【第二章 異郷】 第5話 韋駄天と宝塔
宮殿に
先月、西方の盗賊を捉えたときに背負っていたという、
妙な言われと、象牙の見事さは都でも噂となり、五日前に西方から運ばれ、皇帝に献上された。宝塔は、一旦、宝物庫にしまわれた。
今の皇帝の
虫干しを始めた頃、ひげ面の男が駆けてきて、宝塔を奪って逃げたという。
宮殿までたどり着くには、いくつもの門があるが、人が通る隙を狙ってすり抜けたとされる。すべての門には、番をする兵がいたのだが、証言によると、兵全員を振り切る足の速さであったという。
男は町中を駆け抜け、出港したばかりの商家の船に飛び込んだと思われる。
「私もあんな
男をいち早く追いかけはじめたのは、程適だった。
「俊足のおまえがそう言うとは、よほどのものだな」
私はそばにしゃがみ、程適の足に触れる。ふくらはぎがけいれんしていて、先ほどまでの激走が目に浮かぶようだった。彼は、私――
「
手のひらをひさしにして、前方を進む船を見遣る。
騒ぎに気づいた
作戦は当たった。わざと一隻だけ先に出発した商船に、男が飛び乗ったのである。
その頃には、皇帝の命が下され、楊淵季と私も同時刻に出る船に乗り、追いかけることに決まっていた。
二隻は前後に並び、運河を南下している。男が河に飛び込んではたまらないから、前の船から目を離さないようにしているのだが、様子は変だった。
よそ者が飛び込んできた割には穏やかだ。船中で争っている様子は感じられない。
「
楊淵季が肩を叩いた。面倒そうに眉を寄せている。
黒珠とは、都に近い河辺の町である。人口も少なく、港も普段は漁港で、たまに珍しい石が産出されたときに商船が入るくらいだ。ただ、港には適した場所で、大型の船でも停めることができる。
「大丈夫か。あそこは港の周りに人家が集中しているが」
「今の調子だと、夜中には
つまり、夜中までにけりをつけなければならない、ということだ。
長期出張にならないのはありがたいが、韋駄天を追い回さなければならないというのは、かなり疲れそうだ。
「向こうの船はどうなっているんだ?」
「それが、旗の合図によると、不審者は見当たらない、だそうだ」
「うまく紛れたか?」
淵季は答えず、船を見遣った。
「あり得ませんよ! あんなでけぇ宝塔持ってんでさぁ」
程適の声に、淵季と私はため息をつく。
そうなのだ。
いくらうまく紛れ込んでも、象牙の宝塔をどうするというのだろう。船に飛び込んですぐ、隠したというのか。すでに連絡が入っていて、警戒しているというのに。
「陸洋より程適のほうが、頭が回っているようだな」
「私は希望を語っただけだよ。しかし、逃げ込んだのはあの船なんだろう?」
「それは程適も見ているから間違いないだろう。韋駄天殿は、変装の名人かな」
「そうだとしても難儀だ」
「なあに。仲興の店の者たちは、互いの顔をよく知っているさ。不審ではなくても、本来あの船に乗るはずのない男が乗っていたら気づくさ」
「だったら」
――どうして不審者がいないなどと合図を送ってきたのだ。
私が言わずにおいたことを理解したのか、淵季が目を閉じ、指先で眉間をもんだ。
「まあ……事態は明白だ。黒珠で捕まえて事情を聞こう」
楊淵季は空を仰ぎ、官服の襟に指を掛けて軽く引っ張る。喉の辺りを浮かせて空間をつくって、深呼吸をした。
「おい、
背後に声を掛けると、
彼女は楊家で雇っている者で、若いが武芸に長けている。楊淵季が都の外に出るときには護衛として連れてくるのが常だった。
淵季が、しい、と言うように唇に人差し指を当てた。凜花が金細工を手でおさえる。
「黒珠に着いたら、あの船に飛び乗れ。相手は、人ではあるまい。それは外してしまっておけ」
「魔除けをですか?」
「妖怪ではないだろうが、おそらくその手のものには反応するだろう。近づいたのを知られぬためだよ」
「知られても一発でしとめます。こっちもありますから」
凜花が金色の
「殺してはならぬ。捕らえよ。走れないように、床に倒して押さえ込んでおけばよい」
凜花が不満そうに目を細めた。楊淵季は軽く息をつき、凜花の耳元に何事かささやいた。凜花は目を見開き、口元を抑える。
「よいな」
念を押して、凜花を下がらせると、楊淵季は私を振り返った。
「それから、おまえにも頼みがある。陛下の信任厚き
船が港に入る準備を始めた。淵季は前方の船で旗信号を送ってくる男を見つめる。
こちらの船から、白い鳩が飛んだ。
伝書鳩だ。仲興が凝っていて、毎月少なくない額を鳩の飼育代に持っていかれていると聞いている。
「仲興、船に乗せられるまでに数を増やしたのか」
「ちょうど、昨日の便からすべての船に乗せられるようになったそうだ。もちろん、今まで通り、都から各船に飛ぶ鳩もいるのだがな」
私は違和感を覚え、答えを求めるように淵季を見つめた。
淵季がうなずいた。
「さて、陸洋。頼みっていうのはな」
話を聞いて、私は二度、聞き返した。床で足を手入れしながら聞いていた程適が、「えぇ……」とつぶやく。
