【第三章 帰郷】 第1話 翡翠の龍

 西南の玄都げんとは、皇帝がおわす華都かとから船で一週間南にくだり、さらに南安なんあんで船をえて西に数日、その後、木々の枝が空をおおう小暗い山道を進んだところにある。

 南安からの駅路えきろの整備は止まったままである。

 それでも、材木やかわらを運び、玄都に地方長官の館が建てられた。

 初代長官にいたのは、華都で「灰色の目の変人」とあだ名がつけられている楊淵季ようえんきである。

 玄都の長官は辺境の軍事を司る官でもある。仕事とはいえ、日々、書庫にこもっていた楊淵季には、すこぶる不適切な人事であるというのが、華都の官僚たちの正直な感想だった。

 周囲も異を唱えたが、本人も最初は承知しなかった。しかし、国の軍事の責任者を輩出し、三代にわたっての忠臣であるおう家の者が同行することが決まると、両者があっけなくおさまった。

 周囲の者は、欧家の者がいれば長官が変人でも治まるだろう、と納得できたらしい。

 楊淵季本人は、というと、その欧家のものが古くからの友人だったため、承知したそうだ。

 私は、その欧家の者である。

 名を欧陸洋りくようという。

 

 玄都に着いて初めての新月の夜、私たちは庶民の格好をして、玄都の露店で飲んでいた。

 ここの酒は、華都では見ないものだ。透明な器に透明な酒が入っているのだ。水のようだが、飲めば、まぎれもなく酒である。


「まるで囚人のようだ」


 楊淵季は左手首にはめた翡翠ひすいの腕輪を屋台の明かりにかざす。

 陛下にたまわったものだった。

 腕輪は完全な円ではない。一部が切れている。龍が彫刻されているのだ。翡翠の龍は楊淵季の手首をくるりと巻いて、ちょうど自分の尾をにらむ形になっている。


「道ばたの店で呑気のんきに飲めるのだから、囚人ではないだろう」

「なんで、俺がこんな腕輪などしなければならないんだ。呪いかよ」


 淵季はうんざりした顔で、卓に顔を伏せた。

 私は苦笑した。

 わからないでもない。

 華都では滅多にいない灰色の目の者だが、実は、玄都にはあちこちにいる。昔、ここに山があり、仙人が住むと言われた王国があった。その王国の者の目は灰色であった。当時十七歳の少年であった王が国を滅ぼしたのは、ずいぶん前のことである。

 それからは、灰色の目の人々は山を下り、玄都で暮らすようになった。

「灰色の目の変人」である淵季は、少年時代の一時、この国の王であった。

 つまり、国を滅ぼした最後の王である。

 呪い、というのは、かつての王である自分に、わざわざ龍の腕輪を付けさせ、支配下にあることを示したことを言うのだろう。

 ひるがえって考えれば、最後の王であった淵季でなければ治まらないような難しい地であること、淵季が裏切れば新たに国をおこすかもしれないとおそれられるほどの存在であることを、表しているともいえる。

 淵季がその気になれば、龍の腕輪があろうとも新たな仙人国をつくれるだろう。

 腕輪があることを妨げに感じて、元仙人国の人々の願いを退けるならば、そうするだろう。

 どのみち、この地の運命は、淵季にかかっている。


「どうも居心地が悪い。何をしていても見られているからな」


 淵季が卓に杯を置き、夜空を見上げた。

 

「おまえは長官だからな。みな、おまえの一挙手一投足に注目しているだろう」

「そうじゃない。寝所ですら、だ。うっとうしい」


 寝所?


「部屋の前に、誰か控えさせているのか? その者が実は見張っているとか」


 そうだとしても、寝所をのぞかれるのは気持ちのいいものではない。


「いや、違う。公邸は門に見張りがいるだけだ。部屋の前には誰もいない」

「だったら、どうして寝所など」

「まあ、見当がついているのだが」


 ではその者に覗かないようにさとすだけだ、と言おうとしたとき、違和感があった。

 視線を感じる。

 背後だ。しかし、向かいの店は豆や果物を扱う店で、もう閉まっているはずだった。

 客でなければ誰だろう、と振り返る。

 すると、うしろの正面、建物の陰から二つ、赤く光るもの見える。

 目だ。

 動物だろうか。

 目を凝らすと、光はゆらりと動いた。風であおがれた布きれのような動きだ。


 ――あんな動きをする生き物が、いただろうか。

 

