【第二章 異郷】 第1話 月の道士

 水面に丸い月の揺らぐ晩である。

 河のほとりの四阿あずまやは、宿を貸してくれた地元の商人のものだ。

 帝が派遣した我々の歓迎会は、今も屋敷で行われている。

 だが、一行の責任者である友人も、ついでに遣わされた私も、宴会場を抜けだし、四阿あずまやで風に当たっていた。


 南方への出張は久しぶりだった。

 それも、友人のようえんと共に、である。

 我が帝国の王は、宝物を好む。

 楊淵季は、地方で珍品が発見されるたびに取りにいかされている。力仕事が必要だと察せられれば、力自慢の私が同行することになる。


 今回も例外ではない。

 宝物は短刀で、刃に木目が浮かび上がるものだ。

 森の奥深くに守られた村にあるという。

 恐ろしく切れ味がよく、切っ先を向けただけで人を殺してしまうという話だった。

 しかし、人智を超える品物ゆえ、神のように扱われていて、屈強な兵士が守っているらしい。


 いくら私が強力ごうりきだとはいえ、兵士相手に戦えるはずもないのだが、帝は楊淵季に国の兵を預けるのではなく、私を伴わせた。

 興味を満たすために兵を出すことは、帝もためらわれたのだろう。

 帝の命令に文句はないが、私にも私の仕事がある。出張から戻れば、あふれる仕事におぼれる日々がひとつきは続くに違いない。 


「しけた顔をしているな、おうりくよう


 友人は月夜の空気に似た色の玻璃はりの杯に、酒をなみなみと注ぎ、目線まで掲げる。


「まだ、飲むのか」

「知らないのか。これは、ほうという果物を発酵させた酒なんだ。この辺りでしか飲めないんだよ。葡萄ぶどうの酒より甘みが抑えられているが、さっぱりしていて美味じゃないか。おまえも、もっと飲め」


 珍しく屈託のない笑顔などを浮かべ、玻璃はりの杯を差し出してくる。


「淵季様。だいぶ酔われていますよ」


 杯が私の口元に届く前に、淵季のかたわらに控えていた若い娘が手で止めた。

 娘は名を、りょりんという。細い体に革の帯を締め、えんげつとうを携えている。

 楊家の使用人で、武術に長じている。

 淵季は遠方に出張する折、常に連れてくるのだった。

 

「酒を飲んだら酔うに決まっているだろう」


 淵季がむくれた。凜花の前だと、淵季は少し幼くなる。


「酒に飲まれていると申し上げております」


 凜花は意思の強そうな黒目がちの目で、じっと淵季を見据える。顔が整っているだけに、神の像のような得体のしれないありがたみがある。

 彼女は不思議な娘だ。ある病のために、時折、空をかける夢を見る。寝ているときもあるのだろうが、覚めた状態で見るときもある。そんなときに振るう偃月刀は、妖怪をも斬る。ただ、本人はそのときの記憶がない。


「……わかった。あと一杯でやめておく」


 淵季が杯を卓に置いた。凜花が表情を崩し、微笑ほほえむ。


「陸洋は?」


 不機嫌な声で、淵季が聞く。私は笑い出しそうになるのをこらえて立ち上がった。


「私も酔った。月でも見てくるよ」


 美味い酒ではあるが、淵季ほど執着はなかった。もともと、淵季は甘い物が好きで、酒の好みも、甘口だ。淵季は、むう、とも、うん、とも聞こえる返事をした。


 私は四阿あずまやの階段を降り、河辺に寄る。

 大河の岸に寄せる波は、あとからくる波に飲み込まれながら次第に小さくなり、岸にさざめく。月明かりだけでは足元は暗く、岸と水との見分けはつかず、ざざと鳴る波の音だけが、これ以上は立ち入れぬ河の域を示している。

 川面の月に目を遣ると、波に揺らぎながらも明々あかあかとして、そこから光を放っているようにさえ見えた。

 空の月はさぞかしえているだろう、と見上げてみた。

 今晩の満月は先月よりも一回り大きく感じられる。

 

「よい月でしょう」


 不意に声を掛けられ、私は肩をふるわせる。振り返ると誰もいなかった。視線を戻す途中、私の真横に、そでをからげた男が立っているのに気づいた。

 立派なひげを蓄えた、まれに見る美男である。


 ――いつ、ここに来た?


