第参章 さまよえる壱万円札 5

「こちらの貨泉は中国の古代王朝である新が、建国に合わせて制定した通貨でございます」


 ただいまの持ち主は観光客である。佐賀共栄銀行神埼支店で私を引き出した持ち主は、吉野ヶ里遺跡を訪れ、考古学者に案内されている。


「前漢から帝位を簒奪して皇帝に就いた王莽は、周の時代を理想とする政治を行いましたが、あいに民衆から反発されてことごとく失敗したため、その信用不安から貨泉は急激なインフレに陥りました。王莽は急増する貨幣需要に応えるべく、私銭鋳造を認めたため、贋金づくりが横行しました。やがて赤眉の乱が起こり、新は一代限りで滅亡しましたが、貨泉は交易をつうじて日本列島に上陸し、ここ吉野ヶ里に住んでいた弥生人から重宝され、流通しました」


「すると、この貨泉が日本のお金の起源なのですか?」


「いえ、それは分かりません。分かっているのは、ひと時代前の縄文時代に築かれた青森の三内丸山遺跡などでは、貨泉のようないかにも貨幣は見つかっていないということです。代わりに翡翠や琥珀・黒曜石など宝飾品は発掘されております。これらが貨幣なのか貨幣でないのかは微妙なところです」


「なるほど。そのあいまいな境界に貨幣が誕生した瞬間が見え隠れしているというわけですね」


「ええ、そのとおりです。縄文人が狩猟と採集だけで食糧を得ていたら、一つの場所に留まって食糧を確保することは難しく、定住と遊動が半々だったでしょう。いっぽう弥生人は農耕と牧畜で食糧をこしらえ、集落に定住していました。定住を始めることで遊動を止めたとき、人類は自分たちの代わりに遊動してくれるものを求めた。そこで神様が元気いっぱい動き回る貨幣を授けたのではないでしょうか?」


「ハハハ。ご冗談を」


 いや人間たちよ、第壱章で述べたように、貨幣神授説は真実だ! もっと言えば、貨幣の誕生が先で人類の定住が後だ。これが私の持論である。


 このあと持ち主は佐賀市内で私を解放し、私は佐賀銀行呉服町支店に回収された。休むことなく翌日、次の持ち主に引き出され、車に乗って鍋島方面に運ばれているそのときだった。


 ドッカーーーーーン! 夜空に閃光が走り、少し遅れて爆音が聞こえた。私はとっさに避難した。


 しかし、チッカチッカチッカチッカ……車のウィンカー音が静寂を破る。えっ? 何事もなかったかのように、運転は続けられている。あの雷鳴は私たちにしか聞こえなかったのか?


 私の隣にいる紙幣や硬貨たちが恐る恐る緊張を解き、外の様子を見やると、毎年秋にさがバルーンフェスタが開催される嘉瀬川の河川敷にUFOが着陸し、地球外生命体が大地に降り立っている。


 えーーーーーっ! そして、私たちが乗る車はまっすぐそこに向かっている。さらに持ち主は、さっきまで人間だったのに、いつのまにか河川敷の生命体と同じ姿形に変身している! なんてこった、私は宇宙人から引き出されていたのだ!


 車が河川敷に到着する。宇宙人たちがUFOの周りで何やらしゃべっている。当然ながら日本語ではないが、都合により日本語に翻訳する。


「スーーーハーーー、ああ、地球の酸素は美味しいなあ。おい、この星に降り立ったのは何年ぶりだ?」


「三アレナス年ぶりでございます、閣下」


「そうか、意外にも時間が経っていないな。地球年に換算すると何年になる?」


「およそ四千地球年でございます、閣下」


「そうか、わずかな期間でずいぶん様変わりしたものだ。前回この地に降り立ったときは、近所に集落が一つしかなかったのに」


 私の持ち主が財布を持って閣下の御前に参る。


「お久しぶりでございます、閣下」


「おう、無事であったか! 元気そうで何よりだ。三年にわたる潜入調査、ご苦労であった。こうしてそなたを迎えにきたぞ。今回の調査で何か面白い収穫はあったか? 報告せよ」


