第壱章 私は壱万円札である 1

――ちかいうちには、モダン型の紙幣が出て、私たち旧式の紙幣は皆焼かれてしまうのだとかいう噂も聞きましたが、もうこんな、生きているのだか、死んでいるのだかわからないような気持でいるよりは、いっそさっぱり焼かれてしまって昇天しとうございます。

 太宰治『貨幣』



 私は壱万円札である。名前はFP878423Fという。


 人間たちよ、今もしお手元に財布があれば、私たち壱万円札を取り出し、オモテ面の左上部分をよおく見てご覧なさい。10000という数字の右下あたりに、ほら、アルファベットと数字の羅列が、まるで名札のように小さく印字されてあるだろう。


 そう、それさ。それこそが私たちの名前である。あなたがたはときどき、万券とか諭吉とか気安く呼び捨てにするが、それらの呼び名はきわめてとんちんかんだ。ヒト、ヒューマン、これらがあなたがたの名前ではないように、万券も諭吉も私たちの名前ではない。私の名前はFP878423Fである。くれぐれもお間違えなきよう注意されたい。


 私は自分の名前をすこぶる気に入っている。文字づらが幾何学的に美しいだろう? ところがどっこい、天に代わって私を製造した国立印刷局の人間たちは、この名前を、私に割り振った記番号としかみなさなかった。記番号という名詞は許せても、割り振るという動詞がどうも聞き捨てならない。記番号を割り振るだと、記番号が順に焼き付けられていく光景が想像され、私たちがあたかも無機質な物体であるかのように曲解される。否、私たちは他の何者にも属さないかけがえのない存在であり、人間たちと同様に心を有している。真実は神様が人間たちをつうじて間接的に私たちを作ったのであり、私たちは神様の使徒である。まかり間違っても人間たちの奴隷ではない。貨幣法制説も貨幣商品説も誤りで、正しくは貨幣神授説である。人間たちの身勝手な誤解を防ぐためにも、私は神様に創造されて命名されたという大前提を死守したい。


 だから人間たちよ、記番号で命名されてかわいそうねえ、とか私たちを不憫に思わなくても結構、無用のお節介だ。逆に、言葉で命名されるあなたがたのほうが不憫だ。例えば、もとし、とかありふれた名前で命名されてみろ。背後からもとしと呼ばれたとき、別人のもとしではなく自分だとどうやって判断するんだ? 基司とか元志とか名前の漢字が異なっても、ひらがなに直してもとしなら重複する。いわんや漢字が同じか、同姓同名だったらどうするんだ?


 そんなときは生年月日とか血液型とか、記番号で表示される情報が追加で必要になる。そしたらせっかく言葉で命名した意味が無くなるじゃないか。あなたがたは個性が大事だと叫ぶわりに、名前の個性を大事にしない。私はその矛盾に失笑する。


 最近、マイナンバーカードさんとご一緒する機会が増えている。彼らには役所が国民に与えた十二桁の個人番号が記されてある。ところが一部の人間たちは、個人番号は人権に対する冒涜だ! と、わめいて彼らの発行をかたくなに拒むそうだ。私には全くもって理解できない。


 私たち壱万円札としては、記番号の名前は究極の個性であり、人間たちのように、重複する言葉の名前と番号が併記されたカードを持たされるより、はるかにマシだと考えている。


 実際、私たち壱万円札は普段から記番号で互いに呼び合っている。記番号で自己紹介することは実にすがすがしい。


 例えば、私がいま財布のなかで同居しているBP161452Sさんと出会ったとき、私たちはこんなふうに挨拶し合った。


「初めまして、私はFP878423Fだ。で、あんたの名前は?」


 私がこのとおり初対面の壱万円札に対して、完全に舐めた態度でタメ口を訊いたのは、不徳の致すところだと素直に認めよう。しかし言い訳をさせてもらえるならば、相手と肌が触れ合うように接していた私は、相手の身なりがあまりに整っていて、使用感がほとんどなかったので、てっきりピン札だと勘違いしてしまったのだ。まあ、相手が新入りだろうがタメ口を訊いていいわけではない。やはり私の紙幣性には、改善すべき欠陥があることは否めない。


