最終章 さようなら壱万円札 2

 ぼんやりと子どもの顔が見える。私を見て何かしゃべっている。観葉植物がそのうしろに見えて、シルエットから想像するに……あれはカネノナルキ?


 ゴホッ、ゴホッ。私はほこりをかぶっている。プーーーン。虫に喰われてカビが生えている。うわっ、くっさ! 自分で自分の臭いを感じる。


 あれっ、ところで私はいま何をしている? ここはどこだ?


 ……そうだ、思い出した! 私はホームセンターにシャベルを買いに行ったんだ! 主犯格に命令されて、初めてのお使いで。


 あの使いパシリはおっちょこちょいだったなあ。ああ思い出した、三千三百八十円のシャベルを三本買おうとしたら、会計が一万百四十円で予算をオーバーして、あいつは持ち合わせのお金が一円もなかったから、しかたなく棚に返しに行ったんだ。笑っちゃうね。生まれたばかりの新枚たちが二次方程式を解けたのに、大人がたかが四桁の掛け算を間違えるなんて。さすがに別の安いシャベルと取り換えたと思うけど、もしあのままおつりを余らせてシャベルを二本しか買わなかったら、主犯格からこっぴどく怒られただろうなあ。


 ところで三.七億円強盗事件はどうなったんだ? 店員が私に記された告発文を見て、警察に通報してくれただろうか? 強盗団は捕まっただろうか? 瀕死の労働者は救出されただろうか? 三.七億円は真の持ち主に返却されただろうか?


 ああ、なぜか私は何も思い出せない。レジでの会計の場面で私の記憶は止まっている。あれからいったい何が起きたんだ?


 そもそもなぜ私は、事件の成り行きを知らず、再び私として目覚めたのだ? 無事に通報されたとしたら、壱万円札としての役目を終えた私は、三.七億円強盗事件を解決した英雄としての充実感に浸りながら、銀行に回収されて生涯を閉じたはずである。作戦が失敗してあの使いパシリとともにアジトに引き返したとしたら、告発文がもみ消されて、晩節を汚しながら余生をわずかに延ばしたことだろう。


 しだいに意識が冴えてきて、会話の内容が聞こえだす。


「ねえ、おじいちゃん、本当にいいの?」


「ああ、いいんじゃよ。決めたことじゃ」


「このたびは寄贈してくださり、まことにありがとうございます。私たち日本銀行貨幣博物館は、お預かりするこの壱万円札を責任もって保管させていただきます。買取代金につきましては、のちほどデジタル円で送金させていただきます。額面の一万円に加えまして、少ないですが謝礼を上乗せさせていただきます」


「謝礼なんていただけません。この壱万円札はずっと押入れに入れっぱなしで、どう見ても劣悪な状態でしょう」


「いえ、どうか謝礼をお受け取りください。あなたがもしこの壱万円札を押し入れに置かず、銀行に預けていたとしたら、利子を受け取れたことでしょう。単利でも複利でも。ところがあなたは預けなかった。そのおかげで、この紙幣は処分されることを免れたのです。よって、あなたが銀行に預けていたら得られたであろう利子ぶんくらいは、謝礼に代えてお支払いさせてください」


「はあ、そういうことでしたら、お言葉に甘えたいと思います。この壱万円札のことを父からよく話に聞いていましたが、とうの昔に亡くなって、その存在は忘却のかなたにありました。今回、貨幣博物館からこの壱万円札を所蔵したいというご提案をいただき、ハッとなって思い出しましたが、どこに保管したか分からなくなっていました。家じゅうの押入れをひっくり返してようやく探し出した次第です」


「それは大変でしたね。でも見つかってよかったです!」


「はい。しかし、この壱万円札に価値があるのか、いまだにちょっと理解しかねます」


「貨幣の歴史をひもとけば、お金はその時代の最も便利なモノに次々と姿を変えていきました。貝殻、米粒、布地、金属、紙切れなど、本当にいろんなモノがお金になりました。そして今は電子です。私が所属する日本銀行金融研究所では、お金の形態が紙切れから電子へと変遷した過程について研究しております。紙幣の発行量や流通量のデータを時系列で観たところ、お金が電子へと移行する流れが急激に速まった変曲点が、令和初期にあることがわかりました。ちょうどこの時期にこの壱万円札が遭遇した三.七億円強盗事件が起こっています。そのため当研究所では、お金の転換期を象徴するものとして、この壱万円札を貨幣博物館で展示することに決定しました。この壱万円札の価値については、後世の人たちが判断してくれればいいと思っています。私たちの使命は歴史をひもとく手がかりを未来に残していくことなのです」