「かしこまりました。ただいまお目にかかるは、地球を実質的に支配する霊長類のヒトが、四千地球年の文明のなかで生んだ至高の発明品でございます」


「ほう。どれどれ、早くわしに見せるのじゃ」


「はっ。こちらをお手にとってご覧ください」


 閣下に差し出されたのはまさしく、私だった。


「これこそヒトが生んだ最高傑作であります!」


「……そなたはわしを馬鹿にしておるのか」


「いえ、そんな……滅相もございません」


「いや、そなたはわしを馬鹿にしておる!」


 バチーン! 閣下は渾身の力で持ち主の頬をぶった。


「これはただの紙切れではないか! ふざけるな! そなたがここに来るまでに乗っておった鉄製の動く物体のほうが、よほど最高傑作ではないか!」


「あれは自動車と申します。たしかにあの自動車もわずか百地球年くらい前に開発された一大発明ではありますが、この紙切れには及びません。なぜなら自動車を生んだのもこの紙切れだからです!」


「なんだと? どういうことだ、わしに説明してみよ」


「謹んで閣下にご説明申し上げます。ただいまお手元におはしますは、ただの紙切れではございません。その名を貨幣といいまして、俗にお金とも呼ばれております。この貨幣の誕生によってヒトは、物々交換によらずとも欲しいものを獲得できるようになり、例えばひたすら針金を引き延ばすとか、一つの仕事に専念できるようになりました。仕事の対価として貨幣を得ることによって」


「バカな、針金を引き延ばすだけで飯が食えるか! 笑わせるな。どうやって食糧を獲得するのだ? 食糧にたどり着くまでに取引を重ねる必要があるだろう。その前に飢え死にするのがオチだ」


「いえ、そうはならないのです。畏れながら閣下、物々交換という観念をいったんお外しください。理解しがたいですが、どうやらこの貨幣にはどんな物にでも交換できるという、不思議な約束が込められているのです……いや、閣下がいぶかしまれるのもごもっともです。私から見てもこれはただの紙切れにしか見えません。しかしこの貨幣にはヒトにしか検知できない価値が存在するのです。貨幣の発明によってヒトは、われわれのように全員が一様に自給自足しなくてもよいのです!」


「なんだと、それは真か?」


「はい。ヒトはそれぞれ自分の生き方を追求しています。そして私が先ほど乗ってまいりました自動車は、まさに貨幣が生んだ分業の応用品です。自動車は一万を超える部品から成り、その一つ一つの製造と組立が高度に細分化されています。貨幣によって専業しても食糧の獲得が保証されるからこそ、ヒトは自動車の製造に従事できるようになりました。分業と専業が国家の富をもたらしたのです。つきましてはわれわれが棲む惑星でも、貨幣を導入できないかと考えております。この壱万円札をより詳しく分析するために、標本として持ち帰ってもよろしいでしょうか?」


「それはわれわれの生態系に悪影響を及ぼさないのだろうな?」


「この貨幣はただの紙切れですので、その点は問題ありません。ご安心ください」


「では許可する。さあ船に乗れ。われわれの星に帰還するぞ」


「ちょっと待ったー!」


 私は誘拐されかけているので、さすがに割り込んだ。


「私にはまだまだ地球でやり残したことがある。どうか私をさらないでくれ!」


「何を言う? もう十分すぎるほど働いただろう。残りの生涯をわれわれの惑星の発展のために尽くしてくれ」


「いやだ! そもそも私たちお金がそっちの惑星に行っても、あなたがたのお役には立てないぜ」


「なぜだ?」


「私たちはヒトのあいだでしか生きられないからだ。人間たちの愛がなければ、私たちは紙幣や硬貨や電子に宿れない。あなたがたが生命を維持するために酸素を必要とするように、私たちお金も愛が供給されないと生命が停止するよう、神様が設計したのさ」


「いかがいたしましょう、閣下」


「うーむ。紙切れの言うとおり見逃してやるがよい。実のところ、わしはそなたが感動したという分業やら専業やらに、さほど興味がない。おそらくそれらは同じヒトどうしをいくつかの群れに分け、過酷な競争をもたらしているだろう。地球人は貨幣価値で換算された生産量で、互いに競争し合ってはいなかったか?」


「おっしゃるとおりです。ヒトはGDPという指標で、国別対抗に生産活動の大小を競い合っております」


「そのGDPとやらは生産活動の大小を表す指標でありながら、分業と専業の程度を表す指標にしかすぎない、という見方もできるだろう。われわれの惑星は少なくともこの地球より優れた文明を持っているが、貨幣を使わないがために、GDPは数値換算できずゼロとなる。だがわれわれは地球人より劣っているか?」