 先ほどまで人の気配はなかった。

 私は男を見ぬようにして、身を固くする。


「今宵の月は、とても明るく見えるのですよ。月と地面の距離がいつもより近いのです」


 男は構わぬ様子で言葉を続ける。


 ――妖怪、だろうか。


 先ほどまで小さなかえるだったものが化けているとか、絵の中から抜け出た男だとかでない限り、突然、姿を現すことはできない。

 そもそも、私は役所での仕事中でも、よく怪異に出会うのだ。体質なのか、我が帝国に妖怪や不思議な物が多すぎるのかわからない。だが、わかることもある。妖怪と言葉を交わさぬ方がよいということだ。


「さあて」


 男は私をチラリと見ると、不意に手を振り上げた。

 手から棒が伸びており、その先にあるものが月光を浴びて鋭く光っている。


 ――おのだ。


 大きい。木を切るときに使うものだ。

 男は斧を振り上げ、まっすぐに私の首元に下ろそうとしている。

 同時に月光が一本の筋となって地上に降り、私を包む。

 逃げようとしたが、体が動かなかった。声も出ない。

 まもなく、斧の刃が首元をかすめ、右肩に振り下ろされた。


 ザクッ。


 私は目を閉じ、襲い来る痛みに耐えようと奥歯を噛む。

 だが。

 痛みは来ない、血の流れる気配もない。


 おかしい、と思って目を開けると、私の肩の傷口は刃を押し戻しながら、肉や皮膚を、果ては切られた衣まで再生していく。

 あっけにとられているうちに傷はふさがった。右の手のひらを握ったり開いたりしてみるが、違和感はない。斬られる前と同じだ。


「ああ、倒れぬか。倒れぬのか」


 男は、斧を肩に担ぎ、深くため息をつく。斧に刃こぼれは見当たらない。よくがれた刃である。


「なぜ、倒れぬ。木をれぬなら刑期は終わらぬ。倒れよ、伐られろ」


 私の目の前で、地団駄を踏んで悔しがっている。


 ――私は木ではない。


 そう言いたかったが声が出せない。焦って体をひねるが、足が踏み出せない。

 おかしい、と思って足元を見ると、木の芽が生えている。つややかな若葉は月光を受け、どんどん伸びていく。

 いつの間にか私の周りには、木の壁ができていた。


「ああ、伐れぬ。家族の元には帰れぬ。せっかくの仙術も無駄だ。倒れよ、倒れよ」


 男は木に斧を打ち付ける。その音が、私の体にも響く。

 このままでは、やがて、私の体に刃が当たってしまうのではないか。止めなければ。

 強く息を吐き出そうと、胸に手をやる。喉を手のひらで温めてみるが、やはり声は出ない。

 木は一層高く育ち、辺りは行き場を失った月光が満ちあふれる真っ白な空間になった。同時に、頭上から花が一輪、降ってきた。甘く強い香りがする。

 木犀もくせいだ。


 私は、幼い頃に聞いた話を思い出す。


〝月には、美しい男がいるという。毎日、木犀の巨木を伐るが、木は瞬く間に大きくなって、伐っても伐っても、倒れぬ。男の手伝いをするために、月にはうさぎかえるへびがいるらしいが、らちがあかぬ。〟


 たしかに、月の光を見つめていると、丸い中に兎らしきものや蛙らしきものの影が見えることもある。私は幾度となく、光の中に浮かぶ黄色い土色の影を見上げ、動物の輪郭を脳裏に浮かび上がらせてみたものだ。


 ――とすると、先ほどの男は月で木をる者ではないのか。


 もちろんここは月ではない。月の男がいるはずもない。しかし、今夜の満月はやけに大きく見える。雲もなく天地が近く感じる晩に、月光とともに降りてきたとでもいうのか。

 木犀もくせいの巨木と共に?


 ――何とかしなければ。


 強く思うと同時に、胸に空気が吸い込まれた。


「くそっ。おい、淵季!」


 声が、出た。


 私は手探りをして木の壁に触れると、力一杯こぶしで叩いた。しかし、細い幹がからみ合った壁では、音は響かず、幹の間に飲み込まれる。

 このままでは、木犀の巨木に閉じ込められてしまう。月の男が長い間斧を振るっても倒せない木の中に。


 ――冗談じゃない。


 もう一度、淵季の名を呼ぼうとしたときだった。


「あああああ」


 外で男の叫び声が聞こえた。

 直後、壁に黒い線が走り、光と木の枝が四方に散った。枝は散る途中で光の粒になり、風に飛ばされていく。

 

