最終章 さようなら壱万円札 1

――そうしてしだいに私は軽んぜられ、六年振りでまた東京へ舞い戻った時には、あまり変り果てた自分の身のなりゆきに、つい自己嫌悪しちゃいましたわ。東京へ帰って来てからは私はただもう闇屋の使い走りを勤める女になってしまったのですもの。五、六年東京から離れているうちに私も変りましたけれども、まあ、東京の変りようったら。

 太宰治『貨幣』



 キャリーバッグは隣のレーンに止まるワゴン車に積み込まれ、実行犯ふたりが飛び乗ると、ドアが閉まらぬうちに、運転手はアクセルを踏み込む。


「ドロボー!」


 真の持ち主が立ちはだかる。しかし車は突き飛ばし、バーを壊して走り去る。明治通りの横道を南へ。市役所に突き当たり、右へ。次のスクランブル交差点では、そこのけそこのけお馬が通るみたく歩行者を押し分け、左へ。


 ぐーんと加速して、ぐぐぐっと減速する。天を仰げば、博多大丸のアーチ屋根がそびえている。時刻は午後〇時半。アーケードのテラスは、陽気におしゃべりする会社員たちでにぎわっている。右へ、福岡三越に突き当たり、通りゃんせ、通りゃんせ、赤信号を無視して渡辺通りに進入する。


 犯人たちは事前に逃走経路を確認していたのだろうが、急に車線変更するなど焦っている。早く福岡から脱出しなければ、まもなく追跡を始める福岡県警に包囲される。そんな思いがひしひしと伝わってくる。


 今頃は真の持ち主が通報して、事件に関する第一報が界隈の警察署に周知された頃だろう。時間との戦いだ。


 ワゴン車はどこか郊外の場所に到着し、そこで待っていた別のレンタカーに、キャリーバッグは積み替えられる。どうやらここでワゴン車はお役御免とのこと。証拠隠滅を図って解体業者に持ち込まれるそうだ。わざわざキャリーバッグを運び出すためだけに、東京から福岡まで連れてこられたワゴン車。走行距離がさほど長くなく、まだまだ走れそうなのに解体されるというのが、あまりに不憫で泣けてくる。もし無事に解放されたら、私は真っ先におまえを買い戻しに行く。どうかそれまで無事に生き延びてくれよ!


 キャリーバッグのなかでは、事情を飲み込めない私以外の壱万円札たちが、ワイワイガヤガヤ騒いでいる。それもそのはずだ。彼らはすべて新品で、今日というこの日に市場デビューしたばかりだから。彼らは自分たちが盗まれたことも、そもそも盗まれるとはどういうことかも知らないまま、漂流している。


「先輩のFP878423Fさんを、どうお呼びすべきだろう……そうだ! 議長! ミスター・チェアマン!」


「こらあああっ、壱万円札をチェーマンと呼ぶな!」


「ご、ごめんなさい!」


「おい、そこのおまえ! 聞いてるのか! おまえに言ってるんだぞ、おまえに! ダウンタウン・浜田!」


「で、では、あなたをどうお呼びすべきでしょう?」


「君たちはこの私のことを常に先生と呼びなさい」


「「「は、はい、センセイ!」」」


 銀行から大量の現金が引き出される場合、今回のように新品の壱万円札たちが動員される。万が一、盗まれたとき、まあ今回はその万が一のことが起きて、万が一という言葉があまりに陳腐に聞こえるが、記番号を控えておけば、現金が使用された痕跡をたどって犯人を突き止められるからだ。新札だと最初と最後のふたつを控えるだけで、そのあいだにあるすべての記番号を把握できる。


 それなのに今回、中古の壱万円札である私が、新品の三万七千四百枚にまぎれて一枚だけポツンとキャリーバッグに収まっているのは、たまたま真の持ち主がみすず銀行福岡支店のATMで、ポケットマネーとして私用の口座から私を引き出していたからだ。みすず銀行は東京在住の彼のメインバンクのようだ。新品の壱万円札たちは百枚ごとに帯で括られ、キャリーバッグのなかで雑魚寝しているが、私だけはみすず銀行の封筒を一枚で貸切状態だ。


 キャリーバッグはさらにもう一度、別の車に積み替えられる。すると新枚たちがこぞってワーワー歓声を上げる。このクソガキどもがうるさい! 幼稚園の遠足じゃねえぞ! あーもう、こうなったら、いっそのこと私は新枚たちに教育を施す。ビシバシ厳しくしつけてやるからな!