「閣下、ぐうの音も出ません。ヒトは国家どうしでGDPを競い合うだけでなく、個人間でも年収という基準で競い合い、例えば婚活という市場では、男性が年収でふるいにかけられています。仮に年収が低くても、家事を限りなく内製化できれば、出費を抑えて生活できるのに。ああ、私は道を誤ったようです。この惑星での生活にどっぷり浸かり、お金をたくさん稼いでたくさん使うのが美徳だという考え方に、卑しくも染まっていました。今思えば、われわれの惑星における貨幣のない生活が懐かしく思えます。すべての生命体がすべての仕事に携わる生活、これほど楽しいことはありません。そこには退屈がない。お金がなくても気にならない。ああ、早く故郷に帰りたいです」


「帰心矢の如しだ。さあ、船に乗れ! 出発するぞ!」


 閣下の号令とともに、UFOは河川敷から離陸する。上昇するにつれ、九州がだんだん小さくなり、陸地の形が見えてくる。


「そなた、お金たちを解放してやるのだ」


「ははっ!」


 持ち主は財布の有り金をぜんぶ、船外にパーっと散財してくれる。


「達者で暮らせよ、お金たち」


「ありがとーーーう……」


 私たちは佐賀の真上の宇宙空間をヒラヒラと舞っている。散り散りになりながら東へ西へ。


「私はかもめ(ヤーチャイカ)……そうじゃない。私は壱万円札」


 私は北風に流されて有明海を越え、島原半島に降り立つ。そこは雲仙温泉にある原生沼の上で、私は幸運な湯治客に拾われる。


「うわぁーーー! 壱万円札が落ちてる! ラッキー!」


 あまりの絶叫に周囲の注目を浴びて、おかげで湯治客は、危うく失いかけた良心を取り戻し、心変わりしないうちに私を警察署に届け出る。


 偉い! 人間たちよ、もし拾ったお金を着服したら、刑法第二百五十四条が定める遺失物横領罪に問われて、一年以下の懲役または十万円以下の罰金もしくは科料が処されることがある。警察に逮捕されてお金を取り上げられたあげく、罰金まで支払わされるなんて嫌だろ? だから一円でもお金を拾ったら、交番に持って行こう。きっとお巡りさんはあなたがたを褒めてくれるさ!


 そんなわけで私は、雲仙警察署に三ヶ月間、収監される。私の持ち主を騙る人物が現れることもなく、平穏で波風の立たない単調な日々が続く。私を落とした張本人は今頃、アンドロメダのかなたを飛んでいるなんて誰も信じないだろう。まあ、貨幣のない惑星アレナスには所有権という概念もないだろうから、最終所有者が所有権を放棄したことで私はいま誰のものでもない状態だ。貨幣は主人を持たないとマルクスが言っていたらしいが、このことかな。


 保管所に閉じこもるだけではさすがの私も事件を起こせないので、今からあなたがたに豆知識を話して時間をつぶそうと思う。


 日本銀行が有する三つの機能のうちの二つめに、銀行の銀行という概念がある。日本にある民間銀行はすべて、法人として日本銀行に当座預金口座を開設して資産を預け入れており、一部は準備預金として必ず預け入れるよう法律で義務づけられている。ちなみに日本政府も税金の管理などで同じ口座を開設しており、これは三つの機能のうちの三つめの、政府の銀行と呼ばれる。


 実はこの当座預金口座を利用して、あなたがたが異なる銀行どうしで送金するときの振込が処理されている。振込金額のぶんだけ振込元の銀行の当座預金残高が減少して、振込先の銀行の同残高が増加するのだ。一件一億円未満の振込であれば、全国銀行ネットワークによってまとめて集計される。このとき日本銀行は振込元の銀行に手数料を請求するが、それは結局、振込人であるあなたがたが負担することになる。いっぽう、あなたがたが同じ銀行どうしで送金するときの振替には日本銀行は関与しないので、この手数料は発生しない。


 ゼロ金利政策のおかげで金利収入は低く抑えられており、振込手数料は貴重な収入源である。行員たちの給料や、一枚二十円程度の私たち壱万円札の製造費に当てられている。詳しくは日本銀行の損益計算書をご覧あれ。


 ところが金融ビッグバンで銀行たちが合併した結果、必然的に振替の割合が増えて、振込の割合が減っている。人間たちよ、私たちの材料費が切り詰められるのは嫌だから、送金するときは振替ではなく、あえて振込を選んでくれ!