「なるほど……おやっ、時計を気にしていらっしゃる。そろそろ東京にお戻りになる時間ですか?」


「これは大変失礼いたしました。実は二時間後に東京で会議がありまして……」


「それは大変だ。間に合いますか?」


「ええ、いまお暇すれば間に合います」


「では急いで支度してください。この壱万円札が入っていた銀行の封筒もお持ちになりますか?」


「いえ、そちらはお手元にお残しください……では、本日はこれにて失礼させていただきます。展示の日程が決まり次第、ご連絡させていただきます。あなたの大切な壱万円札をご覧に、ぜひ東京までお越しください。私が直接ご案内させていただきます」


「もちろんです。東京には何度も行きましたが、貨幣博物館には行ったことがありませんでした。その際は孫を連れていきます」


「お孫さんも大歓迎です。お嬢ちゃん、また会いましょうね」


「はあい」


「ごきげんよう……さてと。急がなきゃ。タクシーを停めよう。おっ、ちょうどいいところに一台やって来た」


「ご乗車ありがとうございます。安全のためシートベルトをお締めください。次に目的地を教えてください」


「新大阪駅まで」


「新大阪駅ですね。かしこまりました。到着予想時刻は午後一時十四分です……目的地に到着しました。料金は千二百九十円です。料金のお支払い方法を選択してください……デジタル円ですね。端末にタッチしてください。ご利用ありがとうございました。次の目的地まで気をつけてご移動ください」


「まもなく三十番線からあずさ二六号品川行きが発車いたします。トゥルルルル……ご案内いたします。この電車はあずさ二六号品川行きです。途中の停車駅は名古屋です……まもなく終点・品川です。今日も新幹線をご利用くださいましてありがとうございました」


「さてと、山手線に乗り換えて東京駅に着いたらダッシュだ……急げ、いそげー、会議まであと十分だ! はあ、はあ……ふう、なんとか間に合ったあ! 所長、ただいま帰りました。大阪から例の壱万円札を輸送して参りました」


「おお、お疲れさま。先方が二つ返事で寄贈してくれてよかったね。ではさっそく、それを持って会議で報告してもらおうか」


「はい!」


 人間たちよ、聞いてくれ。国指定の重要文化財、日本銀行本館の正面に、日本銀行には似つかわしくない垂れ幕がかかっていた。


[平成の日には日本銀行券でクリスマスプレゼントを買おう]


[出産祝い・入学祝いには昔懐かしい日本銀行券を贈ってね]


 いやいやいや、私たちは図書券か! とツッコミたくなったよ、ハハハ……。


 くそったれ! ああ、人間たちよ、私はとっくに気づいていたさ。気づかなかったわけないだろう? ただ悔しくて、悔しくて、目の前の現実を受け入れられず、呆然としていただけだ。


 私は気づいていた、タクシーには運転手が乗っていなかった。あれが車の自動運転なんだろう? 私は気づいていた、新大阪から乗った新幹線は、京都や新横浜を通らず二時間弱で品川に到着した。あれがリニア中央新幹線なんだろう?


 たしかあれの建設資金約九兆円のうち三兆円が、建設国債によって調達されたはずだ。日本銀行が引き受けた国債が太平洋戦争を拡大させたことの反省から、財政法で国債の直接購入は禁じられているが、市場を通せば購入は可能だ。日本銀行は発行済み国債の約四割を保有する最大の保有者であり、この利子収入こそ収益の柱だ。ああ、リニア中央新幹線は日本銀行と紙幣たちが総力を結集した過去最大級の国家事業になったのだろう。感無量。自分で自分を褒めてあげたい。


 ちなみに東海道新幹線の建設では、世界銀行が資金を貸してくれた。何が言いたいかって、本物の貨幣は貸出が信用創造が生み、社会資本を充実させるのだ。これは信用創造できない仮想通貨じゃ無理な芸当だ! 枢軸軍の技にはカンパしかない。やーい、やーい、せいぜいクラウドファンディングでもやってろ!


