【第二章 異郷】 第6話 朱眼の白猿
夜の霧が、木の
森に道はあれども人の気配はなく、遠くで猿の鳴き声がする。
「
私は闇に呼びかける。
前方を、
だが、年来積もった枯葉で足元はゆるく、靴に押しつぶされることがない。そのため、足跡は残らない。風雨にさらされ一体となった枯葉では、踏んでも音がしない。
私はただ、一人で白くけぶる山中を歩いているような気持ちになった。
「俺たちの居場所を知らせるようなことをして、どうするのだ。
ややあって、霧の流れにそって、小さな声が返ってくる。
「大きな酒の
私の背後、十歩ほどのところで、荒い息づかいと、水の揺れる音がしている。従者の
本当は、力自慢の私が代わってやりたかったが、腰に刀を下げているので、ままならなかった。淵季が、「危ないこともあるかもしれない」と言って、兵士が使うような刀をくれたのだ。すっきりと伸びた
「敵は誰だ? ……そもそも、敵なのか?」
「さあ、知らん。
凜花とは、淵季の従者で、護衛代わりに連れている娘である。
彼女は、霧の山道で私たちを先導していた。
「昨晩、女人が一人、宿舎に逃げ込んだのを知っているか? その者が、凜花に話したところでは、山の上に赤い眼をした白い猿がいて、美女をはべらしているそうだ。どの女もこの辺りの村々からさらってきたらしい」
「それを、救いに行くのか」
我々は、仕事の途中だ。ある宝物を西方に届ける役割を担っている。その途中で、危険に身を投じるのは懸命ではない。
「異存があるか、陸洋」
淵季の声は明るい。こちらの考えなど、お見通しなのだろう。
「ない。見捨てていくことはできないからな」
私は大きくため息をついた。
「まあ、そうだろうな」
小さな笑い声が、霧に乗って聞こえてきた。
私は、腰の刀に手を当てる。
実を言うと、私が生まれてから、帝国は大きな戦いをしていない。したがって、私も、他国の軍と戦ったことはない。もちろん、楊淵季との出張で、脱出をかけて地元の人々とやりあったことはある。だが、たいてい、力業でどうにかしてきた。刀の扱いは、とりあえず出来るだけで、武官から見れば文官の
「その猿は、強そうだな」
「だろうな。たくさんの女を一度に相手するらしくてな。分身の術を使うらしいぞ」
「もう少し、腕の立つ者を集めてきたほうがよかったのではないか」
「どうかな。美女たちは皆、近隣の村から連れてきたらしいぞ。つまり、美人の多いところということだ。そんなこと、他の者が知ったらどうなるかな。俺たちのような士大夫は欲望があっても踏ん張るだろうが……いや、まあ、踏ん張れそうもない者もいそうだがな」
楊淵季の言葉に、私は数人の役人の顔を思い浮かべた。どの役人も、美人に弱い者たちだ。
「なるほど。つまり、この話はここにいる四人しか知らぬ、ということか」
「その通りだ、陸洋。俺は恋心なんてものは知らないし、おまえの奥方はたいそうな人だからな」
たしかに、私の妻はある高官の娘で、どういうわけか、私の行動を把握するのが好きである。妻の父は軍事をとりしきっているので、下手にほかの女性に手を出したなどと噂が立てば、北方を守る軍に放り込まれそうだ。異民族の侵入を防ぐために、いち早く戦う軍である。
でも、淵季が恋心を知らぬというのは、嘘だ。たった一度だけ、彼が女性に深い敬愛の情を持ったことを、私は今も覚えている。
山道を黙々と歩いていると、やがて霧が晴れた。空に月はなく、星々が白く輝いている。
凜花が立ち止まった。木の幹に手を当て、前方を見ている。淵季がそのとなりに並んだ。彼らの間からのぞくと、目の前に広がる
玉の宮殿とは、これに違いなかった。
門は閉じている。
「程適、
楊淵季が小さな声で指示を出す。程適はうなずいただけで声は出さず、静かに前に出た。門のそばに
辺りに酒の匂いが漂った。
途端、ごうごうと空気が鳴り、門が開く。出てきたのは身の丈が私たちの倍はあるような、大男だ。明かりもないのに、大男の周りだけ明るい。
白い髪、白い髭、目は赤く、目と同じ色の上衣を着て、赤い袴子の裾を、脛まである黒い靴に折り入れている。
くだんの猿が化けたものに違いなかった。
「こんなところに酒を置いたものは、誰か」
大男は大声で呼ばわったが、返事はない。私たちは木の陰で身を
