あんたこの絵札どう思う?-6
ケワリは死んでいた。
死肉が腐って凄まじい腐臭を放つその姿は、骸を見慣れているエニシダでさえ、見るに耐えないものであった。
ドウサは彼の顔を見た途端に外へ駆け出すと、ひとしきり胃の中身を吐き出した。
「済まない」
エニシダは謝ったのち竹の水筒を渡す。ドウサは中の水を飲み干した後、蒼白な顔で答えた。
「……け、ケワリさんです。間違いないです」
「この腐り様、死んでからだいぶ経つ。この界隈は死体すらそのまま放置か」
エニシダは遺体の横にしゃがんだ。
両脚は膝から下があらぬ方向に曲がっている。外から叩かれて折られたのだ。
そして片手で抑えた腹の部分は茶色に染まっている。慎重に手をずらすと、思った通り腐った刃物傷があった。
自刃……それとも他人に刺されたか。
周囲に手掛かりが無いか見回す。
屋内に生活用具の類は見当たらない。それでもめげずに辺りを探してみると、部屋の隅に穴があった。
開けてみると、下には錆びた彫刻刀が一本、それに赤褐色に染まった板切れが見つかった。
「それは……」
ドウサが板切れに顔を近づける。板には乱雑だが彫って削った跡がある。それに気付いたドウサが言った。
「版木でしょうか、これは。もしかするとケワリさんが最期に彫ったものかも。あの、巡卒さま。もしよろしければ、こいつを摺らせちゃあもらえませんか?」
懇願するドウサ。
「この人の死には関係ないかもしれません。ですが摺師としちゃあ、ただの板切れに終わらせたく無いんです。ひょっとしたら、何かこの人が消えた理由を知る手掛かりになるかも」
この必死な様子にエニシダは折れて、版木をドウサに預けた。
それからドウサを先に返したエニシダは、再び部屋の調べに戻った。
ドウサはああ言っていたが、ケワリは自ら命を絶ったとみていい。
しかし、どうして街を去り、ここへ行き着いたのか?
(しかし、マンテン堂が聞いて落ち込む姿が目に見える。どう説明したものか?)
などと考えていたエニシダは、不意にケワリが投げ出した、もう片方の手に目を向けた。
拳を作っている。
最期に力を込めて握りしめたのか。その拳を見たエニシダは、思わず「むう」と声を漏らし、硬くなっていた指を解いた。
出て来たのは一枚の紙切れと6枚の小銭。
6ゼン……小舟の渡賃に相当する金額。そして、シワだらけでヨレにヨレたその紙は、渇いた血と同じで、赤褐色に染められていた。
その血の中に浮かぶ乱雑な文字。
版画だ。エニシダは身震いする。
ケワリは板切れに文字を彫り、自らの腹を切った血で紙に色刷りをしたのだ。
命と引き換えにその出来は良いものではなく、刻まれた文字は殆どが消失していた。
しかし、唯一読めた部分を見たエニシダは、彼が何を遺したかったか、凡そ理解できた。
『うけおいにん……殺……』
………
請負人。
それは裏の世界で暗躍する暗殺代行業の呼び名である。彼らは元締を介して「どこの誰を消して欲しい」と依頼を受けると、闇夜に紛れて標的を始末する。
(その請負人に、ケワリは誰かを殺して貰いたかった。僅かな金と命を差し出して……)
墓線から詰所に戻ってきたエニシダは、手に入れた版画絵をまじまじと見つめていた。
請負人の中には、たとえ小銭一枚でも「生かしておけぬ外道を消す」依頼であれば、喜んで仕事を請け負う風変わりな連中がいる。
この仕事が、仮にその者達に渡れば、すぐ実行に移されるだろう。
だが、版画絵には標的の名が載っていない。色摺りに失敗し、肝心の部分が塗り潰れてしまっていたのだ。
(襲撃犯はケワリの脚を折って墓線に捨てた。あのような所で身動きが取れなくなれば、死んだも同然。そして家を荒らしたのも、その者だとすれば動機は……バケモン札の原板?)
詰所に戻ったエニシダは、同僚が置いていった番付表を手にする。
ケワリの関わった152番目の絵札『ニュウ』には、凄まじい価格が付いている。もしケワリが健在で、原板を持っていたままなら、今ごろ札は大量に刷り直されて、価格の高騰も起こらなかった。
(ケワリが手掛けたのはこの一枚だけ。まさか襲撃犯は最初から152番の札に目を付けていたのか。再販できぬよう、制作者と原板を消して価格を吊り上げる。目的は……転売!)
正規の店頭で高値が付けばそのまま売れ残る。しかし、一度誰かの手に渡った後で高値がつけば、次に売る時は倍々の利益が見込める。
だが……全て思惑通りにはならなかった。
原板の在処だ。襲撃犯達が家探しをしたのも、絵札作りに用いられた原板を手に入れるため。しかしこれは、ドウサが持ち出してしまっていた。
「しまった!」
エニシダが唐突に声をあげた。ドウサが帰ってきた今、襲撃犯は原板を奪うためにまた動く。顔を青くしたエニシダは、羽織を引っ掴んで外に飛び出した。
詰所のある大通りから裏手に抜け、横町のマンテン堂を目指す。
時刻は間もなく夕方。多くの店が店仕舞いを始める中、マンテン堂の前だけに大勢の人だかりが出来ていた。
(ああ……何て事だ!)
