第4話

 彼女はやけに素直に肯いて両手を挙げたまま固まった。然しそのシャキッとした姿勢と、ぬいぐるみでも分かる顎を引いた様子に患者側は圧を感じた。少し退いたのが判る。

 医者は状況を見守る事しか出来ない。ただ患者が怯えている事に対し、ヱマにアドバイスをやった。

『意識を前に出すとアバターを越える事があります。そのまま彼を抑えつけておいてください』

 然し興奮状態の人間は怯えると何をするか分からない。それは獣でも同じだ。

『危険性はないのか』

『大丈夫です。かなり前に一度現役の警察官に協力してもらった事があるのですが、その時彼は怯えて完全に動きを止めていました。後からデータを見てみると、恐怖心で意識がアバターより奥に行ってしまって、メタバース内では身体を動かす事が出来ないようです』

 医者の言葉にヱマは息を吐いた。

「やけにデータが揃ってんな」

 プライベートチャットでもオープンチャットでもない、意識のなかの独り言だった。彼女は医者のきな臭さを感じながらも、ぐっと患者を睨みつけた。

 メタバース内から一瞬で消えた南美は、一旦リアルの肉体に戻ってきた。戻った際の生理現象で大きく息を吸い込む、まるで水中から顔を出した時のように、大きく吸い込んだ。

「南美さん、行けますよ」

 エンジニアから静かな声があり、小さく肯いてから呼吸を整えた。一度リアルに戻ってから再度意識移動をするのはストレスがかかる、眉根を寄せてメタバース内にログインし直した。

「お前、公安みたいだな」

 不意に呟かれた言葉に折れた耳が揺れた。患者は疲れたような顔をしていた。アバターの表情筋が僅かに乏しくなっている、それだけ意識が奥に引っ込んでいるのだろう。

「警察とか、五月雨とかとは違う、エリートみたいな感じの……」

 自分の気持ちをどうにか言語化しようとしている、それに集中して銃身が下がった。

 チャンスだと経験が叫んだ。ヱマは咄嗟に走り出し、患者が気がつくよりも先に右手で銃身を押さえ付けた。そして同時に南美のアバターが再ログインした。

 患者越しに水色の眼と白色の眼が合った。両者共に意識が前に出ており、アバターがチラついてリアルの姿が半分程見えていた。

 ヱマはしまったと思い、南美は驚いた。だがそのまま彼女は銃を奪い取り、彼は背後から首に腕を巻き付け、強制ログアウトの印を患者のアバターに押し付けた。一瞬にしてアバターに赤い文字が表示され、ぽんっと消滅した。

 医者は後を追うようにメタバース内から消えており、残されたのはヱマと南美の二人だけだった。銃は所有者がログアウトした為、ノイズにまみれながら消えた。

「……琉生さん、貴方、」

 然しヱマは何も言わずにログアウトをし、ぽんっとアバターごと消えてしまった。南美はあっと声を漏らしたあと、渋々メタバースから離れた。

 患者の意識は現実に戻ってきたが、医者の事を酷く怖がっていた。ヱマと南美が対面する時とは明らかに違い、医者の今までの言動から察するに、彼をモルモット扱いしていた可能性が出てきた。

 怯えて動けなくなるというデータがあるのなら、それをやってでもさっさと連れ戻せば良かったのに……そう妙な不信感を覚えながらも、患者がどうして学会のアバターを知っていたのかを調べる事になった。

 とは言っても彼が動いていた痕跡はない。然しネット上での友人関係に、学会に参加した事がある若い医者がいた。

「あるとすれば、内部の人間が情報を流してたって線か……けどメリットねぇだろ。あの患者に学会のアバターがどんなデザインかなんて教えたところで」

 一先ず事務所に戻り、ソファに脚を投げ出しながら言った。頭の後ろで手を組んで寝転がる様子に、南美は電子タバコの電源を入れた。

「んー、多分豆知識程度に教えたんやと思いますよ。患者の彼はアバターと学会で自分のデータが使われてる事以外、知らんようでしたし」

「若い医者の情報はこっちにも送られてんだよな?」

 頭上に来た南美を見上げる。それに肯いた。あの医者が患者をモルモット扱いしていた事実を刃に全ての情報を渡すように言ったので、十分探れるだけのものは揃っている。

「まあ依頼は終えましたし金も貰いましたから、私的にはこれ以上追わんでもいいとは思いますけどね」

 ただBLACK BLACKに繋がっているのなら話は別だ。今のところそれらしい単語も匂わせもないが、若い医者のSNSアカウントを見ると無関係ではないように思えた。

「……俺の趣味情報収集だから、気が済むまでやってみるわ。単純に気になるしな」

 南美から送られたデータをざっと見渡したヱマは、そう言いながら軽やかに立ち上がった。その時、彼はもう一つの視界で彼女を見た。

 琉生ヱマの情報には不自然な点が幾つかある。二十四歳以前の情報が大雑把で、何かを隠しているようにも見えた。またIDの桁数が一般人のものより多い、だから政府側の人間だった事は確かだ。