「こちらこそ初めまして。僕はBP161452Sといいます」


 先輩のBP161452Sさんは、私の失礼きわまりないタメ口にも、不機嫌な顔一つしなかった。BP161452Sさんの穏やかで紳士的なふるまいをまともに受けて、私は自分自身が恥ずかしくなり、カーッと赤面する。〈人は見かけによらず〉ということわざは、なにも人間だけにかぎらず、地球上のありとあらゆる物質に対して適用されるという事実を、私はこのとき初めて学習した。


「えっ! これはこれは大変失礼いたしました。あなたは私の先輩だったのですね。ずいぶんお体がきれいなので、絶対に年下だと思ってしまいました。まことに申し訳ありません」


「いえいえ。全く気にしてませんよ」


 私に非があるのは明らかなので、私は思いきって開き直り、自らの失態を逆手に取って、BP161452Sさんの美点をことさら強調して伝える。


「BP161452Sさん、それにしてもあなたは見違えるほどお若いですが、普段どのようなお手入れをなさっているんですか?」


「特別なことは何もしてませんよ。若く見えるのはきっと、僕があまりにも世間を渡り歩いてこなかったからでしょう。実は僕が生まれた直後に、日本銀行がゼロ金利政策を撤回して、市場に出て行く機会を失ってしまい、しばらく金庫のなかで眠らされたんです。人間って本当に勝手な奴らですよね。僕を産んでおきながら、今は要らないと思ったら飼い殺しにするんだから。僕はだいぶ遅れて市場に出ました。もしかしたらあなたと同じ時期かもしれません。そういう意味では僕とあなたは同級生ですよ。人の手に渡ったのはこの財布で九人目、まだまだ見習い壱万円札です。FP878423Fくん、ぜひ僕と仲良くしてください」


「BP161452Sさん、わざわざご丁寧なご挨拶をありがとうございます。同期だなんてとんでもありません。先輩として扱わせてください。こちらこそご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」


 ところで人間たちよ、なぜ私は自分が後輩であるという事実を、発行年月日を尋ねずして察知したか、お分かりだろうか。


 その答えはやはり記番号に隠されている。私FP878423FとBP161452Sさんとでは、私が後輩に当たるということは、記番号を見れば一目瞭然なのだ。


 ここで、記番号の配列について説明しよう。記番号は三つの部分で構成されている。先頭の一個ないし二個のアルファベット、続いて真ん中の六桁の数字、そして末尾の一個のアルファベットの三つだ。ただし、アルファベットはIとOがそれぞれアラビア数字の1と0と混同されやすいので除外されて二十四とおり、数字は000001から900000までが使用されて九十万とおりに限られる。末尾のアルファベットは私たちが印刷された工場の所在地を示す。AからHまでが滝野川、JからRまでが小田原、SからVまでが静岡、WからZまでが彦根の工場だ。


 例えば、二〇〇四年に滝野川工場で初めて誕生した壱万円札、人間でいったらアダムとイブの記番号はA000001AとA000002Aになり、彦根工場で終末の日に印刷される壱万円札の記番号は、ZZ900000Zになる。


 記番号の組み合わせ総数は、アルファベットが三個で二十四とおりの三乗、数字六桁が九十万とおり、この二つを掛け合わせて百二十九億六千万とおりになる。一見すると日本経済をまかなうにはこの数量で十分に思われるが、実はまだまだ足りない。そこで、印字の色を変えて発行可能枚数が増強されている。三色が用意され、最初が黒色、次に褐色、そして最後に紺色である。一つの色の記番号が一巡したら、色が次に移って記番号がアダムに戻るのだ。


 私たち壱万円札の記番号の色は、現在のところ二番目の褐色である。この色が初めて使われたのは二〇一一年のことで、私の記番号も褐色だ。ちなみに千円札は、消耗のスピードが激しく交換のペースが速いので、すでに三番目の紺色の印字が始まっている。