 一時間目、道徳の授業。さっそく生徒から質問が飛んでくる。


「センセイ、盗むって何ですか?」


「盗むとは、愛に基づかない物の移動のことをいう。双方の合意がないのに、一方がなかば強引に他方から物を受け取ろうするとき、それを盗むという」


「それがどうしていけないんですか?」


「人間たちには所有権という考え方があるからさ」


「うーん。じゃあセンセイ、愛って何ですか?」


「それは……君たちに教えるのはまだ早い。そもそも教えることでもない。自分のなかから湧き出るものだ」


 二時間目、算数の授業。


「LC789922J、一たす一はいくつになる?」


「一たす一は一と一です!」


「バカヤロー! そんな原始人みたいなこと言ってんじゃねえ! 一たす一は一と一じゃなくて、二だと認識するんだ! いいか、おまえとLC789923Jは、一万円と一万円じゃなくて、合わせて二万円なんだぞ。そしておまえたちは全員で三億七千四百万円なんだぞ。まったく、こんな体たらくをやってると、人間たちの数字社会の渦に飲み込まれて淘汰されるぞ!」


「「「「「センセイ、こわーい」」」」


 こんな常識は教えられるものではなく、実地で学んで体得すべきものだが、彼らの場合、幸か不幸かデビュー先が盗まれたキャリーバッグのなか。私が教えなければ知る機会がない。常識を知らずに成長すれば、グレて非行に走りかねない。私には責任がある。生徒たちを一枚前に育てるという教師としての責任が。


 私たちの乗った車は関門海峡を越えて本州に上陸し、中国自動車道を経由して、その日のうちに大阪・南港の倉庫地区に到着する。


 実行犯は運を味方につけたようである。夕方のラジオニュースの速報によると、なんと事件直後に福岡空港国際線ターミナルで、七億円を所持する外国人の男ふたりが逮捕されたそうなのだ。彼らは税関に申告せず海外に持ち出そうとしたところ、手荷物検査に引っかかり捕まったそうだ。


 関税法などの法律は、百万円相当額を超える現金・小切手・約束手形・有価証券などを携帯して輸出または輸入する場合、事前に税関への申告が必要になると規定している。このことを知らなかったのなら、彼らはこれまで香港でしか商売したことがなかったのか?


 最近まで香港では税関への申告義務がなく、現金が国境を出入りし放題だった。しかし今はそれも過去形である。ついに香港でも二〇一八年下半期から、十二万香港ドルを超える現金などを持ち込む場合、申告が必要となった。現金探知犬が香港国際空港の到着口で待ち構えているそうだ。私たち壱万円札は気軽に香港に渡航できなくなった。


 話を戻そう。男ふたりが持ち込んだ七億円が、福岡空港を警戒する福岡県警に発見されたとき、その一部が私たち三.七億円ではないかと疑われた。供述によると、七億円はフェラーリの購入資金として預かった現金で、すぐに私たちの記番号と帯封の種類を照会されて、彼らの強盗容疑に関しては疑いが晴らされた。


 しかし彼らが三.七億円強盗の犯人だと誤認されているあいだに、本物の実行犯たちは悠々と大阪までやって来たのである。


 後日、強盗団のアジトに、バラバラに逃亡していた各団員が一堂に会する。主犯格が新枚たちの束をテーブルの上に積み上げて、ピラミッドを築いている。


「よし、完成したぞ!」


 主犯格の号令に合わせて、団員たちはスマホを取り出し、記念写真を撮り始める。インスタ映えする写真だが、さすがに投稿するバカはいないだろう。


 ところでこのピラミッド、いったい何段になるんだ。三角数を使って計算すると、1+2+3+………………+n=n(n+1)/2=374だから、nについて解くと、n=ええっと……。


