【第一章 日常】 第10話 羊の仙人
世間には、不思議な力を持つ人物がいると信じられているが、受験勉強にいそしみ、難関と言われる試験を乗り越えてきた官僚たちは、不思議なものが実在すると信じるには、脳の空き地が少なすぎる。
私もまた、同じである。
目の前に、一人の老人がいた。
目の色は青である。
灰色であるよりはマシだ。
友人である
「ご実家の
老人が、ほとんど眉毛の陰となった目をしばたたいて言う。
つややかな白髪は金色に近い。
この人はなぜ、私の実家の庭に梨の木があることを知っているのだろう。
「ええ、昨年もたくさん実をつけました」
私は疑いながら答え、老人の様子をうかがう。
そもそも、この人は、いつから私の仕事用の椅子に座っていたのだろう。
さっき、外の空気を吸いに出たときには、部屋にも廊下にも人の気配はなかったというのに。
「花はどうかな」
老人はにやにやしながら、私が
どうしようもなく疲れたときに飲む、とっておきの茶だ。
いつのまにか、老人が引き出しから取り出していたのを、仕方なく淹れたのだった。
「春に白い花を咲かせます。美しいですよ。雪のようだけれども寒くなく、消えません」
めいっぱい開いた五弁の花片の中心には、
ただ、少し。
「そなたの知らぬ者がな、梨の花は興ざめだと申した」
老人が、白く大きな
「梨の花が? 散るのが早すぎますか?」
花片が薄いせいだろうか、梨の花は夕日に映じてあかね色に透けて見えることがある。はかなげな色合いで、すぐ夜の藍色に飲まれてしまう。
花期も短い。
「その国には他の花があるのだよ。梨の花より桃色で、桃の花よりも白い。……世の中は広い。そなたは、いつまでこの国に居座っているのかな」
私はじっと老人を見つめた。
はたして、父や祖父、兄に、こんな仙人めいた格好をする知人がいるだろうか。
そもそも、我が家は祖父の代から、男子はみんな官僚になっている。仙術を知識として知っていても、実在のものとして受け入れる生活はしていない。
それに。
いつまで居座っているのか、などと。
「茶をもう一杯、いかがです」
私は湯を注ぐ間に、老人の目を
老人は、茶碗を両手で包み、ほう、と息を吹きかけた。
湯気が筋になり、茶碗の上に小さな木の形が浮かび上がる。
木はどんどん育っていき、山の形になり、茶碗からぐいと持ち上がった。
「
ずいぶんな言われようだ。確かに、梅のような気品はない。桃のような華やかさもない。だが、梨には空気に染まっては散る美しさがある。
「老師は、蓬莱からいらっしゃったのですか」
私は問いかけ、答えを待つ。
老人は、はは、と低く笑った。湯気の島は、茶碗の中に沈んだ。
「蓬莱からと言えば、蓬莱からではあるかな。
玄都。
私は身構えた。その地の上空に、楊淵季が滅ぼした国があったのだ。仙人、仙女を自称する者がたくさん住んでいた。灰色の目をした人々。
「まあまあ。そんな怖い顔をするではない。
老人は茶碗から放した左手を、ふわふわと動かした。
「冗談なのだよ。ただの仙人なのだ。あちこち歩き回っておる。面倒なときは飛ぶけれどな。ともかく、そなたはここで腐るにはもったいないのだ。儂について来ないかね? 仙人になるのは無理でも、長い寿命を保てるようになるかも知れぬからな」
冗談ではない。
私の脳細胞もまた、兄たち同様、受験勉強で折り目正しく、かつ、論理的に並べ替えられている。
「お断り申」
言いかけたところに、老人がかぶせた。
「待て待て。話を聞くのだ。そなたと楊淵季の二人ならば、たいへんおもしろいことができそうなのだがね」
「お断り申す」
「そう言われるとなあ。まあ、少し考えてみるのだ。時間はある」
