【第一章 日常】 第11話 水晶の枝 前編
室内に明かりはなかった。
私は鉄製の扉を閉め、鍵をかけると闇に向かって告げる。
「
目の前に掲げた
友人の
もちろん、
炎がいよいよ強く、闇に引き寄せられた。
「怪しい者ではないのだ」
左右の闇に言い訳しながら、奥の扉を開ける。
途端、白い光を浴びた。
光の
鋭い音がして、石で作られた床に燭台が当たった。
――蝋燭は、どうなったか。
床に視線を落とした私は息を飲み、炎を眺めた。
炎は六尺程度伸びていただろうか。一本の蝋燭から生まれた炎とは思えない長さだ。龍のたてがみのように風を受けて揺れ、やがて、天井に近いところから青白く変色し始めた。全体が青くなると、炎は激しさを増し、蝋燭を燃やし尽くす。
悲鳴を上げる余裕はなかった。
首筋に汗が流れた。
よろめいて触れた壁は、冷たい。
――もう春なのに。
明るく光る部屋の中で、深呼吸をする。目を閉じ、鼓動を三〇数えてから目を開けた。
光が目に突き刺さるように厳しい。
しばらくして、ようやく焦点が合うと、炎が光る置物に変わっているのがわかった。
風に吹かれて乱れた炎のような形の置物だ。
急に奇妙な感覚に囚われた。
呼吸をしようとすると、
置物に近づき、光に手をかざす。
途端、
肌が焼け、ジュッと水蒸気が上がる。
どうやら涙が光の熱さで蒸発したらしい。
置物の光は次第に淡くなり、枝の張りだした木の形に見えてきた。
硬質で透明な物質の内側に、光がたたえられている。
木の部分は水晶だろうか。硬質な枝の先には、真珠ほどの薄紅色の桃の実が飾り付けられている。
――懐かしい……。
手を伸ばし、水晶の木の根本を
光が肌を焼き、手の平が強張った。痛みに涙が流れ、また蒸発した。
ちりちりした痛みに焼かれながら、私は違和感を覚えた。
私はこれを知っている。
どこで知ったのか思い出せないが、確実に所有していたことがある。
記憶のどこかに、この水晶を先の皇帝に渡す自分の姿がいるような気がする。
まだ幼かったのだろうか。いや、記憶の中の私は八歳くらいだ。確か、それからすぐに
先帝が崩御する直前に、私の祖父も亡くなったはずだ。
だとすれば、祖父が持っていた物だろうか。形見分けで私に渡されたのかも知れない。それを、献上してしまった。
「私は、これを失ったのだ」
言葉にしてから、慌てて背後を確かめる。陛下に献上したものを、失ったなどと言うのは不敬である。
私は恐れて置物から離れ、痛む手の平を上衣の袖に隠す。
普段、私は不敬罪を犯すような官僚ではない。だが。
自分の中に
置物はまた、目映い光を放ち、私を求めた。
いや、求めているのではない。
私に求められているのだ。私が求めている。
――おかしい。
宮廷の宝物を、私が欲しいなどと思うはずがない。
私は官吏で、陛下に忠誠を誓っている。今まで、一度も陛下に背いたことはない。
それが、この置物に触った時の感覚は何だろう。
「心を離反させる魔物か」
光を
外に出ようと、手のひらで押すが、がたがたと音がするだけで、扉は開かない。
――閉じ込められた?