「頼んだ。さて、黒珠だ。あの男を捕まえるぞ」
淵季は旗信号を送っていた、猫背の男をにらみつけた。
船同士が近づくと同時に、凜花が前の船に跳び移った。
「はぁっ」
凜花が旗を持つ男に偃月刀を振り下ろした。
男の影が揺らいだ。一瞬の後、凜花の横をすり抜けて走り抜けた男の姿が目に入った。
男は旗を投げ捨てると、淵季たちのいる船に向かって駆け出した。酷い猫背で、
いや。猫背ではない。横から見ると、首元から臀部にかけて、やけに真っ直ぐだ。太い木材でも差し込んであるように。
「背中を狙え!」
私が怒鳴ると、凜花は簪を抜いて投じた。玉と金属がぶつかる音がして、男が前につんのめる。こちらの船に乗り込んできた程適が、男の背中に乗って、押さえつけようとした。だが、男は着物の上衣を脱ぎ捨てて、
「は? どうなってんで?」
程適が上衣の内側を見ると、象牙の宝塔が見えた。
男が振り返り、指先を程適に向ける。唇が動こうとしている。
――呪か。
間に入ろうとした瞬間、鋭い光が目の前を過ぎった。
「欧先生、
凜花が偃月刀の刃を盾にして、程適の前に立ちはだかっていた。
「助かった、凜花殿」
私は早口に礼を言うと、男に飛びかかる。男が倒れたところで、右の足首をつかみ、足の裏を見た。
案の定、金色の太い毛が三本、渦を巻いて生えている。
――いいか、男の足に長い毛が生えているから、それを抜け。そうすれば足が遅くなる。
私は淵季の言葉を思い返し、かかとに近いところに生えていた一本をつかむと引き抜いた。男が叫び声を上げたが、構わず左の親指の近くにあった毛も抜く。
「ああああ」
男の悲痛な叫びに、私は思わず手の力を緩めた。男は素早く私の下から抜け出すと、足の裏を見て、また、「ああ」と嘆いた。
「宝塔、宝塔」
そう言いながら泣いているのを見て、私と程適は顔を見合わせる。
「これでさぁ。どうぞ」
程適が男の上衣に包んだ宝塔を差し出した。
男は大事そうに受け取ると、また涙を流した。
「やれやれ、甘い主従だな」
ようやくこちらの船に移った淵季が、私たちを
私は程適を見遣る。程適もこちらを見ていた。
私たちはお互いに、どうしようもなかったよな、という視線を送ると、同時にため息をついた。
「そう泣くな。そなたは、西方の賢人に仕える者であろう」
楊淵季は仁王立ちになり、厳しい声で男を問いただす。男が小さくうなずいた。
「昔、韋駄天は仏舎利が奪われたとき、走って追いかけ、取り戻したという。そなたも、宝塔を取り戻すために、西方から来たのであろう。これから、都に連行するが、陛下によくよく事情を申し上げよ。冷酷なお方ではない。その後、そなたを宝塔と共に西方に送り届けさせる」
声の調子にしては、相当甘い言葉だった。
男は涙目のまま、淵季を見上げた。それから、はっとしたようにひれ伏した。
楊淵季は男のそばにしゃがむと、こう、ささやいた。
「陛下の前に引き出されたら、直接お話するよう灰色の目の楊淵季から伝えられたとおっしゃいなさい」
そう言ったように聞こえた。
男が「もったいないお言葉」とつぶやいた。淵季は唇に人差し指を当て、しい、と言うと立ち上がった。
「やれやれ、次の出張の種をまいてしまったな」
淵季は伸びをすると、ふと、脱力したように、腕を下ろした。
「陸洋」
「何だ」
「おまえ、俺についてこれるか」
「ついていってるつもりだが、足りないところがあるか?」
楊淵季がこちらを向いた。真剣な眼差しだった。
「では、欧陸洋。今まで通りに」
私は、
「もちろんだ。楊淵季」
いまさらだ。楊淵季はかつて仙人国と呼ばれる国の王になり、国を滅ぼした。私も一枚、いや、もうちょっと図々しく干渉した。
彼に罪があるのならば、私にも罪があるだろう。
「私も剣の練習をしようかな」
「文官のおまえがか?」
「淵季だってしているだろう」
近頃、彼が凜花に剣術を習っているのを知っている。もともと、そう剣が弱い男ではない。にも関わらず、だ。
理由はわかっている。その理由には私も同意したい。
つまり、私も、淵季を守りたいのだ。
「そういうことだよ」
私が小さく言うと、淵季がうつむいた。
「それにしても、楊の旦那、どうしてこいつが逃げた男だとわかったんです?」
程適の声に、淵季は顔を上げた。なんでもない、という顔だ。
「旗で信号を送ってきたからだよ。なあ、陸洋」
「ああ。仲興が船に乗せられるだけの伝書鳩を飼っているのなら、旗で信号を送る必要はないからな。鳩を飛ばせばいい」
仲興のことだ、旗なんてもう古い、全部鳩だ、などと船員全員に伝えているに違いない。
「それに、不審者がいないという信号を送れるのは、不審者本人しかいないだろう。なあ、陸洋」
淵季の唇が震え始めた。
半分納得したような、まだわからないような顔をしている程適に笑みを送り、私は淵季と向かい合う。
目が合った途端、二人同時に吹き出した。
〈おわり〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます