エピローグ 壱万円札の文化人類学的研究序説

 夢を見ていた


 奇妙


 奇天烈


 摩訶不思議


 奇想天外


 四捨五入して


 荒唐無稽


 そんな形容はできるが


 肝心の中身が何一つ思い出せない


 夢から覚めて


 瞼を開いて


 最初に眼に映ったのは


 実家から駆けつけた母親と妹の


 泣きじゃくる


 顔


「ああ! もとしの目が開いた!」


「あああああああああ、お兄ちゃん!」


 ああ


 助かったのか


 私は家庭教師のアルバイト帰りに


 ダンプカーに撥ねられて


 生還したのか


 気づいたら


 体じゅうが包帯で覆われている


 点滴のカテーテルが腕に刺さっている


 溢れんばかりの涙を催す


 声を出そうにも舌が回らず


 アーアー泣き叫ぶ


 視界には涙のモザイクがかかっているが


 すがるようにぎゅっと


 私の手を握りしめる家族の手を


 瞳はしっかりとらえている


 あたたかい


 そう思った



 しばらく安静を続けたあと、お医者様が私を診察して経過は良好と判断すると、家族以外の接見が許されて、親戚のみならず、博士論文の指導教官や後輩の院生たち、アルバイト先の生徒や同僚、昔お世話になった恩師や友達が次々とお見舞いに来てくれた。


 ベッドのわきには彼らが折ってくれた色鮮やかな千羽鶴が飾られてある。みんな、みんな、いい人たちばかりだ。


 私は一週間ほど意識不明の重体に陥り、まさに一進一退の病状で、一時はヤマ場を迎えて、そのときは母親も妹も覚悟したとあとで聞かされた。まさか博士課程の最終年度にダンプカーにねられて、九死に一生を得るとは、思いもよらなかった。


 私は博士論文を期限内に提出することは叶わず、経済学研究科の博士課程を単位取得退学した。しかし死の淵をさまよってかけがえのない命のありがたみを知った私は、翌年から奮起する。完全復活を待ち、一年遅れで博士論文を提出すると、論文博士として認められ、晴れて経済学博士となる。


 私は太宰府天満宮の神前で誓ったのだ。必ずや博士論文を書き上げますと。すべては文章《もんじょう》博士であらせられた天神様のおかげである。


 博士論文のタイトルは〈壱万円札の文化人類学的研究序説〉。序説と銘打ったのは研究がまだ完結していないからだ。


 壱万円札はまだ生きている。今も人間たちの財布や銀行を渡り歩きながら市場で流通している。


 最後の一葉が、市場から撤退するその日まで――


 私は、結論を示さない。



 それから私は満を持して就職活動に挑み、いろんな苦労があったが、奇跡的に日本銀行金融研究所に採用された。


 就職して二ヶ月目の二十五日に、初任給をATMから引き出したときの喜びは忘れられない。つい最近まで、金がない、金がない、と文句を言いながら、ちびちび一万円ずつ引き出していたのが嘘のようだ。壱万円札が光っていた。


 使い道は、私のような親不孝者を支え続けてくれた母親に対する親孝行代金。若くして亡くなった父親がよく連れて行ってくれた別府の杉乃井ホテルに、こんどはボクが母さんを連れて行くよと言ったら、母親は泣いて喜んでくれた。


「偽札を持ってきたわ」


 そう言って母親は財布から古びた一枚の紙切れを取り出した。どこかで見たことあると思ったら、私の拙い筆跡だった。


〈かたたきけん〉


 ああ! かつて家計に流通させたこの肩たたき券こそ、私が経済学のこと、お金のことを好きになった、真の起源だったのだ!


 母親が肩たたき券を額面どおり消費することを求めたので、私は昔みたいに肩をトントン叩いてあげた。強くて痛いと言われた。


 ああああああああ、母さん、女手一つで育ててくれてありがとう! 父さあああああん、母さんと出会ってくれてARIGATOEEEEEEE!