 異常な身体能力と精神力、そしてバカなようでいて嫌に冷静沈着な一面を持つ……どう考えても現場を知っている奴の出で立ちだ。

「今日これからバイトあるし、また明日来るわ」

 軽く手を挙げて背を向ける。オニユリの描かれたスカジャンを見つめ、白い煙を吐き出した。

 若い医者の名前はハル。苗字は偽で分かっていない。年齢は二十七歳と若手だ。

 精神科医であり、神奈川県にある病院に勤めている。両親は特別仲が悪い訳でも良い訳でもない。普通の家庭でこれと言った問題は見当たらなかった。

 成績は今のところ優秀であり、患者からの評判もいい。看護師や同業者からもいい人だと言われているらしく、好青年だという噂だ。

「ヱマちゃん、その人知ってるんだ」

 バイト先で休憩していると少し年下のバイト仲間が覗き込んできた。外部デバイスからネットに接続しており、ハルのSNSアカウントをざっと見ている最中だった。

「最近知ったんだよ。有名なのか?」

 くるっと椅子を回転させて振り向く。バイト仲間は化粧ポーチを取り出しながら答えた。

「まあまあ有名じゃないかなあ。悪い意味でね」

 彼のアカウントは全てユーザーネームで本名であるハルという名前は使われていなかった。だが一度間違えてそのユーザーネームで学会にログインした痕跡があり、そこから特定された。勿論表には出ていない。

「迷惑系インフルエンサー、みたいな感じか?」

 彼女の問いにバイト仲間は鏡を見つめた。そこまで崩れていないのに何を治すのだろう、それに顔面全てが義体化しているから化粧したところで意味はない。

「そそ。なんかプライドの高い奴って感じでさあ。“BLACK BLACKに入ってるって話もあるよ”」

 聞き覚えのある名前を復唱する。然し店長が顔を出して、「休憩終わりだぞお前ら」と気だるげに言い捨てた。

 ヱマは南美がBLACK BLACKを気にしている事は知っている。捜査一課の刑事が不良グループの少年達を相手にしていたのはそれなりに有名で目立つ事柄だったからだ。

 だが彼が何を追っているかまでは知らないし、そもそも殺された警察官が彼のバディだった事も知らない。彼女程の立場だと末端の警察官がどういう関係性だったのか細かく知る必要はないし、まず届きもしない。

 その為ハルという男がBLACK BLACKのメンバーだと言う証拠を見ても、南美に伝える事はしなかった。満足してから送りつければいいだろうと、ヱマは判断したのだ。

 が、十一月四日午前七時、真依ハルという二十七歳の精神科医が変死体として発見された。丁度ヱマがBLACK BLACKのメンバーだという確証を得始めた頃だった。

 発見されたのは神奈川県横浜市の海岸付近。死亡推定時刻は深夜の三時二十分程で、死亡した後に海に落とされた。服装は私服であり、義体化していた首の一部が焼かれたように故障していた。

 外傷はなく死因は“恐らく”薬物によるものだと報道された。ニュースサイトや番組はそこまでしか報じなかったが、ネット上では「BLACK BLACKが関与している」と騒ぎ始めた。

「タイミング的に、偶然とは思えませんね」

 南美の低い言葉にヱマは眉根を寄せた

「俺らの周りに誰かいるのか、それとも何かしらのプログラムを仕組まれたか……」

 どちらにせよ、BLACK BLACKの影がすぐ近くにいるのは確かだ。偶然にしてはおかしいし、報道の仕方も不自然だった。

「変に動かん方がいいでしょう。琉生さんはこれ以上、情報を探らんようにお願いします」

 南美の忠告に肯いた、彼女としても危険な行為は避けたい。だが同時に調べられるチャンスでもあった。

 またバイトだと言って事務所を出たあと、行きつけのぼっちカフェに入った。個室式のカフェで、本を借りる事も出来る。

 一番奥の個室に入り、一先ずコーヒーを一杯頼んだ。それから電脳内にある一つの連絡先を使い、とある人物に通話を持ちかけた。

「おはようございます。堺井組長」

 外部デバイスを経由し実際の音声で通話をする、少々手間はかかるが負担は少なくデータも残りづらい方法だ。相手の声は電脳に直接届く。

『おはようさん。ヱマちゃん。どないしたん』

 相手は指定暴力団堺井組組長。公安と繋がりがあるという噂があり、近畿地方最大の暴力団組織だ。

「今朝のニュース見ました? 俺、あのハルっていう人物を追ってたんですけど」

 淡々とした彼女の声に堺井は近所にいるおじさんのような調子で軽快に肯いた。

『見たでえ。BLACK BLACKの関係者やろ』

 流石に知っているかと息を吐き、話を進めた。

「こういう事情があって追ってたんです。そしたら変な殺され方をした」

 南美の名前は伏せたが、ヱマが自身の目的の為に何でも屋の手伝いをしている事は堺井も知っている。その一件で起こった事だという彼女の言葉に、『なるほどなあ』とたんの絡んだ声を出した。

