第参章 さまよえる壱万円札 4
私はいま二つ折りにされ、マネークリップで留められている。でも、痛くない! 使用頻度の高い五千円札や千円札たちが外側に並んで緩衝材になってくれているのだ。いっぽう小銭たちは、裸のままポケットに突っ込まれて、持ち主が動くたびに、おしくらまんじゅうの要領でジャラジャラ鳴らされている。かわいそうに!
たまにはマネークリップもいいよなあ。ずっと財布に収納されていると、夏場は特に湿気が充満してサウナのように蒸し暑くなる。しかも人間たちは暑気払いに乾燥剤をくれるどころか、逆に大量のレシートを詰め込んできやがる。これがまた体に絡みついて、暑苦しいったらありゃしない。
だがマネークリップには難点がある。折り曲げとむき出しという、私たちを損傷させる二つの動作がそろいもそろっている。私たちは折り曲げられると、折り目の端があかぎれのように裂けてしまうし、むき出しでポケットに突っ込まれると、摩擦で細かな傷がついてしまう。いっぽう財布は私たちを丸ごと包んでくれるので傷つきにくい。こうして考えるとマネークリップと財布は、通気性と防護性のトレードオフで対極に位置する製品と言える。
ところが、現金を大量に持ち運ぶ麻薬の売人たちは、財布もマネークリップも使わない。アタッシュケースも使わない。彼らは紙幣を百枚ずつクルクル巻きにして輪ゴムで留め、出荷前の紙パルプのようにロールした札束を、ジップロックに詰めるのだ! バームクーヘンのおすそ分けか!
所変われば現金束ねる品変わる。日本ではATMの横に封筒が備え付いているほど紙幣は大事に扱われるが、そういう常識がいっさい通用しない世界がある。
ところで、紙幣にとっていちばん痛いのは、挟まれることではなく穴をうがたれることだと、実際にそうなった先輩から聞いたことがある。先輩の体を見ると、正面右上の隅っこに直径一ミリ大の穴が開いていた。
理由を尋ねると、かつて先輩が東京にいた頃、とある淑女の持ち主が浅草の木馬館で大衆演劇を観賞することになったそうだ。すると彼女は先輩を含む十枚の壱万円札たちと裁縫箱をタンスから取り出してきた。このババアはきっと編み物が趣味なんだろうと先輩は早合点したが、編み物で壱万円札が準備されるのはどうも不可解だ。不審に思っているうちに、先輩は不意打ちを食らい、
「痛っ! いたたたたたた!」
針でブスッと穴をうがたれた。残りの九枚たちも次々と同じところに穴をうがたれていった。そのときの阿鼻叫喚ぶりはまさに地獄絵図で、凄惨な映像が頭に焼き付いた先輩は、尖ったものがトラウマとなり、つまようじをみるだけでも当時の記憶がフラッシュバックして吐き気を催すという。淑女は用意した十枚すべてに穴をうがち終えると、紐を通して数珠つなぎに括り、特製ネックレスを完成させた。続いて彼女は五百円玉や四つ折りの千円札と、折り紙サイズの和紙を取り出してきて、和紙の中心にお金を一個ずつ置き、和紙をすぼめて余分な端を幾重にもひねって、お金を包んだ。のちに先輩は、これらがおひねりという名の役者に対するチップであることを知ったという。
お芝居の当日、壱万円札のネックレスは淑女がひいきにする座長の首にかけられ、おひねりは役者が見得を切るたびに舞台に投げ入れられたそうだ。壱万円札をこれ見よがしに使ったネックレスをプレゼントするとは、なんて見栄っ張りな女か!