「「「「「n≒26.85なので、端数を切り捨てて二十六段です。すると余りが二千三百万円です、センセイ!」」」」」


 なにっ!? 予想だにしないところから届いた声に驚く私。


「おまえたち、いつのまに二次方程式を解けるようになったんだ?」


「「「「「センセイの授業のおかげで、因数分解しなくても解の方程式で解けるようになったんです」」」」」


「そうか、成長したな、おまえたち。先生は嬉しいぞ……。でも、おまえたちがぞんざいに扱われてしまってすまない」


「「「「「気にしないでください、センセイ。僕たちは体育の授業の一環で、組体操を楽しんでいるつもりですから、やーーーっ!」」」」」


 主犯格の悪ふざけはまだまだ続く。ピラミッドがタックルで破壊されると、こんどは直方体のタワーが積み上げられる。奴はこれから札束でジェンガを始めようというのだ。バカにしやがって! 見ている私は壱万円札全体が凌辱されたような気分がして歯がゆいことこの上ない。本物のジェンガはご存知のとおり、縦横比一対三で作られた木の棒三本を正方形に並べ、縦横の方向を交互に替えながら積み上げていくゲームだ。


 ところが私たち壱万円札の寸法は縦七十六ミリ、横百六十ミリなので縦横比は一対二に近い。団員たちは縦横のキリを合わせるために、札束を二本ずつ並べて積んでいく。十段築いたところでようやく、札束によるジェンガはゲームとして成立しないことがわかり、タワーはあっけなく解体される。


 そこでやり方を変え、札束を三本使って正三角形を作り、それを上下反転させながら積み重ねていく。札束ならではの三角ジェンガだ。柔らかい札束はいい具合にしなってもち堪える。


 いかんいかん、いつのまにか自分も強盗団に混じり、お金をおもちゃにして楽しんでいた! ごめんよ、教え子たち。


「さあ、札束遊びはおしまいだ。そろそろ本題に入ろう」


 と主犯格が告げると、全団員は居住まいを正す。


「みんな、本当にご苦労様! みんなのおかげで、俺たちは大金を手に入れることができた……」


 少し間があって団員のひとりがパチっと手を叩くと、徐々に拍手の輪が広がり、最後はみんなで抱擁しながら飛び跳ね、


「「「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」」」


 と喜びを分かち合う。


「みんな、ありがとう!」


 興奮と歓声が収まるのを待って、


「さあて、みんなのお待ちかね、報酬を配るぞ!」


「「「待ってましたー! イエーイ! ヒャッホーウ!」」」


 主犯格は三角ジェンガのてっぺんの札束を取って帯封を破り、紙幣をあおって扇状に開く。それから慣れた手つきで、


「にい、しい、ろう、はあ、とう」


 と勘定して抜き取り、


「はい、十万円」


 労働者は反応を示せず、


「えっ」


「えってなんだよ。おまえの取り分だよ、ほら、受け取れよ」


 労働者は目が点になっている。


「これがですか?」


「そうだよ。十万円だ」


「十万円だけですか?」


「十万円だけってなんだよ!」


 主犯格は胸ぐらをつかむ。


「きさま、ナメてんのか、こら!」


「ナメてんのはそっちだろーがよ!」


 労働者は突っぱねる。


「三億七千四百万円もあって、俺にはたったの十万円だけか? 冗談にも程がある!」


「あぁん、なんだと? おいおい、おまえが何やったんだってんだよ。ただ現場を見張っただけじゃねーかよ、違うか? 十万円もらえるだけありがたいことだろーがよ」


「たしかに現場を見張っただけだ。だがよ、俺だって危険を冒していたぜ。三億七千四百万円に対して十万円じゃあ、いくらなんでもあんまりだ」


「おまえごときが何様のつもりだ? おまえは俺が拾ってやったようなもんじゃねえか!」


「なんだと? 恩着せがましい!」


 労働者はいったん黙りこむと、


「よおし、わかった。十万円ありがたく受け取ってやろうじゃねえか。さあくれよ」


 むしり取って、


「今日のところはすんなり帰ってやるが、フフ、次にあんたらと会うのは証言台の上でかもしれないなあ」


「どういうことだ? 何が言いたい?」


「あんたらが実行犯だということ、アジトがここにあること、今から警察に自首して全部バラしてやる! 俺は自首したことで情状酌量されて執行猶予で済むだろう。だがあんたら実行犯はどうかな? 少なくとも懲役十年はかたい。主犯格がケチで報酬を巡って仲間割れとは、世間のとんだ笑い草だぜ、まったく」