『その辺を調べてほしいっちゅー事か?』

「はい」

 堺井は声を唸らせ、渋い反応を見せた。

『難しい話やなあ。お前の元の職場に話通してもええけど、正味そんぐらいで動いてくれるとは思わんし。俺らやって派手には動けんしなあ』

 ヱマは「分かってます」と食い気味に言い、言葉を続けた。

「裏社会から軽く探りを入れてもらえれば十分です。それにいるんすよね、BLACK BLACKに入ってる組員が」

 ふっと声のトーンを低くすると、堺井は一拍おいてから笑った。

『流石やなあヱマちゃんは。そこまでバレとるんならしゃーないな。ほんでもBLACK BLACKを探ったところで、お前が追っとる奴は出てこんと思うで』

 コーヒーの入ったマグカップに手を伸ばし、軽く言った。

「全く関係がないとも言いきれねえでしょ。洗えるもんは全部洗うんですよ」

 ずずっという啜り上げる音に堺井は鼻で笑い、『まあやるだけやるわ』と彼女の要望を受け入れた。

 ハルの変死体事件はそれ以降ニュースにはならなかった。あるとすればネット上のまとめサイトや信ぴょう性の低いサイトからのみで、後はユーザー間の噂話のようなものだった。

 BLACK BLACKは規模が大きくなりすぎて、誰がメンバーなのかどのぐらいの数がいるのか、一切把握出来ていない。またネット、メタバースを中心としているせいで全貌が掴みづらく、匿名のアカウントも多くある。いつの間にか権力者がそこに居た、という可能性だって十分にあり得る。

 南美としては沖田を殺し自分を傷つけた猿の青年を追いかけたい……だが元刑事というだけのただの何でも屋には危険性の高い組織になってしまった。これなら辞めずにいれば良かったが、BLACK BLACKに対する警察の対応はここ近年で緩くなっている。刑事を続けていたとしても、今度は上からの圧力で動けずにいたかも知れない。

 彼は表では触れないようにしたが、裏ではある人物と直接会って仕事を依頼していた。奇しくもヱマと似たような内容の仕事を。

「久しぶりだな南美」

 現れたのはモデルのような体型の女で、彼の旧友でもある。

「久しぶり」

 ヱマや他の人間に対する態度とは打って変わって、南美の表情は冷たく突っぱねたものになっていた。旧友の女は彼の素が酷く淡々としたものだと知っているので、特に気にもせず笑顔を見せた。

「それで、仕事ってなんだ?」

 東京都某所にある放置された空き地は管理者が不明のままであり、ネットワークが繋がらない。所謂圏外エリアという場所で、電脳に疲れた人がふらりと現れる事もあれば、コールを奏でるような輩が集まる事もある。

 そして彼らのように、絶対に証拠を残したくないホンモノの連中が取引に使う場合だってある。電脳世界に取り残されたバグのようなものだ。

「ふうん。なるほどな。分かった。暫く君達の周りを探ってみよう。けどその新しい相棒には伝えたのか?」

 南美はかぶりを振った。

「信用できん」

「ならなぜ一緒にいる? その子、鬼な」

「田嶋」

 ぐんっと声を低くして彼女の名前を呼んだ。誰が設置したのか分からない古ぼけたベンチに座ったまま、彼の双眸は氷のように冷たく刺した。

 田嶋は両手を見せて肩を落とした。

「すまん」

 それに視線を逸らした。田嶋は狼の尻尾を軽く揺らし、一先ず肯いた。

「詮索はよそう。とにかく何人かをつけて様子を見る」

「ありがとう。金は幾らいる」

 懐から外部デバイスを取り出した。電子マネーのアプリと電子口座のアプリを立ち上げた。然し田嶋は否定した。

「金は不要だ」

 驚いて顔をあげる。

「幾らなんでもタダって訳にはいかんやろ。大和の力を……」

 デバイスを片手に立ち上がった。高いヒールを履いているが、田嶋の身長はそこまで高くはない。彼を見上げたあと視線をおとした。

「実は、BLACK BLACKから圧力がかかり始めていてな。大和と五月雨は政府公認とは言え独立している。そのお陰で私も五月雨の総裁もBLACK BLACKに対して動けているのだが、それもそろそろ難しくなってきた」

「もう警察の方は上層部に脅しがかかっている。例の変死体に関する報道が不自然なのはそのせいだ」

「まだギリギリ保っているのは我々特殊部隊と公安のみ……だが時間の問題でな。私としてはなるべく時間を稼いで、どうにかBLACK BLACKを潰す糸口を掴もうと思っている」

 田嶋の説明に南美は納得した。

「それで金がいらん、と」

「ああ。もうあの組織はただの非行集団ではない。本物の反社会的勢力だ。だから南美、無理はするなよ。絶対に私を頼れ」

 とんっと白い手がスーツの胸元に当てられた。南美は「勿論」と短く言って、その場から逃げるようにして背中を向けた。

「……レッド、琉生ヱマの動向を探れ」

 いつから繋げていたのか、電脳内の特殊無線に対して命令を下した。短い返事にざっと靴底を鳴らす。

「絶対に南美だけは死なせない」

 唸るような声を絞り出し、圏外エリアから離れた。

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