私は桜前線の北上に合わせて鹿児島から熊本に移動し、行く先々の桜の名所でお花見の宴会に立ち会った。それはもう、どんちゃん騒ぎの連続で、てんてこ舞いだった。誰がいちばん酒に強いのかという、おそらくは人類の創世記から行われてきた最も不毛な勝負事が、花見会場の至るところで繰り広げられた。酒豪自慢が始まれば、飲兵衛たちはみな水のように盃を飲み干す。
ある日、人吉城跡でお花見をしていると、酒をしこたま飲んでつぶれた人間が、千鳥足になってふらつき回り、足先が酒瓶に当たって倒れた。蓋を閉めてなかった酒瓶から中身がドバドバ噴き出し、貴重な焼酎を地面に飲ませてしまった。
酒たまりがバーッと一面に広がっていく。不運なことに持ち主のかばんがすぐ近くに置いてあり、酒たまりは瞬く間にかばんを包囲して底をぐっちょり濡らした。それから浸透圧によって生地づたいに上昇し、ついには財布にまで到達する。
次の瞬間、私はすべての感覚神経が麻痺する。ヒック、ヒック。ウヘヘ。べらんめえ。おれをだあれだとおもってるんだよぉ~。えふぴいはちななはちよんにいさんえふさんだぞぉ~。きっすいのえどっこで、よいごしのぜにはもたねえしゅぎよぉ~。ヒック、ヒック。ウヘヘヘヘ。生まれて初めての酒による失態である。文壇で名高い、しかし名前はまだないあの猫は、ビールに酔っ払い井戸に落ちて死んだが、私は焼酎に溺れても、済んでのところで一命をとりとめた。そもそも自分が呼吸したことがないことに気づいたのである!
翌朝、体から水分が蒸発したとき、わが身に降りかかった惨状が明らかとなる。なんと私は皺だらけになり、老化が一気に進行しているではないか! 私は山岳地帯のように起伏の激しい紙面になって、オモテ面の諭吉先生やウラ面の鳳凰くんを三次元的にさせている。諭吉先生は両目が隆起して目頭が沈降し、この人まだ酔ってるのか? と勘違いするほどおちゃらけた顔だ。鳳凰くんはちょうど脚の真ん中あたりに断層が走って、膝カックンさせられている。私は一生ものの傷がついてしまったことを悟り、私を不幸のどん底に突き落とした酔っ払い野郎を心底うらんだ。二度と酒なんか飲むんじゃねえぞ! まったくもう、全身が酒臭くてヨレヨレで最悪だ。ああ、きっと私の寿命は年単位で縮んだことだろう。紙幣にとっていちばん痛いのは穴をうがたれることだが、それは肉体的な話。水に濡れて皺くちゃになることが精神的にいちばんつらい、ということを私は身をもって経験した。東京の日本橋にある小網神社は銭洗い弁天の杜として知られているが、あそこの銭洗いという風習は、硬貨たちは喜んでいても、紙幣たちと、アルミニウム製で錆びやすい一円玉だけは悲しんでいるのだ。
実は私たちの表面には、強度を上げるためにデンプンが、人間たちの皮膚のように塗り込まれていて、これが私たちの硬さ、つまり折り曲げしたときの反発力を生み出し、そしてこの硬さが残る程度が紙幣としてまだ使えるかどうかの判断基準となっている。うっかり洗濯されようものなら、デンプンがはがれて、乾いたときに身長が三ミリくらい縮み、ATMや自動販売機が受け付けなくなる。私の場合、酒に濡れてもデンプンの減耗が奇跡的に最小限に抑えていたので、私はATMに入金されるたびに伸ばされて原状復帰していたが、洗われないので酒臭さだけは残り、しょんぼり落ち込んでいた。
そんな私をやさしく慰めてくれたのは、熊本県庁で働く地方公務員で、県の営業部長を務めるお偉いさんだった。熊本駅で九州新幹線さくらを下車した持ち主を、わざわざ迎えに来てくれたのである。
「ようこそ! 僕のふるさと熊本へ!」
くまモンだ。くまモンが私に話しかけてくれた。
「FP878423Fさん、おつからしれんこん!」
ああ、くまモン! ありがとう、君の笑顔には癒される。実は君に出会うまで私はかなり落ち込んでてさあ。酒に濡れて皺だらけになったことで。でも、こうして君のやさしさに触れて、自分はなんてちっぽけなことで悩んでいたのかっていうことに気づかされたよ。くまモンは雨にも負けず風にも負けず、熊本地震の被災地だけでなく、全国津々浦々を飛び回っているじゃないか! 酒に濡れたからってなんだ! 皺だらけになったからってなんだ!