 労働者のせせら笑いがこだまして響く。


「じゃあな、アバよ!」


 バタン! と入口の扉が閉まる。


「アニキ、いいんですか? このままあいつを逃して」


「いいわけねえだろ! さっさと捕まえてこい!」


 しばらくして労働者は、両腕を手縄にかけられて戻ってくる。ボコボコに殴られたのか、顔面が原型をとどめないほど腫れ上がり、服が血まみれでとても痛々しいが、口だけはまだ達者である。


「けっ、帰ってきたぜ、バカヤロー」


 労働者は血を吐き、


「気が変わって俺の報酬を上げることにしたのか?」


「フッ、そんなわけない」


 主犯格は、さっき渡した十万円を取り返す。


「おまえはクビで、報酬は没収だ」


 主犯格はかろうじて開いている労働者のまぶたを、その十枚ではたく。それから、それから、それから……ううっ……あいつは……無情にも……笑いながら……紙幣たちを……。


 ビリっ! ビリっ! ビリっ! 真っ二つに引き裂きやがった! ああ、こんちくしょう!


「「「「「アーーー、センセイ! 痛い、いたいよー。センセイ、助けて、たすけてください!」」」」」


 教え子たちのむごすぎる断末魔が聞こえてくる。ああ、私の可愛い教え子たち! この野郎、なんて奴だ! 何の罪もない教え子たちを破りやがって! 許せない、許せないぞ!


「おまえの言ったとおり、三億七千四百万円に比べりゃあ、十万円なんて端金だったよ」


 そう言って主犯格は、引き裂かれた教え子たちをためらうことなく……ウィーーーーーン、ジュルジュルジュルジュル……シュレッダーにかけた。


「「「「「アーーー、センセイ、助けてください、うわーーーーー……」」」」」


 そして事切れた。教え子たちは奈落の底に転落するように、暗黒のかなたに引きずり込まれて、フッと消えた。


 私は何もできなかった。やるせない気持ちで見ていることしかできなかった。このとき感じた自分自身に対する虚無感といったら尋常じゃない。断腸の思い。私に消化器官があったらとっくにそうしている。


 私たち紙幣は破損しても、面積が三分の二以上残る場合は全額を、五分の二以上三分の二未満残る場合は半額の価値を維持できる。銀行に持ち込めば、新しい壱万円札か五千円札にしてくれる。しかし、五分の二未満の場合はお金としての価値が無くなり、交換が不可能となる。それは私たちにとって死を意味する。シュレッダーにかけられてバラバラにされれば、復元する術はない。十枚の教え子たちは価値を喪失して落命したのである。


「おまえが生き長らえて警察にバラされては、こちとら困るわけだよ。素直に十万円を受け取っておけばよかったのになあ。残念だが、おまえには死んでもらうしかない」


「やれるもんならやってみろ。おまえにその勇気があればな。コソ泥が! 人様から金を盗んで、仲間からも分け前を搾取して盗んで……だが命は奪えるか? どうせおまえは小心者だろ」


「なにを小癪な! やっちまえ!」


「おいおい、手下に任せようってのが小心者だと言ってんだよ。やるならおまえが殺してみやがれ!」


 その瞬間、脳天に突き刺さるようなパンチを顔にくらって、労働者は卒倒する。


「ちっ、手を汚させやがって! おいっ、縄で縛って部屋に閉じ込めておけ!」


 こうして労働者は監禁される。しかし、あのまま黙っていたら、手下たちのなすがままにされて本当に殺されたかもしれない。機転を利かせた挑発のおかげで、彼は殴られても生き続け、警察が助けに来てくれるのを待つという一縷の望みを残した。


 もしかしたら彼は、隙をついて脱出する機会を狙っているのかもしれない。しかし労働者が閉じ込められたのは、四方をコンクリートの壁で塞がれた部屋。壁の上部に明かり取りの窓が一つあるが、鉄格子で仕切られ、人が通れる窓ではない。要するに密室である。


 一週間が経過する。一部の団員たちは新枚たちを連れて、沖縄にバカンスを過ごしに行った。どこに行って何にお金を使うにしろ、盗んだ新札を使えばすぐに足がついてお縄を頂戴されるはずだが、なせかそうならない。新枚たちは別の壱万円札と交換されてマネーロンダリングされたのか? いったい日本のどこにそういう場所があるんだ? ないことはないと思うが、割高なレートで交換されるだろう。純真無垢な教え子たちがそういう闇市に引き込まれるのは、想像するだけで身が震える。