「そこに、女がいるな」
慌てて凜花を背後に
「正気か、凜花殿」
手をつかんで引き戻し、顔を
凜花の目はうつろで、表情もない。
病が出たのだ。
彼女は、奇病にかかっていて、時に空を
症状が出ているときの彼女は、妖怪を切り捨てるだけの力を持つ。
かけ声もなく、凜花が常に
一瞬白くなった風景が、夜の暗さを取り戻したとき、大男は赤い目の白い猿の姿になっていた。
「……
猿は人の言葉で言うと、
それを風に乗せて、凜花の方へと飛ばす。
凜花の視線に、正気が戻ったように見えた。
淵季が小さな声を上げ、木の陰から走り出た。
猿が視線を向けるのも構わず、漂う毛を小袋に集めている。
「おまえか。おまえに
猿はそう言うと、甲高い叫び声を上げた。耳の奥が破かれるような痛みを覚え、私は両耳を手で
そのとき、淵季の怒鳴り声が聞こえた。
「陸洋、へその下を狙え!」
珍しく焦った声に、私は耳の痛みをこらえながら刀を抜いた。白猿に飛びかかり、なぎ払う。途端、猿は四体に分かれ、私を囲んだ。
どれが分身で、どれが本体か見極めようとしたが、わからない。
これは片っ端から倒すしかない、と覚悟を決めた。
とりあえず、正面の猿の腹に狙いを定めたとき、私の頭上を飛び越える気配があった。
身動きする間もなかった。
凜花が私の前に着地し、大きく
「〝おまえが、たった一つの魂を宿す体であろう〟」
こちらを向いた凜花は視線がうつろで、ふらりふらりと揺れている。声はいつもよりも低く、男とも女とも決めがたい。
「〝猿め。力を淫蕩に使うとは。一度、獣に戻って修業し直せ〟」
凜花は私の方を向いたまま、
背後で、猿が、ごくり、と喉を鳴らすのが聞こえた。
彼女の足が地を蹴るのと同時に、私は頭を抱えてしゃがむ。
「キャアアアアアア」
声として聞いたこともない高音の叫びが聞こえた。
振り返ると、へその下を真横に斬られた大猿が倒れるところだった。
私は呆然と、猿を見つめていた。地面に伏すまでに猿の体は縮み、一抱えにできるくらいの大きさになった。
名残と言えば、顎の白い毛だけだ。
私は猿の顎に刀をあてて、切り取った。
「おい、凜花」
淵季が私の脇をすり抜けた。
見ると、彼女の顔に小袋の口を開いて近づけている。凜花が深呼吸をしてから、すうっと顔を上げた。
「ああ、淵季様。……欧先生も」
まだぼんやりとした、でも、いつもと変わらない、凜花の声だ。
「おい、淵季。これ」
私は手に持っていた猿の毛を淵季に差し出した。
「ああ、すまんな。ここに」
淵季が小袋を空ける。
その中に毛を収めると、私たちは顔を見合わせた。
淵季が出張に凜花を連れてくる理由は、護衛のためだけではない。猿が「酔病」と言った奇病の薬を探すためでもある。
「大猿のうちに、ねこそぎむしってしまうのだったな」
淵季は残念そうに、袋に少しだけ残った白い毛を見つめた。確かに、この毛の効果はあった。しかし、白猿が凜花に毛を浴びせたあと、すぐに凜花は発症してしまっている。効果がある時間が短いのだ。それなのに、こんなに少量では。
「さあ、山を下りましょう! 村に帰れますよ!」
凜花の明るい声が夜空に響いた。
彼女の周りには、女性達が集まっている。猿が倒されたのに気づいて、松明を持って外に出てきたのである。猿の趣味がわかるような、はかなげな顔の美女ばかりだった。
「山を下りるか。麓で待っている夫や子どももいるだろう」
淵季は袋の紐を締めると、大切そうに懐の奥に押し込んだ。
それから、女性達の方に行って、人数を数え始める。
淵季の顔を見た女性が、感嘆の声を上げた。
構わぬ風で、淵季は女性達に出身地を聞いて、村ごとに分かれるように伝えている。
夜ながら、辺りが賑やかな雰囲気に包まれた。
「今度は私が先導しまさぁ」
程適の声がした。見ると、いつのまにか、酒の甕のそばにしゃがんでいる。少し飲んでしまったのか、声が酔っていた。
「なるほど。頼むかな」
私は体が強ばったとき特有の痛みをほぐしつつ、程適に
「任せてくだせぇ」
立ち上がった彼の目は、赤く光っていた。
その顎に、白い短い毛が生えているのが見えた。
〈おわり〉
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