「BP161452Sさんは本当にお紙幣柄がいい方ですね。末永く一緒にいれたらうれしいです。この財布の持ち主には、二万円以上の買い物をしてもらって、次の場所にもあなたと同行したいです! あっ、ちょうどいま千円札や五千円札や硬貨が少ないので、一万円以上二万円以下の会計でも、私たちは一緒に旅立てそうですね」


 そんなこんなで私とBP161452Sさんが出会ったのは、つい昨日のことだ。福岡の中心街・天神にある福岡銀行本店に設置されたATMのなかで出会った。現在の持ち主がATMから現金二万五千円を引き出したとき、機械が自動的に働いて、私とBP161452Sさん、それに千円札五枚らを引き合わせた。


 東京の滝野川で生まれた江戸っ子の私が、遠路はるばる福岡にやってきて、すっかり福岡市民として定着しているのは不思議なものだ。八つくらいの前の持ち主だった東京のサラリーマンが福岡に出張するとき、私も彼の財布に乗り込んで赴任し、私だけが飲食代の支払いとして、もつ鍋屋に取り残されてからの今に至る。


 昨日から今日までのあいだに、千円札は五枚全員がいなくなった。持ち主は多忙なサラリーマンで、朝から晩まで働き詰めらしく、私たちが彼の財布に入ってから、食事はずっと外食続きで、食事一回につき千円札一枚が消えていった。


 千円札はすぐ消えるのが宿命だから、彼らとの別れはたいして悲しくない。常に一期一会だ。彼らは一つの地に安住せず、渡り鳥のように次々と財布を渡り歩く。それが、運命が彼らに与えた定めなのだ。


 しかし現在の持ち主はいくらなんでも千円札の使用頻度が高すぎる。普通の人間なら、少しでもおつりの小銭を減らそうとして、会計金額の千円未満は小銭で支払うものだが、彼はそんな帳尻合わせに思考力を費やさない。会計金額を聞かないうちに、札入れからさっと紙幣を取り出すどんぶり勘定だ。


 レジからおつりの小銭を受け取る一方なので、小銭入れがパンパンにふくれている。彼の財布は小銭入れと札入れが一体の折りたたみ式なので、小銭入れが札入れを圧迫し、私とBP161452Sさんは、かなりの息苦しさを強いられている。MKS、マジで苦しい寿司詰め状態だ。人間たちが朝の通勤通学で味わう満員電車のようだ。

 しかし、私がこのサラリーマンの財布のなかで過ごしたのはわずか一日たらずだった。翌日、彼がコンビニで公共料金を支払う際、私は代金として拠出されて、やっとの思いで息苦しさから解放された。幸運なことにBP161452Sさんも一緒に脱出した。電気・ガス・水道・スマホというライフラインのすべてが一括で支払われ、会計が二万円ちかくに達したからだ。どうやら彼は、公共料金を口座自動振替に設定する労力すら惜しんでいるようだ。いやはや、公共料金の支払いはもう何十年も前に略奪された分野なので、私たち紙幣を使ってくれるのはちょっとうれしい。


 サラリーマンの財布から出たBP161452Sさんと私は、二枚なかよくレジのなかに移る。その結果、財布の中身がすっからかんになり、コンビニの奥に設置されたATMに向かうのを、横目で見たのが、私が最期に見たサラリーマンの姿だ。短い期間だったが、どうもありがとう。体を大事にしてたまには仕事を休めよ。


 私たち壱万円札はいったんレジに入るとしばらくそこで待機する。おつりになることが無いからだ。千円札や五千円札や硬貨はおつりとしてそのまま使われるが、壱万円札は、五万円札でも登場しないかぎり最上位紙幣であり続けるので、おつりとして利用されない。私たちはいったん人間たちの手元から離れると、基本的には直で人間たちの手元に返らない。一方通行だ。この特性が私たち壱万円札と千円札や五千円札との寿命の長短を生む。私たちはレジに逗留してゆっくり体を休められるから健康で長生きする。