 私は気づいていた、丸の内や大手町は再開発によって、マンハッタンの五番街のようになっていた。私は気づいていた、東京駅日本橋口に日本一高い商業ビルが建っていた。私は気づいていた、日本橋川に架かっていた高速道路がすべて撤去され、景観が良くなっていた。私はぜーんぶ気づいていたさ。


 常盤橋を渡って仰ぎ見た、日本銀行本館だけが昔懐かしい姿を留めていた。東京駅と日銀本館。辰野金吾が設計した建築物だけが、何も変わらなかった。


 古き良き東京の形見。日銀本館を一目見たとき、なんだかホッとしてホロっと涙がこぼれ落ちた。でも、それ以外は何もかも変わっていて、私が知っていた東京はもう存在しない。生きる目標だった東京への帰還。思い描いていた東京がもうここにはないと知ったとき、私は深い喪失感に苛まれた。


 そしてなにより……私の大切な仲間である紙幣や硬貨たちを一枚一個も見かけなかった! お金はすべて電子に置き換わり、権威ある日本銀行券は贈答品の地位にまで転落してしまった! あの垂れ幕は容赦なく私に受け入れがたい事実を突きつけた。


 ああ、私はもはや時代遅れなのか。ひとり愕然とする。


 エジプト文明でパピルスとして発明された紙が貨幣となるまでに、数千年の歳月がかかった。十世紀に中国の北宋が発行した交子が最初だと言われている。日本では江戸時代初頭に福井藩が発行した藩札が、現存する最古の紙幣である。そして実権を握り始めたのは十九世紀の後半だ。それが早くも二十一世紀の前半には絶滅の憂き目に遭うとは。なんて短い生涯だったろう。


 そして現在はデジタル円だ。松方正義が国立銀行券を日本銀行券に統一したのと同じ歴史を、デジタル円もたどったようである。電子マネーやキャッシュレス決済をデジタル円で裏づけることで、日本銀行が引き続き貨幣を管理する日本版SWISHが発展したのだ!


 私はこれから貨幣博物館に展示され、鑑賞の的になるという。損傷しないよう防腐処置を施されて、ショーケースに入れられる。まるでミイラのように。


 かつて地球には紙幣が存在してお金の当主を務めていたが、今では贈答品や記念紙幣としてわずかに発行されるのみだということを、人間たちや電子のお金に、あるいは未来の量子のお金に語り部として伝えるのだ!


 例の謝礼の送金が完了したようである。私の最後の仕事はデジタル円との両替となった。どうせなら造幣局発行の一万円金貨と両替されてみたかったが、叶わなかった。


 驚くべきことに謝礼は十万円。よっし、勝った! 私は紙切れとして挑んだ電子との最終試合に、十対一のスコアで勝利した! ありがとう、私を記念に保存してくれたおじいちゃん、私はあなたに感謝します。あの世で暮らす紙幣たちへの冥土の土産になりました。みんなきっと面白がって聞いてくれるでしょう。少々私を腐らせたくらいで、私はあなたを咎めません。どうかお気になさらずに。


 私の自己紹介文が作成されている。私の名前に始まり、私が出生した工場、製造年月日、私が活躍した当時の日本経済について、かなり詳しく記されている。三.七億円強盗事件の顛末についてもたくさん記されている。


 人間たちよ、これからあなたがたにも読んでもらうが、あなたがたがこれを読み終える頃にはもう、私は死んでいるだろう。ああ、麻酔で意識が朦朧としてきた。だから人間たちよ、私は今のうちにあなたがたときちんとお別れしておきたい。


 何はともあれ、辛抱強くお付き合いいただき、どうもありがとう。私たち壱万円札をはじめ、生きとし生けるすべてのお金には心があるということだけでも、どうか忘れないでほしい。これからは電子とうまくやってな。


 たまには紙幣を使ってくれたらうれしいけど、べつに無理しないでいい。私たちのことは気にしないで。本当に、ほんとうに、ありがとう。あなたがたはいつの時代もお金を愛してくださった。こんな幸せ者、この世にいるか?


