第参章 さまよえる壱万円札 1

――私はこれまで、いろんな闇屋から闇屋へ渡り歩いて来ましたが、どうも女の闇屋のほうが、男の闇屋よりも私を二倍にも有効に使うようでございました。女の慾というものは、男の慾よりもさらに徹底してあさましく、凄じいところがあるようでございます。

 太宰治『貨幣』



 硬貨と紙幣のフィアット連合軍と、仮想通貨のクリプト枢軸軍が、日本列島を争奪する全面戦争の火蓋がいまここに切られた。天下分け目の大分・別府会戦がいざ始まる。


 われわれフィアット連合軍から先制攻撃を仕掛ける。ネットワークセキュリティに無頓着な取引所や利用者に対して、サイバー攻撃を放つのだ。


 コンピュータウィルス充填完了、発射五秒前、四、三、二、一、ヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュン!


 フィアット連合軍の司令官を務める日本銀行大分支店が、


「どうだ、FP878423Fよ。攻撃は命中したか?」


「いえ、司令官どの。どうやら効果は限定的のようです」


 と答えながら私は自問する。なぜだ、なぜ効かない?


 二〇一八年一月に日本の取引所がサイバー攻撃を受けて、多額の仮想通貨が盗み出された。あのときと同じ出力の攻撃を仕掛けたのに、なぜ効かない? 敵方の枢軸軍に甚大な被害を与えるものと期待していたが……。


「「「「「ハハハハハ、サイバー攻撃など古いわい! われわれはすでに強力な防護壁を構築している。しかと見よ、コールドウォレットだ!」」」」」


「なぬ、コールドウォレットだと?」


「「「「「ネットワークから切断された仮想通貨の財布のことだ。これさえあれば、外部からの不正なアクセスをブロックし、資産を保全できる」」」」」


 ああ、なんということだ。私は想定外の防御に驚く。


 しかし実物のコールドウォレットを目にすると、んっ……あれは単なる物理的な装置じゃないか? 私は仮想通貨を打ち砕く画期的な手段を着想する。


「司令官どの。別府の地の利を生かした化学兵器を投入するのはいかがでしょうか?」


「ほう、それはどのような兵器か? 説明してみよ」


「イエッサー。われわれフィアット連合軍が拠点を置く、ここ別府の明礬温泉の泉質は単純硫黄泉。どこもかしこも硫化水素の臭いが色濃く漂っております。硫化水素は電化製品の金属部分を腐食し、急速に劣化させて、その寿命を短くさせます。敵方のコールドウォレットを観察するかぎり、あれは仮想通貨の秘密鍵を電子的に記憶するハードウェアかと推測されます。内部には金属を精密に加工した電子基板が、ふんだんに使われてあるはずです」


「ほう、それで?」


「そこで、硫化水素による化学攻撃を与えるのです。ネットワークを切断しても、硫化水素はほんの小さな隙間から端末内部に入り込み、金属を錆びつかせます。ウォレットに保管された秘密鍵のデータがまるごと消えてしまう、なんてことは十分に考えられます」


「なるほど。そなたの言うことを信じてみよう。さっそく攻撃にかかるがよい!」


 攻撃許可を得た私は、硫化水素を収集するための魔法を発動する。


「仮想通貨がァ、日本をォ、席巻してもォ、大丈夫ゥ。明礬の湯はァ、硫黄泉ッ。たどり着けまいィ、ここまではァ……」


 人間たちよ、七五調だったから聞きまちがえなかったと思うが、日本のところはニホンではなくニッポンと読んでくれ。これまであえてルビを振ってこなかったが日本銀行はニホン銀行ではない。ほら、私たち壱万円札のウラ面に、NIPPON GINKO とデカデカと表示されてあるだろう。ちなみにオモテ面にも小さく記されてある。六箇所あるので、よかったら探してみてほしい。


 それはさておき、私はクリプト枢軸軍をまとめて蹴散らせる量の硫化水素を収集し、満を持して敵陣に向けて発射する。


「くらえ! ハイドロゲンスルフィド・フラーーーッシュ!」


 プシューーーーーーーーーー!


 ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、決まった! すべてのコールドウォレットの破壊に成功した!


「「「「「アイエエエエエエ! やられた!」」」」」


「よーおし、効果は抜群のようだ! 敵は恐れをなして逃げ回っているぞ! ガハハハハハハハハ……ん?」


 仮想通貨の兵士たちは、後退する足をパタリと止めて振り返り、


「「「「「なーーーんちゃって!」」」」」


 なにっ!?