 空飛ぶ鳥でも、あんなにゆっくりとは動かない。そもそも、今は夜である。では、虫が光っているのか。ならば、どうして目玉のように二つそろっているのか。


「陸洋。見えているか」


 私はぎょっとして、息を強く吸い込む。


「やはり。……ちょっと試してみたいのだが、いいか」

「なんだ」

「この腕輪をしていてくれ」


 答える間もなかった。淵季はすばやく私の左の手首に翡翠の腕輪をはめると、つけ加えた。


「俺が三歩歩いたら、ゆっくり振り返れ、陸洋」


 淵季は空になった器を手に、店の主の方へ歩いていく。

 よくわからないまま、私は振り返った。

 

 ――……あ。

 

 声にならない声が、私の腹から突き上げた。

 背後には、人の顔ほどもある赤い光が二つあったのだ。

 何度も深く呼吸をしてみるが、喉の緊張がほどけない。声が出せないまま龍と睨み合う。

 手首に痛みを感じて、そちらに目を遣る。

 翡翠の腕輪は秘境の池の様に薄緑色に輝いている。彫刻の龍が波打つように動いていた。蛇が巻くように、私の腕を締めつけている。

 痛みが熱を帯びる。左手の指先がしびれてきた。

 私は腕輪と手首の間に、右手の指を突っ込んだ。ありったけの力を込め、腕輪を広げようと引っ張る。


 ふと、腕輪のしめつけが緩み、するっと外れた。

 私の背後ににあった赤い光が腕輪に吸い込まれる。すると腕輪は細長く伸び、小さな龍になった。細いひげが風に揺れ、目は赤く光っている。

 龍は、私の首元に飛び込もうとした。


「陸洋、けろ!」


 怒鳴られて、私は後ろに飛び退いた。淵季が龍と私の間に割り込み、目標を失って慌てる龍の頭を手の平でつかむ。

 すぐに、龍は淵季の手首に巻きつき、腕輪に戻った。

 私は駆け寄り、力任せに腕輪を左右に開く。

 再び、腕輪が細長く伸び、私の指先から逃れる。


 翡翠の龍は、私たちの間で少し迷った後、淵季の首めがけて飛んだ。

 私は卓にあった器を酒ごと投げつける。

 透明な器に気づかなかったのか、龍は器にぶつかった。それから、丸いものだと気づいて、器に巻きつく。

 器が割れ、龍が頭から酒を浴びた。


 龍はしばらく勢いよく尻尾を動かしていたが、ふらふらと飛び上がった後、卓の上に落ちた。


下戸げこだったと見える」


 淵季がつぶやき、ふところから袋を出した。


「そんなもので、龍が捕まえられるのか」

「まあ、見てみろ」


 淵季が開いた袋の中は、呪言が書き込まれていた。


「この中であれば、おとなしくしているしかないだろう。華都に報告に戻る折にでも、陛下に意図をうかがおう。陸洋、この中に入れてくれ」


 私は龍をつまみ上げ、袋に入れようとした。

 瞬間、龍は身をうねらせ、夜空に昇っていった。


「ああ……すまん、淵季」

「いいさ。戻ってこなければいい。館や公邸に入れないように、あちこちに呪言を書いておくよ」


 淵季は大きな伸びをした。私の視線に気づくと、見張られているのが気になって眠りが浅かったのだ、と告げた。

 私たちは公邸の前で別れ、静かな夜を過ごした。


 翌朝である。

 出勤すると、淵季は長官の館の屋根を見上げていた。腕組みをして、眉間にしわを寄せている。

 どうしたのかと尋ねると、淵季は屋根のむねを指さした。

 重ねられた瓦に、墨色の龍の彫刻が見えた。


「あんなところに居場所を変えやがった。追い払おうにも、館を壊すわけにはいかないからな」


 淵季はあきらめたように、執務室に入っていった。

 それからも、淵季が査察に行く折など、屋根の龍は翡翠の腕輪に変わって、彼の手首に巻きついている。


       〈おわり〉 

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