老人は茶碗を机に置くと、椅子の上でうずくまった。
うん、うん、と二度ほど唱えると、全く動かなくなった。
「どうなされた。医者をお呼びいたそうか」
老人の背中に触れて、ぎょっとする。
硬く、冷たかった。まるで石だ。
私は体を引き、老人を見下ろす。
老人の体はいつのまにか小さな羊の姿になっていて、前後の足を折りたたんで座った格好で、石になってしまっていた。
私は叫ぼうとして、声が出ないのに気づく。
腰が抜けて、座り込む。そのまま、ずるずると這いながら、廊下に向かう。
扉の脇にある柱にすがったところで、目の前に人が現れた。
「何をしているんだ、陸洋」
この呆れ声は、楊淵季である。
私はゆるゆると見上げ、ふるふると首を振る。
「私の椅子に、羊の、石が。仙人だったのだよ、石が」
途切れ途切れの声に、楊淵季が真面目な顔でうなずいた。
「ああ、とうとう来やがったか。羊仙人が」
楊淵季は大股に部屋に入っていき、椅子の辺りで立ち止まると、ああ、と嘆息した。
「淵季……知り合いか?」
私は柱に背を当て、足を投げ出して座った。
「知らん。どうやら
淵季はそう言うと、石の乗った椅子を引きずって運んでいく。よほど重いのか、彼にしては珍しく、両膝を曲げて踏ん張っている。
「おまえ、仙人を信じているのか」
「とりあえず、いるってことにしているだけだ。面倒なことは、ないことにするか、あることにするか、どちらかにすると片付くんだよ」
そんないい加減なものなのだろうか。
私はあっけにとられた。その瞬間、体の緊張がほぐれ、動けるようになった。
目の前で仙人が石になったのは、目を開けたまま夢だったとしても、楊淵季が石の羊を運ぶのに苦労しているのは、事実である。
「ああ、手伝おう」
私は立ち上がると、椅子を持ち上げ、壁際に置いた。
「相変わらずの怪力だな、陸洋」
「これだけがとりえだからな」
私は手を打ち合わせて、手のひらに残った椅子の重みを払う。
「しかし、椅子はどこかから代わりを持ってくるとして、この石の羊はどうするのだ」
「置いておくさ。そのうち、また放浪に出るだろう」
「一つ、聞いていいか」
「なんだ」
「この石は、もとは仙人だったっていうのか? 人が石に変わることがあるとでも?」
楊淵季は私を見つめ、何か言いたそうに口を開いた。だが、すぐに唇を結び、額を手のひらでこすった。
「……まあ、知らなくてもよいことだよ、陸洋」
淵季はそう言い、帰る、ときびすを返した。
黙って見送ろうとし、ふと、思い出すことがあった。
「おまえ、さっき、何かの世界で私たちが有名だとか言わなかったか? それ故、仙人が来たのだと。いったい、どんな世界で、なぜ、私が」
「知らぬほうがよいことは山のようにある。まあ、今日は休め。おおかた疲れているのだ。俺が馬車を手配してやろうか」
明らかに話したくない様子だった。淵季がこの手の態度に出るときは、ろくなことがないと相場が決まっている。
「教えろよ。あの仙人はいつまで居座るつもりかなんて言ったんだ。私はここに勤めているのだぞ。この国で生まれ育ったんだ。それを」
「だから、怪異がひっきりなしに現れるんだろ?」
「は?」
私たちは見合った。だが、淵季の灰色の瞳には、感情らしきものは浮かんでいない。
やがて、淵季は有無を言わせぬ笑みを浮かべた。
「知らないほうがいいことが多いのさ。幸せに生きるためにはな」
その夜は、結局、淵季の馬車で帰った。
翌朝、執務室に来てみると、羊の石はなく、壁際に座面のへこんだ椅子だけが置かれていた。
〈おわり〉
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