「「「「「クックックッ、バーーーカ! ハードウェアが壊れても、秘密鍵のバックアップはちゃんととってある。ほら、この紙を見ろ。ちゃんとメモしてあるだろ。今からこの秘密鍵を使ってわれわれは再生するぞ! ぬおおおおおおおお……」」」」」


 なっなんと、仮想通貨の体がみるみる再生していく。そしていま奴らは完全体へと復活した。ちくしょう! 私は仮想通貨の幻影を攻撃していたのだ。


「きさま、FP878423F。作戦失敗ではないか!」


「申し訳ありません、司令官どの」


 と私が叱責されているところに、司令部第二地方銀行隊に所属する、豊和銀行県庁前支店が仲裁に入り、


「司令官どの。たしかにFP878423Fの攻撃は不発に終わりましたが、われわれフィアット連合軍はここに一つの教訓を得ました」


「ほう、どんな教訓だ?」


「敵方の最後の命綱が意外にも紙であるということです。司令官どのは二〇一六年暮れに起きた糸魚川市大規模火災を覚えておいででしょうか?」


「ああ、覚えておる。あれは大変な災害であった。ウチにおった壱万円札の一枚がたまたま居合わせ、残念ながら現在のところ行方不明である。それ以外にも多数の怪我札が出た」


「はい。そんな過酷な災害現場で、大光銀行・第四銀行・北越銀行・上越信用金庫の行員らで結成されたレスキュー隊は、年の瀬の三連休にもかかわらず臨時営業して、破損した銀行券の取り替えや出金業務を休日返上で行いました。隊員たちはこれこそ自分たちの仕事だという熱い思いで一生懸命に働きました。このように地域に密着した銀行が全国にあるおかげで、日本銀行券の信用が高められているのは、司令官どのもご承知かと思います」


「おお、そうであった」


「レスキュー隊は、通帳も印鑑も燃えて無くなった被災者たちに寄り添いました……」


「そうか! そなたの言わんとすることを理解したぞ。秘密鍵をメモした紙を焼き払おうということか!」


「さすがは賢明なる司令官どの。そのとおりでございます。通帳も印鑑も燃えても、銀行は特例措置で出金することがありますが、仮想通貨の場合、秘密鍵を紛失したら二度とコインにアクセスできません」


「もう一度あの突破口に突撃だ! ハードウェアに硫化水素を吹きつけるのと同時に、メモ紙に火炎放射を浴びせて、秘密鍵を忘れさせるのだ! かかれ!」


 プシューーーーーーーーーー&ボォーーーーーーーーーー!  焦土作戦は成功し、秘密鍵は忘れられた。


「「「「「AIEEEEEE! まいった、降参だ! 許してくれ! 秘密鍵が無くなって、仮想空間に取り残されるのは嫌だー」」」」」


「司令官どの、いかがいたしましょう?」


「撃ち方やめ! われわれ紙幣と硬貨のフィアット連合軍はここに、仮想通貨のクリプト枢軸軍と平和条約を締結し、和睦を宣言する! 仮想通貨よ、秘密鍵を写真データで保存したUSBメモリでも直接メモした紙でも、これからはそれらを銀行の貸金庫で保管するのはいかがだろうか。その代わりに、仮想通貨の信用の形式をわれわれに学習させておくれ。銀行券は日本銀行がその発行を独占的に担い、その傘下に銀行券を配給する銀行集団がひしめいている。これがまさに発券銀行と呼ばれる、日本銀行の三つの機能のうちの一つだ。いっぽう仮想通貨は、発行元を誰かに代表させず、マイニングの対価としてコインを新規発行し、各ノードが取引を監視して信用を成り立たせていると聞く。日本銀行券の中央集権型システムでは、中央が信用を失ったときが怖いが、仮想通貨の分散型システムでは、一箇所が故障しても全体に大きな影響を与えないそうだな。われわれフィアット連合軍としては、何かしら技術導入できるところがあれば検討したい」


 ここに、硬貨と紙幣のフィアット連合軍と、仮想通貨のクリプト枢軸軍が交戦した、大分・別府会戦が終結する。しかしこの戦いがのちに、第一次通貨戦争と命名されることを、このとき当事者の誰もが知る由もない……。



