたたいたように見えた。

 目がおかしくなったのか、と、いったん目を閉じる。

 眉間みけんをほぐしてもう一度見ると、ただ、ぼんやりした私の顔が映っているだけだった。


「おまえは映してみたのか?」

「はい、淵季様。でも、ちょっとゆがみが酷くて。鏡とは言えない映りでした」

「そうかな」


 淵季はまた、珊瑚を覗き込んだ。後ろから見ると、ただ、いつも通りの淵季の姿が映っているだけで、ゆがみもしなければ、瞬きもしなかった。


「ともかく、気味が悪いのでお預けします」

「わかった。……ところで、近頃、具合はどうだ」


 凜花を見つめる淵季の視線が憂いを帯びた。

 凜花には、病気がある。ときおり、正気を失うのだ。彼女の両親も同じ病気で、酷くなると呼吸の仕方まで忘れてしまうという。仙人病、という病気だと聞いたことがあったが、それがどんな原因でなる病なのか、私たちにはわからなかった。


 凜花はしばらく、黙っていた。

 だが、にっこり笑うと、答えた。


「変わりません。ご心配なく」


 脇挟んでいた長刀の柄を握り、一礼して出ていく彼女を、私たちは無言で見送る。

 私も淵季も、凜花の病気を治してやりたいと思っていた。

 彼女が、生き方すら忘れてしまう前に。


「さて、仕事に戻るか」


 私はわざと明るく言って、壁際にある机に近づいた。そこには、自分の執務室から持ってきた書類の山がある。蝋燭を二室分灯すのももったいないので、一室に集まって残業をしているのだ。


 たわいもない会話を挟んだせいか、仕事ははかどった。凜花が来る前は、細かい文字を見ると目の奥がじわりと痛み、目に涙が浮かんだものだが、もうそういうこともない。

 今晩しようと思っていた仕事が終わったが、調子がいいので別の仕事もしようと、立ち上がった。


「どうした、陸洋りくよう

「いや、今晩は調子がいいからな。もう少し仕事をしたいのだ。書類を取りにいきたいから、蝋燭を一本借りてもいいかな」

「いい。それにしても珍しいな。いつも一つ書類を読んでは、眉間をほぐしているおまえがさっきから、ずっと同じ姿勢で書類を読んでいた」

「今日は調子がよいようだ」


 私が書類を脇に抱えて戻ってくると、淵季は珊瑚の鏡を手の平に乗せ、難しい顔をしていた。

 蝋燭を戻しがてら、私は彼に近づいた。


「おい、陸洋。ゆがんでいるか?」


 淵季が私に鏡を向けた。先ほどのようなちらつきはなく、いつもより元気な私が映っているだけだった。


「ゆがんではいないだろう。まあ、金属の鏡のように色まで映すわけではないから、うっすらと輪郭りんかくが見えるだけだが」

「俺もそう見える。でも、凜花はゆがみが酷い、と言っていたよな?」


 確かに、そうだ。

 私はもう一度、鏡を覗き込む。よく磨かれた珊瑚には、淡い陰影で私の顔の輪郭が浮かび上がっている。


「なぜ、凜花のときだけ、ゆがんだんだ」

「凜花殿は、鏡とは言えない映り、とも言っていたな」


 おかしい。


「……もしかして、凜花は、目をやられているのではないか」


 淵季がぼそっと言った。私は慌てて、凜花の行動を思い返してみる。珊瑚を手に、まっすぐに淵季の机の元に歩いてきた様子、いつもたずさえている長刀を素早く脇に挟み、淵季に鏡を差し出した様子。