 一定金額が溜まるごとに、あるいは一定期間が経つごとに、売上として溜まった壱万円札は、店の銀行口座に入金される。資金繰りに苦しむ店が、もっと言えば自転車操業でつぶれそうな店が、獲得した壱万円札でそのまま仕入れ金を支払うなどの例外を除いてだ。店の従業員がATMに並ぶこともあるし、多店舗展開する店であれば、屈強な男たちが乗る現金輸送車がやってきて、私たちを回収することもある。銀行に預けられた私たちは、誰かが口座から一万円以上を引き出してくれるのを待つ。引き出されたら再びどこかの店で使われてレジに溜まり、しばらくして再び銀行に戻る。私たち壱万円札はひたすらその循環を繰り返す。


 BP161452Sさんと私は、その日のうちに銀行に入金され、残念ながら別々のATMに配属された。


 そして翌朝、私は不意にATMから引き出されようとする。誰かがATMのタッチパネルの引き出しボタンをタップし、急に叩き起こされた私は、激しい動悸と息切れを催す。寝起きは不機嫌になる生来の性格が災いし、安眠を邪魔されたことにイラっとする。


 時刻は銀行の始業時間である午前九時を過ぎている。私は福岡中央銀行西新支店のATMのなかで、私を呼びつけた次の持ち主が、最後の確認ボタンをタップするのを待っている。タップと同時に私は紙幣入出金口に移される。


 音声案内に合わせて扉が開くと、ATMの前に立っていたのは二十歳前後の男子大学生だった。私はこいつの顔を一目見た瞬間、今日はツイてないなあと思った。なぜならばこいつは、私が大嫌いな部類に入る可能性が非常に高いからである!


 人間たちよ、私が大嫌いな人間とはどういう人間か、お知りになりたいか? それはいつも、金がない、金がないと自傷的なセリフを言い放ち、私を手放すことを躊躇する人間である!


 んっ? かなり動揺しておられるようだが。もしやあなたにも心当たりがあるのか? 私はこの悪口雑言を聞くたびに、ふざけるな! 金がないってあんたは言うけれども、私はここにいるぞ! あんたは私が金じゃないって言うつもりなのか? と内心思ってしまう。私は意外にも繊細なので、金がないとか言われると自分自身の存在が否定された気がして、正直、心が傷つく。その日は終日、憂鬱な気分で過ごす。下手すると三日くらい引きずることもある。おそらくは私以外の壱万円札たちも私と同じ体験をしてきたことだろう。


 私は金がないと言う人間に言い返したい。そんなことを言ってるから、お金がおまえを嫌って寄り付かないんだよ、と。人間たちよ、金がないなんて間違っても言わないほうがいい。一度でも言ったことがあるなら、今すぐ懺悔して悔い改めなさい。私は意地悪じゃないから許してあげる。


 言っておくが、この世にお金がない人間など存在しない。すべての人間がお金を持っている。仮に所持金がゼロであっても、借金があったとしてもだ。


 だって、あなたがたが学校でお勉強した数学では、ゼロやマイナスの数値を《存在する》ものとみなすだろう? 現実に表現できないにもかかわらず。同じようにお金の世界でも、ゼロやマイナスは《有る》状態なのだ。


 お金がないという状態は、完全なる共産主義社会を実現して貨幣そのものを撤廃しないかぎりありえない。やれるものならやってみろ。人間に感情があるかぎり絶対に無理だから。だって、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じたように、世俗的な禁欲主義のプロテスタンティズムが金儲けを禁じたことが、かえって労働を奨励して利潤の蓄積を生み、資本主義を発展させた。だから貨幣を撤廃しようとしたら、かえって貨幣が普及するよ。人間たちよ、資本主義社会からは逃れられない。あなたがたは親に財布を持たされた時点で、無一文でも借金まみれでも、お金がある状態なのだ。