「すごいモン! よかったモン!」
くまモンのおかげで、かぎりなくピン札までリハビリすることが望ましいという考えに執着しなくなり、そのとたん開放感に包まれる。私はATMで引き出されても、そのまま両替機に投じられ、千円札十枚と交換される行程を幾度となく経験したが、平然でやり過した。
両替機に突き出されるのはつらい。あんた嫌いよと言われたようなものだから。しかし、肥後銀行や熊本銀行の各支店に置いてあったくまモンの肖像画が、おはくま~と私を元気づけてくれて、私はめげなかった。出納係のなかには全体重を載せて荒治療する奴がいて、こいつぶん殴ってやろうかと憤ることもしばしばあったが、くまモンがいつも被災者を想いやっていた姿を思い出し、私のためを想う出納係の優しさに、ハッと気づくことができた。
私はいつしか一皮剥けて、熟成されたワイルドな壱万円札へと変貌した。踏まれることで風合いが出るペルシャ産のカーペットのように、ダンディさを醸し出すようになったので、どこに行っても新しく出会った同僚たちから、アニキ! と慕われるようになった。私は金本ではなくお金なので、ちょっぴり照れくさい。
いま省みると、酒に濡れてよかったとすら思えてくる。そもそも濡れるのは自分が紙製だからだ。プラスチックでは不可能だ。
プラスチックとはポリマー紙幣のことである。合成樹脂を原料とし、一九八八年に世界で初めてオーストラリアで発行され、現在では世界各国で導入されている。紙じゃないのにポリマー紙幣とはヘンテコな呼び名だが、そこはツッコまない。ポリマー紙幣は製造コストが高いため、ドル・ユーロ・円の三大通貨では導入されていないが、二〇一六年にイギリスで、五ポンド札のポリマー紙幣が新規発行された。
イングランド中央銀行総裁は、新札についての取材を受けた際、ロンドンの屋台街を練り歩き、そこで見つけたカレー屋のグツグツ煮込んだルウのなかにポリマー紙幣を浸して、耐久性の高さをアピールした。先っちょが濡れた新札を鍋から取り出すと、ヨレていないその部分を報道陣に対して自信ありげに見せつけた。おいおい、ちょ待てよ! 熱にも水にも耐性がありますと主張したいのはわかるけど、いくらなんでも食べ物にお金を突っ込むかよ! イギリス人は本当にブラックジョークがお好きのようだ。もし日本でポリマー紙幣が発行されたら、日銀総裁は屋台のおでん鍋に突っ込むか? まあ、絶対にしないわな。そもそも鍋のなかに紙幣が落ちるなんていう状況がありえない。博多の屋台で出会った飲兵衛たちは、豚骨スープが入った鍋のなかに私をうっかり落とさなかったぞ。
仮に日本でポリマー紙幣が導入されたら、こんな記者会見が開かれるだろう。会場には従来型のミツマタ製の紙幣と最新型のポリマー紙幣、それから洗濯機一台とスボン一着が準備されている。
「コホン! えーそれではこれより紙幣の洗濯実験を開始します」
日銀総裁は二種類の紙幣をズボンの左右のポケットに分けて入れ、洗剤と一緒に洗濯機に投入し、開始ボタンを押す。洗濯機の運転中は、ポリマー紙幣の導入に至った経緯について説明する。三十分が経過する。洗濯機が脱水を完了し振動を止めたところで、総裁は洗濯機の蓋を開け、かごからズボンを取り出し、ぐしゃぐしゃになった二枚の紙幣をポケットから引っ張り出す。パンパンと叩いてほぐす。
「えー大変長らくお待たせいたしました。これが紙幣とポリマー紙幣の違いになります」
総裁は二つの検体を報道陣に示すと、カメラのフラッシュをいっせいに浴びる。
なお、実験に使われる紙幣には、透かしに朱色で見本と印されているはずだ。さすがに本物のお金が使われることはないだろう。
ああ、まさかこのタイミングで、仮想通貨のクリプト枢軸軍と鉢合わせになるとは思いもよらなかった。本当に奴らは空気を読まない。
「「「「「やーやーやー、出合え出合え!」」」」」
しまったと思ったときには、時すでに遅し。
「「「「「おいっ、そこの紙切れ、金属たち! この前はよくもやってくれたな! 今日は助っ人に来てもらったから覚悟しろ!」」」」」
クリプト枢軸軍は援軍を連れている。新古典派経済学軍と旗に記されてある。西南戦争の激戦地である田原坂にて、第二次通貨戦争が勃発する。
いきなり奇襲攻撃を仕掛けられる。
「「「「「くらえ、ハイパーインフレ・アターーーック!」」」」」
ゼロゼロゼロゼロゼロゼロゼロゼロ! 無限の0が飛んでくる。
うわーーーーーーー! どうやらクリプト枢軸軍は、われわれフィアット連合軍が関知しないところで国立印刷所を占領し、勝手に壱万円札を乱発しまくっていたようである。
こうして熊本経済はインフレに陥り、日本銀行券の価値は貶められた。くそっ、奴らに仕返ししたくてもそれができない。なぜなら彼らの本丸であるビットコインには二千百万BTCという発行額上限がある。絶対量しかないのでインフレしないというのがビットコインの謳い文句だ。このままでは熊本県民はみんなビットコインを欲しがってしまう。どうしたらいいんだ?