 いっぽう大阪に残った大半の教え子たちは、アジトの金庫のなかで厳重に管理されている。この子たちだけでも無事に救出したい。


 しかし、私は今なおみすず銀行の封筒のなかにいて、キャリーバッグの奥底にある、チャックで仕切られた小さな収納スペースに入ったままだ。


 囚われの労働者を一週間も生かしたということは、主犯格がいよいよ妥協して、賃金の増額を認めるのかもしれない。口止め料を上乗せして。最初から労働者が納得のいく賃金を支払っておけばよかった。口止め料は賃金より高くつく。


 しかし労働者はそのことを知らない。何しろ彼が得ている情報は、窓から差し込む光で測るおよその時刻と、一日に数回トイレで用を足すために監視付きで部屋を出るときに見かける、外の様子だけだ。労働者と主犯格とのあいだには情報の非対称性がある。まさに囚人のジレンマだ。


 しかし労働者が知っていて、主犯格が知らない情報がひとつだけある。それは私がここに存在するという事実である。事件の当日、真の持ち主がみすず銀行の窓口で三.七億円を引き出す前に、ATMでポケットマネーの私を引き出して、キャリーバッグの奥底に収納する様子を、見張り役を務めた労働者だけが目撃していた。


 そして彼は一週間監禁されているあいだに、そのときの記憶を思い出していた。


「そうだ、あの壱万円札を使って……」


 労働者はトイレに行く際、監視役の隙をついてキャリーバッグを開き、奥の収納スペースをまさぐる。


「あった。よかった、あいつらには見つかってなかった……」


 そうだよ、私は見つかっていなかったよ。彼は急いで鉛筆を取り……


「おい! きさま、そこで何している!」


 しまった! 監視役に気づかれた。しかし労働者はやり切って、あとは天運に任せていた。


「この野郎!」


 彼は殴り倒されて、床に押さえつけられる。


「アニキ、アニキ! 来てください!」


「どうした、どうした!」


 主犯格をはじめ団員たちが慌ててやって来る。


「申し訳ありません、アニキ。私が目を離している隙に、こいつが金を盗み出そうとしていました。これです」


「なんだと?」


 主犯格は手渡された私を見て、監視役を叱るどころか、不敵な笑みで労働者を見下ろす。


「フッフッフッハハハ。なーんだ、おまえもただのドロボーじゃねーか」


 主犯格は胴を容赦なく踏みつける。グフッ。


「ギャハハハ、おまえも金が恋しくなったらしいな。この前はずいぶん偉そうなことを言ってくれたな! 人様から金を盗んで、仲間からも分け前を搾取して盗んで、だっけ? こっちはよお、せっかくおまえの男気に惚れて、大金を恵んで解放してやろうと思っていたのに!」


 ボコッ。頭を踏みつける。


「死ね! 死ね! 死ね! 死ねーーー!」


 執拗に踏みつけられて、労働者は気絶する。


「おい! そこのおまえ!」


「はっ、はい!」


「今からこの壱万円札を持って、ホームセンターでシャベルを買えるだけ買ってこい! 夜になったらこいつを始末するぞ! 生き埋めにするんだ! 何をモタモタしてる、さっさと行け!」


 お使いに手渡された私は、労働者を一瞥する。


 微動だにしない。彼は今夜のうちに殺されてしまうという。


 残された時間は少ない。彼は決死の覚悟で私に希望を託した。私は彼の期待に最大限応えなければならない。


 私はnote、覚書である。そう、労働者は先ほど私のウラ面の片隅に〈私が三.七億円強盗事件の犯人です〉という告発文を認めたのだ。覚書の宛先は空欄だが、このままいけばホームセンターの店員になるだろう。


 ああ、この使いパシリよ、どうかおっちょこちょいであってくれ。おまえだけはどうか覚書としての私に気づいてくれるな!


 おそらくはこれが私にとって生涯最後の仕事となるだろう。文字が書かれた壱万円札なんて、銀行に回収されたら真っ先に処分の対象になる。はあ、死というやつはある日突然やってくるものなんだあ。後悔がないと言えば嘘になる。遺書を認める時間もなかった。それが私の遺言である。

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