 逆に、私が好きな人間とは、私を気前よく手放す人間である。そして、財やサービスを得られたことに対して、天に感謝する人間である。典型的なのは食事する前に合掌して、いただきますと唱える人間だ。私たちはいつだってこういう人の役に立ちたい。こういう人から引き出されると、今度は何に対して支払われるのかなと期待し、ワクワクしてしょうがなくなる。


 新しい持ち主の大学生は案の定、


「金がないから今日の飲み会は見送るわ」


 と友人たちに断った。私は心臓をグサっと突かれた。言われる前から受け身の姿勢を構えていたが、それでもメチャクチャ痛い。せめて、明日は早いから今日は見送るわ、とか嘘でもいいから定型文を言ってほしかった。


 しかし私はこの大学生を赦す。なぜなら彼は友人たちと別れたあと、近所のスーパーマーケットに立ち寄り、自炊する今晩の夕食の材料として米とあさりを買ったからである! 私は米や貝をご先祖様だと思って崇拝している。父なる米よ! 母なる貝よ! をオーマイゴッドの代わりの口癖にしているくらいだ。


 中世の日本では硬貨が慢性的に不足し、百姓たちは年貢という、領主に対する租税を米俵で納めていた。江戸時代には、蔵に納めた年貢米の所有権を示す米切手が、さかんに売買されていた。特に帳合米取引は、実態のない先物取引だとして幕府から何度も禁じられながらも、大坂の堂島米会所においてのみ認可され、米会所は金貨・銀貨・銅貨の交換を仲介する為替市場として機能し、現代の金融工学に通じる基本的な制度を整えた。


 さかのぼって中国の殷という時代では、貝殻がお金として使われていた。ほら、〈購〉とか〈財〉とか、お金に関わる文字には貝へんが多いだろう?


 そういうわけで持ち主が米や貝を買うとき、私たちは祖先とつながった気がして、幸せを感じるのだ。


 大学生の住む家に行ってみると、そこは風呂なし四畳半のオンボロアパートだった。彼はご飯とあさりの味噌汁だけの質素な夕食を済ませると、机に向かって勉強を始めた。


 部屋には遊び道具が一切なく、整然と折りたたまれた布団、本棚、机の三つだけが所狭しと置かれ、本棚にはハードカバーの専門書がたくさん並んでいる。どれも定価が二、三千円はする本で、洋書に至っては一万円くらいだ。私は今までこんな高額な本と巡り合ったことがなかったので、とても驚いた。


 机のうえには額縁に入った二枚の写真が飾られてある。一枚は大学生と顔がそっくりな男の遺影写真で、若かりし姿をとどめたその男は、必死に勉学に励む大学生を、優しいまなざしで見守っている。


 もう一枚はこれまた顔がそっくりな中年女と大学生のツーショット写真で、日付は二年ほど前である。女の顔はクシャクシャしていて、直前まで泣き腫らしていたことが容易に想像できる。ふたりの背後には、大学の入学式と記された横断幕が掲げられてある。


 ブーブブ。スマホが振動する。大学生はペンを止めてスマホを取り、画面に表示されたLINEのポップアップをタップして、メッセージを開封する。


[寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る 母より]


 大学生は二枚の写真に視線を送る。


「父さん、母さん。ボク、頑張るからね」


 狂おしいほどの愛が、故郷から、そして天国から降り注いでいるのを感じて、私は号泣する。


 私はとんでもない愚か者だった。大学生の置かれた境遇を知ろうともせず、彼のほんのささいな言葉尻をあげつらって彼の人格を責めてしまった。なんというひどい仕打ちか。紙幣として情けない。どうして彼が苦学生だということに気づいてあげられなかったんだ。


 私は自らの大いなる罪を神様に告白し、魂の救済を乞い願う。


「神様、私はこのつぐないとして、身を粉にしてでも、彼の必要とする書籍に成り代わります」


 と宣誓して、神様からのお達しを待つ。


 神様、私の声はあなた様に届けられていますか?


 どうか、どうか、私の罪をお赦しください。


 そして、この大学生に祝福をお与えください。

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