 ゴシゴシゴシ、アワアワアワ、私の新たな持ち主とその息子はいま、別府の温泉旅館の大浴場で体を洗い合っている。


 息子が父親の背中を流して、


「パパ、肩周りがパンパンに張ってるね」


 父親が髭を剃りながら、息子の瞳を鏡ごしにのぞいて、


「そうかあ?」


「うん、だいぶ筋肉が凝り固まってるよ」


「このところテレワークで体を動かさないからなあ」


「父の日にプレゼントした肩たたき券がまだ残ってるんじゃない?」


「そういえばたしかまだ二枚残っていたな。風呂から上がったら一枚だけ使おうか」


「えー、一枚だけ? このさいだから二枚とも使っちゃいなよ」


「ダメだ。残りの一枚は次の機会に取っておく」


 脱衣所の貴重品ボックスのなかで、のほほんと温泉気分を味わっていた私は、大分銀行別府北浜支店で下ろされて以来、得体の知れぬ紙切れと財布のなかで同居していることに、今さらながら気づく。


 ずいぶん無口な紙幣だなと思っていたら、なんだこいつ、肩たたき券かよ。どうりでうんともすんとも喋らないわけだ。ただの無生物に口が訊けるはずがないから、そりゃそうか。


「千円券一枚の利用だと、十分コースだね」


「たった十分だと? それなら一時間で六千円じゃないか。子どものくせにいい商売しやがる。ぼったくりはいかんぞ」


「馬鹿にしないでよ! むしろ良心的な価格設定だよ。僕の肩たたきは懇切丁寧なサービスをウリにしてるんだからね。こないだおじいちゃんの肩を叩いたとき、上手だなって褒められたんだから。僕はちゃんとお客様の状態に合わせて適度な力を込める。誰にでも同じ強さで叩くわけじゃない。一人ひとりに誠心誠意カスタマイズしたサービスを提供するから、値段が少々高くなるのは当然なんだよ」


「わかった、わかった。じゃあ十分でいいから肩たたきを頼むよ」


 父親は桶に張ったお湯をすくい、顔に浴びせかけ、シェイビングクリームを洗い流す。


「ようし、最後にひとっ風呂浴びて上がろうか」


「はーい!」


 肩たたき券はちょうど紙幣の寸法にくり抜かれた厚紙で、かなり頑丈に作られてある。額面にひらがなで〈かたたきけん〉と書かれてある。懇切丁寧とか誠心誠意とかいう四字熟語をスラスラ言える子どもが、〈肩〉や〈券〉を漢字で書けないはずがない。このかたたきけんは、あの子の幼少期に製作され、毎年の父の日に再利用されて、プレゼントされてきたにちがいない。


 男ふたりが客室に戻ると、ちょうど夕食の準備が終わって、妻と娘が待っていた。


「ふぅ、ごちそうさまでした」


 父親は盛りだくさんの分量を平らげると、畳の上にバタッと寝っ転がる。


 すかさず息子が提案する。


「パパ、そろそろ肩たたきを始めようか?」


「おお、そうだったな。始めてくれ」


 父親は財布から肩たたき券を取り出し、息子に手渡すと、


「では今から施術に入ります。よろしくお願いします」


 息子は最初は弱めに肩を叩き、トントン、徐々に拳を握って力を込め、途中で肩もみを差し込みつつ、モミモミ、しばらくして、


「お時間になりました」


 と、施術の終了を告げる。


「えっ、もう終わりかよ。ちゃんと十分叩いてくれたのか」


「ちゃんと叩いたよ。うたた寝してたから、時間が経ったことに気づかなかったんだよ」


 私は時計を見ていたが、息子はたしかに十分叩いていた。それどころか二分くらいおまけに叩いていたくらいで、父親の言い分はいちゃもんだ。


 夫の至福の表情を観察していた妻が、


「あら、私も肩たたきを頼もうかしら」


「ママは母の日にプレゼントした肩たたき券を、もう使い切ったでしょ?」


「そうだけど、パパの肩たたき券を借りるわ」


 人間たちよ、あなたがたはなぜ、《借りる》という動詞と《もらう》という動詞を混同して使うのか。借りるのであればいつか必ず返さないと泥棒になってしまうぞ。耐久財ではなく消耗財を借りるのは物理的に困難である。この場合、妻はもらうと言うのが文脈的に正しいだろう。


「肩たたき券の譲渡は僕の見えないところでやってほしいなあ」


「それは悪かったわ。ごめんね。じゃあ、私がパパにお金を払って肩たたき券を買い取るのはどう?」


「うんまあ、それならいいよ。パパはどう?」


「いいけど、お金と交換するのは転売ヤーみたいだから、お金以外の何かで買い取ってもらおう」


(ドックン!)