焦って、体重をかけて体をぶつけてみる。
だが、扉はびくともせず、私は床に尻餅をついた。
「何で、誰が……どうやって」
ふと気づいて、背筋が寒くなった。
今いる奥の部屋の扉に、鍵などないのだ。
そして、宝物殿の鍵は入り口の一つだけ。
その鍵は外から私が開け、内側から私が閉めた。
鍵は皇帝陛下から預かったもので、合い鍵はない。
「怪異、か」
立ち上がり、頭を振る。
私は職場で怪異に遭うことが多かった。
いつものことだ、と言えればいいのだが、初めて入った宝物殿のせいか、肌に残る痛みのせいか、これまでになく怖かった。
「なぜだ」
つぶやいたとき、背後から声を掛けられた。
「お忘れですか」
甲高い子どもの声だ。振り向くと、一〇歳くらいの少年が私を見上げていた。
私は顔をしかめた。先程までは、どこにも人はいなかったはずだ。
「ここは子どもの遊ぶ場所ではない」
屈み込み、どこに隠れていたのだ、と叱ろうとして、息を飲む。
少年の向こうに、水晶が見えていた。
少年の体が透けている。
「お忘れですか」
少年の声が脳にしみてくる。
怖いはずなのに、振り払えない声だった。
誰かの声に似ているのだ。
――誰だ?
混乱した頭で考える。そう。
そうだ。楊淵季に似ている。
恐る恐る見つめると、少年は目を細め、薄く笑った。
「前の皇帝を殺したのは、あなたなんですよ」
「私が、先帝を殺した、だと?」
扉にもたれ、体を支えようとするが、足に力が入らない。
ずるずると床に座り込んでしまう。
「あなたのお祖父様も、あの置物で死んだのです」
少年は歯を見せて笑った。
――祖父も、だと。
少年の透明な体の向こうに、水晶の置物があった。
あれだけの大きさであれば、かなりの重さがあるだろう。私は腕を胸の前で組んだ。そうすると置物の重さが思い出せるかもしれない。
ほどなく、ずしりと重みが感じられ、地に足がついた気がした。
「まさか。祖父は急病で亡くなったのだ。私がまだ、八つか九つのときだった」
祖父の葬式の様子は覚えている。物心ついてから初めての葬式だった。
死因は、何だっただろう。
思い出そうとして、胸が押さえつけられるような圧迫感を覚える。
曾祖母は物が食べられなくなって死んだ。
祖母は、心臓が悪かった。
祖父は?
思い出せない。
しかし、そんなはずはないのだ。私もある程度大きくなっていたのだから、死因が理解できなかったわけがない。
八つのときの出来事を思い浮かべようとする。
何だかよくわからない。
じゃあ、九つのときは?
私は愕然とした。
その頃の記憶が、ほとんどない。
「あなたは、見ていたじゃないですか」
不意に少年が覗き込んだ。
「見ていた? 私が? 何を」
「お祖父様が、苦しみもだえながら死ぬところですよ。あなただけが見ていた」
途端、脳裏に祖父の姿が浮かんだ。
喉を押さえ、唇を噛み切り、頬を
祖父は目を見張り、私を見ていた。
目一杯開かれた、異様に丸い目。
どこかに封印されていた記憶が急激に戻り始めた。
あの日、祖父は休暇中だった。
父は仕事に出ていて、母も出かけていた。
兄達は塾だ。
使用人も里帰り中だった。
家には、祖父と私しかいなかった。
「お祖父様は、高官でいらっしゃった。軍事を司っていらっしゃいました」
顔を上げると、少年が私に手を差しのべていた。
握ろうとしたが、冷たい空気が触れるばかりでつかめない。
「なんて酷い方が出世なさったものでしょうね」
少年はあざ笑い、水晶のそばに歩いていくと、くるりとこちらを向いた。
「だから、私はこれで、あなたのお祖父様を殺したのですよ」
記憶の中の祖父は、血を流していない。
水晶の置物で殴りつけられたわけではないのだ。
ほかに、置物で人を殺す方法があるだろうか。
どのみち、一〇歳ほどの子どもにできることではない。
反論しようとしたときだった。
脳裏に苦しみ喘ぐ祖父の姿が浮かんだ。祖父の指先には、珊瑚で出来た桃の実があった。そして、祖父の膝越しに、水晶の置物が見えた。
「あなたは知っているのですよ」
水晶の置物が、少年の
〈つづく〉
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