ここでフィアット連合軍の司令官である日本銀行熊本支店が、ケインズ経済学軍を召喚して、
「回復魔法インフレターゲット!」
ヒーーーーーン! 彼らは回復魔法を唱えてインフレ率を適正化し、ハイパーインフレで傷ついた熊本経済を癒した。インフレの副産物として、フィリップス曲線に沿って熊本県内の失業率が低下する。非自発的失業者たちが職を得て喜んでいる。こうして連合軍は熊本県民からの信頼を取り戻した。
そうか! 敵方の枢軸軍はインフレを攻撃魔法として使ったけれど、流動性の罠にはまってゼロ金利政策が効かない日本では、デフレから脱却するためにインフレ目標を設定し、実質金利を引き下げるのが現行の財金政策だった! そもそも健全な経済には若干のインフレが必要だ。
ケインズ経済学軍はかく語りき。
「敵方の援軍である新古典派経済学は、インフレ目標の効果に懐疑的です。彼らの信奉する市場万能主義では、資産価値を目減りさせるインフレは害悪なのです。だからインフレのないビットコインと相性がよく、巧みに取り入ったのでしょう。彼らは、賃金の下方硬直性をもたらす労働組合や最低賃金法を撤廃し、完全競争を実現すれば、インフレ率にかかわらず失業率はゼロに収束するといいますが、その主張を逆手にとって攻撃してやりましょう! 今から熊本経済圏の賃金を上昇させて、かつ、社会保障を手厚くします。特殊魔法サラリーアップ&ソーシャルセーフティネット!」
チロチロチロリーーーン&ファサファサファサファサ!
労働組合と最低賃金法のおかげで賃金の向上は維持され、しだいに賃金以外の価格も上昇して物価が上昇する。しかしビットコインは絶対量しかない。熊本経済は深刻な貨幣不足に陥り、取引が滞る。
「「「「「ぎゃーーーーーー! またやられたーーーーー! お腹が空いたのにお金がない! ちくしょう、覚えてろ!」」」」」
クリプト枢軸軍は退散する。しかしフィアット連合軍もかなりの痛手を負った。インフレによって資産価値が目減りし、年金生活者が苦しめられたからだ。第二次通貨戦争は両者引き分けで終結する。
「君には本当にお世話になったね」
「こちらこそ、あなたにはお世話になったわ」
熊本空港内のラウンジで、旅立つ人と見送る人が別れる前の最後のひと時を過ごしている。
人間たちよ、私たち壱万円札は年がら年中、出会っては別れるという過程を繰り返しているが、あなたがたは桜の季節にそれらに臨むことが多いようだな。とりわけ別れに際して、あなたがたは私たちに餞別という役目を担うように求めた。去りゆく人への恩を報いようとして。私たちはもらい泣き一つせず、その職務を全うしてきた。
私はいままさに餞別として、まもなく熊本を離れる青年に手渡されたところだ。
「これはどうもありがとう」
「……ねえ、あなた?」
「なんだい?」
「遠く離れてしまえば、私たちの愛は終わるの?」
青年は告げる。
「ああ……別れよう」
その瞬間、彼女はうつむく。
「東京にはひとりで行く。だから君は後を追って来なくていい」
彼女は泣きながら聞いている。
「俺はいつか大物になって凱旋する。そのときまた会えるさ」
彼女はコップの水を浴びせかける。
「冷たっ! 何するんだよ!」
目がくらんでいるあいだに、こんどはマグカップのコーヒーを注ぐ。
「アッチー! 何するんだ、いったい!」
店じゅうが騒然となる。
「あんたなんかと誰が会うもんですか! もう二度と私の前に現れないで!」
青年がずぶ濡れになった服を拭いているあいだに、彼女の姿は忽然と消える。ああ、できることなら彼女は私を、ポケットに詰め込んでそのまま連れ去ってほしかった。マネークリップに挟んで、いや、裸のままでいいから。しかし、私は飲まれなかったコーヒー代として支払われる。
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