【第二章 異郷】 第4話 仙人の絵
西北への旅である。
砂漠の入り口にあたる村には、大きな岩の城があるという。はてしない昔には、砂をよけるために人々が穴を掘り、住んでいたものと言われるものだ。水脈が細って住む人が減ると、
まだ、西方の国を
絵の中の仙人は、太平の世が近づくと画面から出てきて、皇帝に祝いの言葉を記した書を贈るという。
友人の
ただ、現在、都には、その仙人の噂が広まっている。
その村で仙人の姿を見た者もいるという。
楊淵季は真偽を確かめるため、密かに西北に派遣された。
相手が仙人だから、どうなるかわからない、というので、一応、腕が立つということになっている私も同行することになった。
だが、訪ねてみると、村は跡形もなかった。一軒だけ、行く当てのない年老いた男の住む家があって、岩の場所を知っていた。老人の言うのには、数百年前に水脈が途絶え、人が去ったのだという。
淵季は、私以外のものを最寄りの村まで戻らせると、老人の案内で、岩までやってきた。
その老人も、私たちを岩の前に置いて、帰っていった。
岩は城というよりも壁のようだった。岩壁には人の背丈ほどの穴がいくつもあいていて、すべてに鉄の扉がとりつけられている。
絵がある部屋は、岩の上の方にあった。
「しかし、ずいぶん乱暴な命令だと思わないか、
岩を
「絵の仙人が出てくるかどうか確かめろ、というのが、か? 新しい知識に重きを置かれる陛下らしいと思うが」
「それは表向きの命令だろ」
淵季が
嫌な予感がした。
「本当の命令が別にあるのか?」
そういうものがある出張は、たいてい酷く苦労する。
私も顔をしかめた。
淵季が、はああ、と大きな息をつく。
「言ってなかったか。本当の命令は、治世を
「仙人、をか?」
ろくな命令ではない。
仙人と呼ばれるのがどんな人物であれ、直接関わらなければならない状況なんて、とんでもないことだ。
そもそも、淵季がいちばんそのことを知っているはずだった。
彼は、同じ灰色の目を持つ者たちにさらわれ、囚われたため、彼らの国を滅ぼして都に帰ってきた。彼の母がその国の出身であったための出来事だった。
あのとき、私も一緒にいたから、仙人と呼ばれる者とのやりとりが、どれだけ困難かよくわかっている。
できることなら、本物であれ、偽物であれ、仙人なるものとは関わり合いになりたくない。つかまえるなんて、いちばん避けたいことだ。
だが、皇帝の命令であれば、逃げようはない。
「どうするんだ、淵季」
難儀なことを押しつけられたな、と淵季を
「仕方ない。扉を開けなければならないだろうが。……これは」
両開きの鉄の扉に目を遣り、私たちはそろって真剣な表情になる。
目の前の扉は、他の扉と違って黒い。
墨で黒く塗りつぶされているのだ。
しかも、太い筆で一度に塗ったのではない。よく見ると、細かな筆のあとがびっしりと残っている。
「すべて、
淵季の声は苦り切っている。
これだけの呪言で封じられるとは、まともではない。
「淵季。仙人がこのように封じられることはあるのか」
「さあな。妖怪かもしれないし、毒薬の類いがしまってあるのかもしれない。仙人だって、人に害を為すのであれば、封じられることはあるだろうな」
とはいえ、これまで見た呪言は、せいぜい数枚の紙に
書かれた呪言も一つの言語ではない。我々が普段使う文字もあれば、西方の曲がりくねった文字も、南方の絵文字もある。複数、あるいは、よほど深い知識を持った人が、思いつく限りの呪言を書き付けたに違いなかった。
「これを持っていてくれ」
淵季は背負っていた革の大きな袋を下ろすと、私に渡した。
それから、官服の帯を解き、上衣を脱ぐ。
「何をするんだ」
「作法があるのさ。こんなこともあろうかと、ひととおりの知識はつけてきた」
白い衣の帯を締め直した淵季は、今度は髪をほどく。
私は思わず顔を背けた。
「淵季、まさか、この格好になるから、私以外のものを同行させなかったのか」
「まあな。旅の
「まあ、そうだが」
淵季が平常とかけ離れた格好をしているときに、ろくなことがあったためしがない。
「これを持って。さっきのをくれ」
淵季は私に畳んだ衣を渡すと、先ほどの革の袋を受け取る。
袋の中から、一本の剣が取り出された。星々を表す模様が描かれた両刃のもので、柄には五色の糸で作った房が垂れている。
戦場で使うものではない。
「やるぞ」