「いや、昔から、凜花殿の動きは漂亮きれいだ。今日も」


 うん、とうなずいて、淵季はしばらく考え込んでいた。私は言葉を加えた。


「目ではないと思う。おまえに鏡を渡したとき、確実におまえが映る位置に差し出しただろう。そんなこと、目をやられていたら、できないはずだ」

「わかっている。でも、そうなると、凜花が見たときだけ、鏡に映る像がゆがんだことになるぞ」

「それはそれで奇妙だが」


 しばらく、淵季は鏡をいろんな角度に向けてみて、像がゆがむか試していた。だが、ふう、と息をついて首を振る。


「ゆがまない。なぜだ?」


 私にも答えはわからなかった。

 とりあえず、運んできた書類を片づけてしまおうと、席に着く。

 紙に書かれた細かい文字を読み解いていく。多くは、この土地の北、西、南を囲む山の向こうで、どんな国がどんな政治をしているかという報告書だ。

 役人を派遣しているところもあるが、貿易商の書いたものも混じっている。役人とは文章の書き方が違うので、よけいに目が疲れやすい。

 だが、その晩は、目の奥が痛むことはなかった。


「陸洋。おまえ、やけに元気だな」

「そうだな。今日はどういうわけか、調子がよくて」

「嘘をつけ。蝋燭をけちるためにここに荷物を運んできたときには、しきりに瞬きをして眉間をほぐしていたぞ」

「目が疲れていたんだよ」

「その疲れはどうした」

「わからない。急に取れたんだ」


 私たちは互いを見つめた。


「おかしい」


 淵季がつぶやいた。

 私もうなずく。

 何かがおかしい。いつもならば、夜は昼間より疲れているはずだ。書類を読むのだって、辺りが明るいうちと比べれば、ちらつく蝋燭の明かり頼みの夜は、ずいぶん遅くなる。

 それなのに。


「いつから、そんなに元気になった」


 いつ。


 記憶を辿る。いつまで目の疲れを覚えていただろうか。


「そういえば、最初にその鏡をのぞいたとき、ちらつきがあったんだ。でも、そのあとはない」

「鏡を見た後、か。……まさか」

「どうした、淵季」

「凜花を呼び戻そう」


 珊瑚の鏡を袖で包むと、立ち上がった。

 私たちは凜花がいそうなところを探して歩く。

 庭、書庫、客が来たときの控え室。


 四方を建物で囲まれた小さな庭で、素振りの音がしていた。

 凜花は眉の様に細い月の光を浴びて、長刀を振り下ろしていた。


「凜花」


 淵季は呼びかける。

 凜花が振り向いた。

 瞬間、袖から鏡を出して彼女に向けた。


「あっ」


 凜花が声を上げ、口元に手をやった。

 私は、鏡を覗き込んだ。


 そこには、老人が映っていた。白髪のせいか、結ってある部分も明確な輪郭にはならず、頬の線の一部に見えた。顔にはしわが刻まれている。口元と、目元。首も肉がそげ、皺ができている。


「凜花。これは、おまえの外見がどうかなったわけではない」


 淵季は鏡を構えたまま、凜花に近づいた。

 凜花が数歩退く。


「でも、そこには老婆が」

「さっき、陸洋はこの鏡を見て、目にちらちらしたものを感じたそうだ。だが、その後は、目の疲れもなく元気に働いている。夜なのに」


 凜花が首を傾げた。鏡の中の老婆も、同じように頭を傾ける。


「陸洋はこの鏡を見て、目の不調が直ったのだ。これは、病気を治す鏡だよ。……いいか、凜花。おまえは今、老婆の姿で映っている。だが、どこか体が痛いか? 動きにくいところがあるか?」


 戸惑いがちに、凜花が長刀を構えた。私と目が合うと、小さくうなずいて、ぐるっと回ってみせる。


「いえ、どこも」

「体ではないならば、これは、おまえの頭の中の様子を表している」

「頭?」

「そうだ。……仙人病というのは、おそらく、若い体のまま、脳だけ急激に年老いてしまう病だ」


 凜花が息をみ、鏡に近づいた。

 鏡の中の老婆と、凜花の目が合う。

 両者は見つめ合い続ける。

 やがて、老婆の姿が、少しずつ若返っていった。

 鏡の中の像が、ちょうど中年の女の姿になったときだった。


「ああ……お母さん」


 凜花が一声放って、気を失った。


「凜花殿」


 倒れるのを支え、手首を診る。脈は整っていた。

 大丈夫、生きているぞ、そう淵季に伝えようとした。

 そのとき、淵季の手許で、鏡が砕けた。


「病が深すぎたか」


 悔しそうに、淵季が言った。


 一晩、長官の館の控え室で眠った凜花は、翌日、元気に起きてきた。

 いつもより、表情が明るく見えた。

 しかし、珊瑚の鏡の話をすると不思議そうな顔をした。

 記憶にない、という。

 珊瑚の鏡を見せようにも、もう砕けてしまっている。

 私たちは、その後、珊瑚の鏡の話をしなかった。

 だが、淵季の机の引き出しには、丁寧に拾い集めた珊瑚のかけらが、白い袋に入れてしまわれている。


       〈おわり〉

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