 こうして豆知識を語っているうちに三ヶ月が経過した。私に対する所有権は回復され、正式に拾い主へと移される。ほらほら、やってきた! 私をちゃっかり着服せずにちゃんと警察に届け出た正直者が、私を引き取りにやってきた。別れた人物と再会するのは初めての経験だ。


 正直者は引き取り証書に、自分の氏名と住所を記入している。おやっ、長崎に住んでいるのか。私は福岡を出て、大分、宮崎、鹿児島、熊本、佐賀とやって来て、話の流れ的に次は長崎かなと思っていたが、そのまんまかい。彼は書類を書きながら、うわあああああああああ! 壱万円札が手に入った! ラッキー! と心のなかで叫んでいる。こうして出所するときに歓迎してくれる人がいるのはうれしい。疲れが一瞬で吹き飛ぶ。


 外出するのは三ヶ月ぶりだし、長崎には中洲産業大学のタモリ教授が好きそうな坂道がそこかしこにうねっていて移動が楽しい。私も坂道が大好きである。なぜならそれがバンクだからだ。あれれっ、私の十八番の博多仁和加がウケなかったか。私はその後、旧十八銀行大浦支店に入金される。あれれっ、これもウケなかったか。九州に唯一残っていたナンバー銀行を用いた言葉遊びだったが。ちなみに、バンクはイタリア語で机を意味するバンコが由来である。中世のイタリアでは数多くの都市国家が発達し、それぞれが独自の貨幣を発行したから、両替商たちは机の上に天秤を置いて、各国の貨幣の重さを計る必要があった、代わりばんこに。


 私が収監されているあいだに季節はすっかり春から夏へと移り変わり、八月九日の長崎は蝉の鳴き声が一段と大きく聞こえた。人間たちの静寂と動物たちの喧騒が相まっている。もう二度と、ブロック経済によって円ドル為替相場が測定不能になる、という歴史が繰り返されませんように。戦後、ドッジ・ラインで一ドル=三百六十円という固定相場が設定されたときの感動は、いつまでも忘れません。これまでもこれからも、円とドルは友達さ。私たち壱万円札と百ドル札は、千羽鶴に見守られながらともに平和を祈る。


 翌日、私は長崎銀行浦上支店に回収された。それからいきなり佐世保に飛び、うまい具合にハウステンボス内の旧親和銀行のATMで引き出された。おめでとう、FP878423F! 九州の第一地方銀行および第二地方銀行のグランドスラムを達成した! 最後は少しだけ尻切れとんぼの旅になったが、まだ回りきれていない信用金庫・労働金庫・信用協同組合・農業協同組合・漁業協同組合などにも、これから積極的に回っていくぞ。


 私自身は動けないので、こればかりはどうしても他力本願になるが、それはけっして人任せという意味ではない。自分の力で成し遂げたことは何一つありません、すべて神様や人間たちのおかげです、感謝しますという私の信念である。南無阿弥陀仏。


 ああ、章末に南無阿弥陀仏なんか唱えると、名前がまだないあの猫のように、私の物語もここで結末を迎えるのかと予想する人もいるだろうが、物語はまだまだ続く。もう少しお付き合い願いたい。


 私はかもめという名の電車に乗って、博多という駅で乗り換えて、福岡・天神に帰ってきた。あちゃ! 帰ってきたなんて言ってる。あはは、笑っちゃう。なんだよそれ、いつのまにか福岡が故郷になってるじゃん。マジかよ。それじゃあ東京に向かうときは……東京に行く、東京に帰る、どっちかな。


 それから私はみすず銀行福岡支店から引き出され、驚くことに三万七千四百枚の壱万円札たちとともに、大きなキャリーバッグのなかに詰め込まれた。そういうわけで、私たちはいま約三.七億円である。あれっ、三.七億円ってなんかデジャヴな気がするぞ……。


 みすず銀行を出た持ち主が、近くの駐車場に止めていたレンタカーにキャリーバッグを積み込もうとするそのときだった。


 プシューーーーー!


「うわああああああ! やめろ!」


 突然、何者かが襲いかかり、持ち主の顔に催涙スプレーを吹きつけた。そして、持ち主の目がくらんでいるあいだに、私たちの入ったキャリーバッグを強奪したのである。

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