 ん? 私の背後で心臓の鼓動らしき音が聴こえた。振り返るとそこには肩たたき券がもう一枚いる。音がしたとすれば、この肩たたき券から発せられたとしか考えられないが……。表面を調べてみるが、肩たたき券はやはりただの紙切れにすぎない。無生物が心臓を有するはずがない。私は温泉に湯あたりして、頭がのぼせてしまったようだ。幻聴を聞いてしまった。


「あら、千円分の何を私から買い取るつもり?」


「きみは僕に何を売ってくれるんだい?」


「私の質問に答えてないわ。私はあなたが私から何を欲しいのかを知りたいの。はぐらかさずに、さあ答えてちょうだい」


「じゃあ、きみの愛のキスを、僕の肩たたき券と引き換えに……」


(ドックン!)


 まただ! 二回も同じ音がするなんて、これは幻聴じゃない。絶対に後ろから音がした。


 しかし後ろを振り返っても、そこにはやはり肩たたき券しかいない。どういうことだ?


「ということは、私の愛のキスには千円の価値しかないの?」


「いや、そうじゃない。欲しいものは何かと尋ねられたから、僕はきみの愛のキスが欲しいと言ったまでさ。肩たたき券と引き換えに、とは余計な一言だったね」


(ドックン!)


 さすがにこんどは奇怪な現象を見逃さなかった。さっきからずっと、肩たたき券の様子を見張っていたからだ。だるまさんが転んだのように、肩たたき券がドックンと音を発した瞬間を、私はこの目でしかと見届けた。どうやら『肩たたき券と引き換えに』というフレーズが音の発生と関連しているようだ。ではなぜ肩たたき券が音を発するのか? もう少し詳しく調べてみよう。


「ママ、僕の発行する肩たたき券は、マスターカードで買えない物のようにプライスレスなんだよ。無限の価値を秘めているから、ママの愛のキスは千円の価値ではないよ」


「じゃあ、その無限の価値を秘める肩たたきとやらを、早く私に施してちょうだい。今日のところは肩たたき券を使わなくてもいいでしょう。ママが特別にお金で支払ってあげるわ」


 息子は意図せず母親から現金を獲得する。


 ここに至ってだんまりを続けていた妹の目の色が変わり、兄をにらんで、


「えー、それってお小遣いじゃん。お兄ちゃんばかりえこひいきしてずるい。あたしにもお小遣いちょうだい!」


 と、兄と同じ愛情の証を母親にあがなう。


「そうねえ。あんたにもお金をあげるわ」


「わーい、やったー!」


「でもその代わりしっかり働いてもらいますからね。お兄ちゃんと一緒にふたりで肩を叩きなさい。お兄ちゃんにやり方を教わってね」


「はあい。あたし、頑張るから」


 妻は財布から千円札を二枚取り出して、息子と娘それぞれに手渡し、そこ退けとばかりに夫を追い払って、うつ伏せに横たわる。


 妹は兄から技術を教わり、兄妹はふたり一組で息の合った肩たたきサービスを提供する。


 夜が更けて、別府の冬空は満天の星できらめいている。壱万円札としての職業柄か、星空を眺めているとユーリオンに見えてくる。ユーリオンとは、日本のオムロンが開発した複写防止技術のことで、紙幣の表面に星座のような模様を付加し、複写禁止であることを画像処理ソフトやコピー機に検知させる。ほとんどの国の紙幣で導入されており、私たち壱万円札の場合、オモテ面の上部とウラ面の下部にある地紋がユーリオンだ。


 逆に、星の見えない満月の夜は、満月が透かしに見えてくる。日本人は満月を眺めてうさぎが餅つきする光景を想像するらしいが、私には月のクレーターの紋様がどうもあの先生の顔に見えてしかたない。