 木がなくなると、辺りは元通りの河のほとりである。

 ただ一つ、先ほどと違うのは、目の前に偃月刀が突きつけられていることだ。

 うつろな目をした呂凜花が、神の像のようにまっすぐに立っている。


「〝伐れぬ、倒れよ、私を月から解放せよ〟」


 凜花の口から、低い、男とも女とも分からぬ声が響く。足元には木犀の花が散っていて、彼女自身から香りが立ちのぼるようだ。


「〝私に求められし、偉丈夫よ、月桂を伐れ。私の代わりになれ〟」


 すう、と凜花が息を吸い、偃月刀を振り上げる。刃に月光が映じ、目がくらむ。


「陸洋! 後ろにべ!」


 淵季の怒鳴り声がした。だが、足が動かない。体を倒し、転がる。ひざを偃月刀の刃がかすめた。


 ――駄目だ。


 かたく目を閉じたとき、小さな鐘を打つような、薄い音がした。

 同時に、ほうの酒が降ってくる。

 見上げると、真っ二つになった玻璃の杯が左右に分かれて落ちていくところだった。


「……欧先生?」


 凜花の声は、もとに戻っている。

 やれやれ、と淵季がつぶやいた。


「まったく、油断ならんな。妖怪除けの杯があったからよかったものの」


 凜花が不思議そうに足元の花を拾う。


「やめておけ、凜花」


 淵季は彼女の手から花片を取って、河に流す。


「木犀のような強い香りは、おまえの病には毒だろう。さっきは夢を見ているすきに乗っ取られかけていたからな」


 確かに、さっきは凜花の様子が変だった。


「大丈夫なのか?」


 私が尋ねると、凜花は力強くうなずく。


「欧先生の周りだけ月光が明るくて、変だと思って、近づこうとしたんですけれど。急に、空を翔る夢を見てしまって」


 照れくさそうに頭を掻いている。そのあと私が斬られかかったことを考えると、呑気な気分にはなれなかった。だが、彼女が大丈夫なら、よしとする。


「何を父親面している、陸洋。おまえこそ、凜花があの男を斬らなければ、月の光に飲まれ、やつらの世界に連れ去られるところだったんだぞ」


 私が月光に満ちた空間に閉じ込められたとき、あの男はそんなことを企んでいたのか。

 急に背筋が寒くなって、身震いをする。


「淵季、あの男は」

「月の男だ。伝説で聞くだろう。もとは、道士でな。罪を犯して月に送られた。大丈夫だ。もう月に帰ったよ。凜花に斬られて、あいつも驚いただろう」


 楊淵季は月を振り仰ぎ、はあ、と息をついた。

 余計な心配をさせてしまった、と反省しながら、立ち上がる。そのとき、割れた杯が目に入った。拾い上げようとすると、杯は細かく砕け、砂の様に風に散った。


「それはな、ちゅうこうがくれた魔除けの杯だよ。俺が偃月刀に投げつけたのだ。――国境近くの砂漠の辺りでつくられた珍しいものだとか」


 淵季は友人の名を挙げた。私は遠く砂漠を思い起こし、ああ、と答えた。


「陸洋、奥方が心配していたようだぞ。我々の出張には怪異がつきものだと思っているらしくてな。否定はしないが、ずいぶん怖がられたものだ」


 妻は心配性だ。心配性がゆきすぎて、私の行きつけの酒場の店員にまで、様子を見張らせているという噂もある。

 仲興の妻と、私の妻は幼なじみで仲が良い。おそらく、二人の話の中から、魔除けの杯を淵季に持たせようという案が出たに違いなかった。


「すまないな。妻が心配性で」

「いや、おかげで助かったよ。……凜花、さあ、もう休め。俺も休む。飲む気にならん」

「よいのですか」


 凜花がそっと淵季の顔色をうかがった。淵季は面倒そうに手のひらを払うように動かす。


「わかりました。出立の時間が早いので、夜明けと共に起こしに参りますからね」


 偃月刀の柄を地面に、とん、と突き、凜花が一礼した。


「宿舎に戻ろう、陸洋」

「そうだな、疲れたよ」


 私たち二人は、並んで歩き始めた。

 前方を、凜花が長い髪を揺らしながら、悠々と歩いている。


「俺もすぐ使える武器を携えておくかな」

「凜花殿がいるのに?」

「今回、それでも危なかっただろう。おまえを守れないようではたまらん」


 驚いて私が彼を覗き込むと、淵季は、きまり悪そうに視線を逸らした。


                               〈おわり〉

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