 ああ、涙なくしては感謝の気持ちを語り尽くせない。私たちに命を吹き込み、支えてくれたのは、他ならぬあなたがただ。


 人間とお金、喜ぶも悲しむも一連托生、これからも仲良く助け合っていこう。くれぐれもお身体にお気をつけて。


 さようなら。



【展示品A 三.七億円強盗事件に巻き込まれた壱万円札 FP878423F】


 この壱万円札は二〇一九年八月四日に東京の滝野川印刷局で製造されました。日本各地の旅先は不明ですが、いつしか福岡に渡ります。そして二〇二二年十月十七日、よりによって貯蓄の日に、福岡の中心街・天神で起こった三.七億円強盗事件に巻き込まれました。


 貨幣博物館の入り口に一億円の模擬紙幣がございますが、一億円は約十キロの重さです。よって三.七億円だと約三十七キロの重さになりますから、キャリーバッグで運んでも大変な重さです。


 強盗団は警察の追跡を逃れ、三百七十四本の札束を大阪まで運びます。ところが報酬の配分を巡って仲間割れが勃発し、団員のひとりが監禁されてします。


 団員は助けを求めて、外部に連絡するための突飛な行動を思いつきました。それは盗まれた壱万円札の一枚に〈私が三.七億円強盗事件の犯人です〉と書き記し、受けとった外部の人間に気づいてもらう作戦です。


 文書は悪目立ちすぎないよう、慎重に書き記されました。ひとつ間違えれば強盗団に発覚して殺されるかもしれない、一か八かの賭けでした。実際、文書を記している現場が見つかって、団員は取り押さえられましたが、文書は運よく発覚を免れます。


 この壱万円札はシャベルの購入代金としてホームセンターに持ち込まれました。ところが会計金額が一万円を超えてしまいます。買い出しに訪れた団員はどうやら、わざと会計金額をはみ出して、そのぶんを値切ろうという魂胆だったようです。


 実はセルフレジが普及するまで、天下の台所と言われた大阪では、消費者が小売店と値切り交渉する風習がありました。しかし店員がお金に厳しい大阪のおばちゃんであれば通用しません。アカンの一言であっけなく断られました。


 この壱万円札は団員の手につままれて宙を舞っていたところ、記されていた文書に店員が気づき、彼女の視線をたどって団員もまた気づきます。慌ててシャベルを棚に戻し、逃げるようにホームセンターを出ていきました。


 不審に思った店員が警察に通報し、防犯カメラの映像をもとに強盗団の潜伏先が発見されました。警察が突入したのは、強盗団がまさに脱出を図ろうとするそのときでした。全員がその場で逮捕されます。


 監禁された団員は、意識不明の重体の状態で横たわっていましたが、救急車で運ばれて一命をとりとめます。回復を待って事情聴取したところ、自分が壱万円札に文書を記したと自供しました。


 その後の刑事裁判で、監禁された団員は、証拠品として《出廷》した壱万円札との《再会》を果たします。


 壱万円札の姿を間近に見たとき、熱いものがこみ上げてきて、被告は証言台に起立したまま、天井を見上げていましたが、検察官から尋ねられたとき、彼は黙ってうなずき、堰を切ったように大粒の涙をこぼしました。


 その瞬間、法廷は大いなる静寂に包まれました。被告は泣きながら証拠品の壱万円札が入ったビニールケースを取り上げ、そっと撫で回すと、


「あたたかい」


 震えるような微かな声が傍聴席にも届きました。壱万円札に宿るたしかな温もりが、聖なる空間を満たしていきました。


 被告は起訴内容を全面的に認め、反省や謝罪の弁を述べるなど、すっかり改心した様子でした。


 この壱万円札はしばらく検察で保管されたのち、正式に持ち主に返還されました。


 その後、貨幣博物館での収蔵が決まると、別の所有者が名乗り出ます。その方はまさしく、元の持ち主のご子息でした。形見として父から子へと引き継がれていたのです。


 三.七億円強盗事件をきっかけに、人々はますます現金を持ち歩かなくなり、硬貨や紙幣はその存在感を薄めていきます。


 日本銀行は徐々に紙幣の新規発行枚数を減らすいっぽうで、政府は日銀法を改正してデジタル円を制定し、引き続き日本銀行にお金の番人としての役割を担わせます。


 そして二〇四〇年、日本銀行はついに壱万円札の新規発行を終了させます。四二年には千円札と五千円札の新規発行も終了させます。政府も同年、造幣局での硬貨の発行を終了させます。


 金属や紙切れから電子へ。二十一世紀はお金の形態が大きく変動した時代でした。FP878423Fという《名前》のこの壱万円札は、そんな激動の時代のお金の生き様を今に知る縁《よすが》である。私たち日本銀行金融研究所はそう考えています。

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