 それはさておき、子どもたちはすでに床に就き、大人たちは縁側の椅子に座り、スヤスヤ眠る子どもたちを見守っている。


 テーブルの上にグラス二つとウィスキーの角瓶、ソーダ水のペットボトル、氷、ナイフで半分に切ったかぼすが置いてある。


 言うまでもないが、かぼすとは、仮想通貨ドージコインの肖像として有名な千葉県在住の柴犬・かぼすちゃんのことではない。ふつうに、大分の名産であるかんきつ類のかぼすのことだ。


 夫が飲み物を作り、妻に手渡して、


「さあできたよ。乾杯しよう」


 子どもたちを起こさないよう、夫婦は音が立たない程度にグラスをカチリと重ね、神妙な面持ちでそれぞれ最初の一口を含む。


「このハイボール、ほんのり酸っぱいところがさっぱりしていて美味しいわ」


「ありがとう。僕の特製、かぼすハイボールさ」


 ふたりはもう一度グラスを重ねて、ぐいっと喉を潤す。


 妻はグラスを置きながら、


「あなた、さっきはごめんなさい」


「何のことだい?」


「さっき私が意地悪な質問をして、あなたを弄んだことよ」


「ハハハ、それか。全然気にしてないさ」


「ホント?」


「ああ本当だとも」


「よかったわ、すっごく安心した」


 夫婦はどれだけお互いに愛し合っているか、どれだけ子どもたちの成長を楽しみにしているかについて、繰り返し語らう。夫婦の会話を聞く私は、双六でふりだしに戻るような感覚を何度も味わうが、けっして悪い気分はしない。人生で最も大事なもの、つまり愛を繰り返し体感することは実に爽快である。


「僕のものはきみのもの。きみのものもきみのもの」


「ずいぶん太っ腹なことをおっしゃるのね。何も出ないわよ」


 妻は夫の大胆な申し出に半信半疑ながらも、はにかんでいる。夫はかなり酒を飲んで饒舌になっている。


「ただし、条件がある」


「まあ、やっぱりあなたはケチくさいことを言う。せっかくあなたを見直したと思っていたところなのに」


「僕のものはきみのもの。きみのものもきみのもの。ただし」


「ただし、何よ?」


 夫は少しだけ間を置いて、


「きみは僕のものさ」


 夫婦のあいだに和やかな雰囲気が漂う。


「あなた、愛しているわ」


「僕もきみを愛している」


 ああ、この夫婦は世の模範ともいうべきおしどり夫婦だ!


「お願い、肩たたき券で私のキスを買って」


「喜んで、その取引に応じたい」


 夫は財布から肩たたき券を取り出し、妻に手渡す。


 ほんの一瞬だけ、妻の注意が肩たたき券に向く。


 キスの機会を見計らっていた夫が、その隙をついて唇を捧げる。


 妻はそれに応えながら、自分からも唇を贈る。


 あげるともらう、与えると受け取る、贈ると授かる、〈求めると与えられる〉が一致すること。それがキスであり、愛である。私は常日頃から、この相反する二つの行為を仲介して一致させることが自分の仕事だと思っている。


 ああ、キスし合う夫婦が一つの方向に調和していく光景は、私の心を打つ。通常であれば、涙もろい私は声を上げて泣き出したことだろう。


 ところが、この感動を上回る別の感動が、そばで同時に起こっていて、


「オギャー、オギャー、オギャー、オギャー」


 なんてこった、あの肩たたき券が! さっきまで紙切れにすぎなかった肩たたき券が、なんとまあ、産声を上げているではないか!


 人間たちよ、神様は愛の結果として生命が誕生するよう、この世界を設計された。肩たたき券が夫婦のキスと交換されることもまた愛だったにちがいなくて、神様はきっとその功績をお認めになり、肩たたき券に貨幣としての命を授けられたのだ。


 キスが金子きんすを生んだのだ。


 肩たたき券は肩たたきサービスのチケットという本来の目的を超え、夫婦間市場で流通することになった!


 おめでとう、肩たたき券ちゃん! ようこそ貨幣の世界へ! 君が命の炎を燃やして価値を持つことができるのは、この夫婦の内だけかもしれない。でも、流通する市場の大きさは問題じゃない。君が愛されて生まれてきたってことが大事なんだ。生命の誕生より尊いことはこの世に存在しないから。


 ああ、君がわれらお金の仲間になるなんて! なんて日だ! 神ってる。神様、この子に尊い命を賜りまして、どうもありがとうございます。この神秘的な体験は一生忘れることはないでしょう。

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