一抹の不安に胸をざわめかせながら、エニシダは人垣をかき分けて奥に進む。
「マンテン堂……ドウサ!」
普段滅多に出さない大声を発し、ようやく人垣から脱した彼の目に飛び込んだのは、頭から大量の血を流して倒れているドウサ。そして、その傍らに座るマンテン堂であった。
「もう少しだよ。もう少しでお医者サマが来るから!」
マンテン堂は手拭いでドウサの首を抑え、必死に声を掛け続けている。店員達も沸かした湯を桶に汲んで持ってきたり、主人と協力して血止めの塗り薬を塗ってみたりと奮闘していた。
「何があった!?」
エニシダが二人のもとに駆け寄る。
「旦那ぁ。ドウサさんが襲われたんです。裏口で男に首を斬られて、げ……原板を、奪って……」
「何だと!」
傷口を抑える手拭いは余す所なく赤く染まり、マンテン堂の着物まで、赤黒い血で濡らしていた。
「……うぅ」
ドウサが咳き込みながら声を発した。マンテン堂は目を涙ぐませながら「お止しなさい。喋らないで」と叫ぶ。
「原板……無事、ですか?」
エニシダは尚も息を荒く弾ませたまま、マンテン堂を見上げる。
マンテン堂は一瞬だけ悲痛な顔をした後、ひと呼吸おいてこう答えた。
「そっちは無事だよ、店の者達が大切に守っている。だから……安心をし」
「よか……た。旦那。こ、れ」
蒼白な顔に安堵の微笑を浮かべながら、今度はエニシダに折り畳んだ紙を渡す。
「ケワリさん……の版画……絵じ、や……」
ドウサの手が落ちる。咄嗟に手を伸ばして受け止めるエニシダ。
「ドウサさん? ドウサさん!?」
マンテン堂はべそべそ泣きながら呼びかける。しかしドウサは首を横に傾いだまま、ピクリとも動かない。エニシダはドウサの手を掴んだまま、首を左右に振った。
「マンテン堂。この人はもう……」
「分かってます。分かって……うう……」
マンテン堂はドウサの亡骸に抱きつき、嗚咽を漏らした。手伝っていた店員達も泣き出し、崩れ落ち、心の底から悲しむ。
そんな中、エニシダは鬼の形相で受け取った紙を睨んでいた。
ケワリが遺した版画……殺しの請負依頼。ドウサが死ぬ直前に摺り直した紙面には、こう書かれていた。
『うけおいにん へ
わたし を 襲ったヤツ ら
ワングゥ
バンゲン
殺して くださ い』
エニシダは紙を懐に納めると、やおら立ち上がった。
(安心しろ。お前の依頼……届いたぞ)
「旦那。どちらへ?」
マンテン堂が尋ねる中、エニシダは踵を返して歩き出した。
「仕事だ」
エニシダ・セツカは感情を凍てつかせた重い声で答えた。
ある時は治安を守る防人の巡卒。
またある時は裏の情報屋。
だが今の彼は、どちらでもない。
無念や怨みを抱えて果てた者達に代わって、生かしておけぬ外道を消す。
闇の暗殺代行業……ひと呼んで請負人!
……
日が暮れて夜になり、もはや荒野と一体化した荒寺に、燭台の灯がポツリと燈る。
照らされたのは青白い女の細面。絵師を名乗る胡乱な女、フォミカだ。
彼女は燭台を傾けて、先の蝋燭を御堂の戸口へと向けた。
戸口の前に黒い影が立っていた。フォミカは影に挑発するような笑みを向けた。
「……なんだい。呼び出しておいて遅刻か」
「表の仕事だ」
言葉少なく答える影……防人のエニシダが御堂の中に足を踏み入れる。
「元締はどうした?」
エニシダは、まとめ役の姿が見えない事に訝しむ。
「ジジイなら留守。別の仕事を手伝わされてるとか何とか。代わりに言伝を預かってる『今回の殺しはお前が仕切れ』ってさ、若殿」
フォミカは笑みを崩さず、エニシダに言う。
「そうか。ならその通りにする」
エニシダはフォミカの前に二枚の小銭を置いた。それを見た途端、彼女の笑みが消え、瞬く間に怒りで溢れた。
「二ゼン!? たった銭二枚!?」
「的は古道具屋のワングゥ。そして書物問屋の番頭バンゲン。お前たちはどちらか一人を仕留めろ」
「ふぇ?」
暗闇の中から三人目の間抜けな声が響いてきた。フォミカはボリボリとうねった銀の長髪を掻く。請負人は原則として、依頼の背景を探ってはならない。ただ元締から下りてきた仕事を請け負い、確実に標的を始末する事だけに専念するのだ。
「……どうしてこう、アタイらに舞い込んで来る仕事ってのは面倒なのばかりなんだ?」
などとボヤきながら、フォミカは二枚の銭を掴んだ。
「ってな訳だ、シキミ。絵のことは戻りながら話す」
「あいよぉ」
三人目の請負人……フォミカの世話役であるシキミが、場違い極まる能天気な返事をする。
二人が動き出すや、エニシダも燭台の灯を吹き消して闇の中に消えた。
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