淵季は扉の前で身を屈め、剣を構える。
私は、逃げ出したい気持ちを両足で押さえ留めて、扉を見つめた。
「陸洋。呪言が読めるか」
「まあ、何とか」
「覚えておいてくれ。仙人を再び封じるときに使う」
刃が二枚の扉の間に差し込まれた。淵季は柄頭の手のひらを当てると、力を込めて突く。
とたん、鍵が弾けるような音がして、扉が左右に開いた。
部屋の奥から冷たい空気が流れ出て、代わりに中へ光が差す。
淵季が身を起こした。私は壁面を見て、息を
一面、花畑が描かれていた。ふだん見ているものばかりではない。西北の村で見たもの、南方特有の花、それに、西南部にしかないはずの花。
ありとあらゆる花の絵が、壁面を飾っている。
部屋のもっとも奥の壁には、人物が描かれていた。
ここまで案内してきた老人そっくりの人物だ。
ただし、目には瞳が書かれていない。
「どういうことだ」
「そういうことだ。どうやら、本物らしいな。……そうだろう」
淵季が振り返る。
つられて、私も体をねじる。
そこには、あの老人が立っていた。
老人は、手に
銀色の液体である。
淵季が、はっとしたように私を見た。
彼の灰色の瞳が光を受けて、赤みを帯びる。
老人も顔を上げ、目を見開いた。
淵季と同じ、灰色の瞳だ。
「お初にお目にかかります。
その名は淵季の別の呼び名である。彼をさらい、彼に滅ぼされた国の人が使っていた。
私はとっさに淵季を背後におしやり、かばう。
老人は一歩進み出て、もぐもぐと何かつぶやいた。
私は急に息苦しさを覚え、胸元を押さえる。
老人が笑みを浮かべた。
「欧陸洋殿。楽になりたければ、絵に、目を書いてくだされ」
筆に銀色の液体を含ませ、私に差し出す。
「おい、陸洋に何をした」
淵季が私の肩を支えた。老人の唇が動くのが見えた。
耳元で、淵季が何かをつぶやくのが聞こえた。聞いたことがある、と思ったら、この前、南方で聞いた呪言だった。
老人が顔をしかめた。淵季が勢いよく息を吐く。
「清玄真人が呪言をご存じとは。今のは、
「陸洋に呪をかけたのか」
「そうですな。少し、心臓の動きを緩める呪を」
「すぐに解け」
老人の乾いた笑いが聞こえた。
「わたくしの術を相殺することしかできぬ清玄真人に、そう言われましてもな。解くには、欧陸洋殿自ら、絵に目をお書きになるがよい」
淵季が言葉に詰まった。
私に選ぶ余地はなかった。老人から筆を受け取ると、奥の壁に一歩踏み出す。体中の血が薄くなっているかのように、体がゆっくりとしか動かない。
強ばった顔をしている淵季の横を通り過ぎ、絵に向かう。
「そうそう。目をお書きくだされ。わたくしも悪気はないのでな。気分がすぐれぬ折に、人の国でも一つ滅ぼしてみようと月から降りたところ、道士にとらえられて、封じられてしまったので」
帰りたいだけなのですよ、と老人は哀れな声で付け加えた。
私は、筆先を指で整えた。
老人が仙人であれ、妖怪であれ、いったん戻れば、また気晴らしに国を滅ぼしに降りてくるかもしれない。
「陸洋」
淵季の声が聞こえた。振り返ると、何か言いたそうに唇を
書けば老人は逃げる、と言いたいのだろう。だが、それしか呪を解く方法がない以上、そう言えぬのだろう。
楊淵季には、少年の頃から、そういうところがある。
自然に唇の端に笑みが浮かんだ。
筆先を絵の目の部分に向ける。
指先に神経を集中する。
そして、瞳の部分に、扉に書かれていた呪言を細かく書き入れた。
「ああああ」
老人のしわがれた叫び声が、岩をくりぬいた部屋に響いた。
見ると、目を押さえて仰向けに倒れている。
淵季が剣を振り上げ、宙を切った。
息苦しさが消え、老人の声がやんだ。
「陸洋」
淵季が私を覗き込んだ。私が笑ってみせると、ほっとした顔になる。
だが、すぐに表情を引き締め、老人の方へと
「着物にも書いてくれ。封じる」
私はうなずき、老人の着物に呪言を書き入れる。
淵季はというと、剣で壁の絵を削り取っていた。
「これでもう、逃げるすべはない。その老人は、都に連行しよう」
「連れていってどうするのだ」
「せいぜい、陛下の治世を
それから、淵季は老人のそばに立ち、剣を胸の辺りに突きつけた。
だが、私の顔を見ると、不快そうなため息をついて、革の袋にしまった。
〈おわり〉
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