 それから芝居が好きな母親と博多座で『俊寛』を観たし、大衆演劇を観に行く際にはおひねりを作るのを手伝ってあげた。


 つい先日、母親がめでたく還暦を迎えた際には、お祝いのちゃんちゃんこを贈ってあげた。すると母親から自撮り写真が送られてきた。すごく似合っていた。今は亡き祖父母の面影をそこに見た。


 残りの使い道については、奨学金や消費者金融の返済に充てた。拝啓、こんな自分を信用してお金を貸してくださった皆様へ。私は借金のおかげで勉学に励むことができました。本当にありがとうございます。完済までにはもう少し時間が必要ですが、責任持って返済いたします。どうか今しばらくお待ちください。


 私は現在、金融研究所に併設する貨幣博物館で勤務している。縄文時代から弥生時代にかけての貨幣史が担当で、日本における貨幣の起源について研究している。毎日好きなだけお金のこと、経済学のことに取り組める、これはもう、私にとっては願っても無い天職です。神様、ありがとうございます。


 たまに金融教育の講師として小中学校からお呼びがかかると、価値の尺度を切れ味のいい包丁にたとえて熱弁をふるっている。良い子のみんな、お金はとても便利なものだけど、お金で人をさばいてはいけません! と生徒たちに吹聴して。


 当然の反応として彼らの顔はポカンとする。でも、それでいいのだ。これは大人になって、自分のお金を自分で自由に使い始めて、もし人間関係に行き詰まることがあれば、そのとき初めて気づくことだから。そういえば昔、変なオッサンが話してたなあと思い出してくれるよう、私はわざと大袈裟にふるまって印象を残そうとする。


 さて、私の次なる目標は結婚すること、そして家庭を築くことだ。結婚したら新婚旅行は風光明媚な宮崎に行きたい。子どもが生まれたら男の子なら野球をさせたい。女の子なら女優にさせたい。母親は、あともう少し長生きしたら年金がもらえるから、孫にお年玉をあげたいと言っている。


 しかし現状では、結婚に向けた具体的な進展はない。彼女すらいない。詳細は伏せるが、かつて上京前に交際していた彼女と壮絶な別れを経験して以来、どうも異性に対して苦手意識があり、彼女いない歴十年以上の素人童貞である。年収で選別されるのではないかという疑心暗鬼で婚活にも踏み込めていない。


 そこでまずは彼女の募集から始めようと思い立ち、私は勇気を出して今夜、人生初の合コンに参加している。


「中里元志と申します」


 と受付で自分の名前を告げて会費6千円を納めようとしたら、目の前に立つ幹事らしき男が、


「吾輩は猫文Ⅱである。この物語の作者である。そしていま、吾輩はあなたから壱万円札をたしかに受領した」


 と奇妙に話った。変な奴。関わらないほうがよさそうだ。


 男は私から壱万円札を受け取ると、帳簿らしき紙に、


 中里元志 1万円 → 猫文Ⅱ  6千円

            中里元志 4千円


 と、これまた奇妙な形式で私の支払い記録をつけている。見わたすと両隣の受付係も同じように帳簿を記している。そして三枚の紙は公開されていて誰もが閲覧できる状態にある。


 そのとき私は悟った。そうか! この紙をウェブ上で表示させて、改ざんできないように暗号化できる仕組みがあれば、電子通貨を創造できる……!


「ナカモトサトシがビットコインを創造したのは二〇〇九年一月三日のことであった」


「えっ?」


 男は私に微笑みかけるが、自分の名前をあべこべに読まれた私はイラっとして、


「私の名前は中里元志ですよ! 名前を間違えないで下ささい。あとで会費が未納ですとか言わないでくださいね!」


「きみに向かって言ったのではない。吾輩は視聴者に向かって言ったのだ。そして視聴者はいま理解した。この物語がいったい誰についての物語だったかを」


 意味不明なので、もう相手にしないことにした。


 ところで男は壱万円札を手につかんだまま、私におつりを返そうとしない。それどころか、


「今からそなたの壱万円札を使って、この物語を一瞬にして終わらせる手品をして進ぜよう」


 と、さらに意味不明な戯言を語りだす。消えたと称して壱万円札を猫ババされそうな気がして、私は焦って催促する。


「つべこべ言わず、おつりをいただけませんか!?」


「よろしい」


 男はおつりの千円札4枚を私の目の前に差し出し、


「いいかい、よおく見てるんだよ」


 そう言って千円札を一枚ずつめくり始める。


「千円札が、いちまい、にまい、さんまい……」



 おしまい

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転生SFコメディ『私は壱万円札である』 猫文Ⅱ @masaestro

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