TSノート

RAKE

TSノート、ゲットだぜ

いつもの高校の帰り道、俺、有村裕紀人ありむらゆきとは公園に生い茂る雑草の中にピンク色のノートの影を見た。


なんとなく気になって拾い上げ、表紙を見てみると、そこにはTSノートと書かれていた。

奇妙なことに、表はピンクで裏表紙は水色になっている。

それがなにを示唆しているのか、全く分からなかったが、ふと好奇心に駆られ、中を覗いてみる。

「ん~?」

しかし、俺の予想と裏腹。ノートには区切り線も何の記述もなく、空白が広がるのみだった。

背景色が中間部分までピンク色で後半から水色のこと以外、特に普通のノートと変わりはない。


特別な力でも宿しているのかと若干期待してしまった自分を殴ってやりたい。

だがしかし、オタク知識に豊富な俺は、つい昔見たアニメを思い出し、そのノートを家へ持って帰った。

名前とか書いたらなんか起きたりしないかな、という若干の期待を胸に抱きながら。


♦♦♦♦♦♦

「さて」

自室に戻り、TSノートを机の上に丁重に置き、改めてまじまじと観察する。

う~む。万が一、自分の名前を書いて死んでしまったりしたら事だ。ここは無難に誰か身代わりの名前を使うべきだろう。


有村由香ありむらゆか、これでよし」

妹を生贄に使うなど兄として非道の行為だとは思うが致し方ない。

俺には友人が少ないのだ。大丈夫だ、別にノートが真っ黒なわけでもないんだし、流石に死んだりしないはず。


なにが起こるのか胸を躍らせながら待っていると、数瞬後、リビングから野太い叫び声が聞こえてきた。


次いで、どたどたと階段を駆け上がる音が響き、物凄い勢いでドアが蹴破られる。

「ぎゃぁああ! なによこの体! 声もおかしいし、もうどうなってるの!?」

目の前に、毛の多い、筋肉質の男が、女性もののぴっちぴっちの服を着て地団太を踏んで狼狽している。


あまりに突飛な出来事に一瞬、思考が彼方に吹き飛ぶが、直ぐに平静を取り戻し、一旦頭の中を整理してから、深呼吸。努めて冷静に大男に問いかけた。

「ど、どちら様で?」

「は!? 何言ってるのよ馬鹿兄ばかにぃ。ギャルゲのやりすぎで頭おかしくなったんじゃないの? 」

「えーっと……」

うん。これはどういうことだ?

まさかこれが我が愛すべき妹。由香の成れの果てとでもいうのか?

いや、いやいやいやいや。

ないないないないない。


家の妹は珍しい地毛の茶髪をツインテールにした、可憐さと兄に対する横暴が調律した奇跡の人だぞ。


流石に人違いだろう。

ボディビルダーもかくやの筋骨隆々の肉体、男にしては長すぎる髪、仮に由香だとしてもなんかこう、違うはずだ。たぶん。凶暴なところ以外(ボソッ)

「あの、本当にどちら様で?」

「は? 馬鹿兄なに寝ぼけてんの? 有村由香。獅子丸中学二年。11月11日生まれ、××県、●●市生まれの、あんたの妹でしょ」

「……お前、が由香だと? え、ほんとにぃ?」

「だからさっきからそう言ってるでしょ! 宿題やってたら急にこんな体になったのよ! もうマジ意味わかんない」

俺の前で泣き言を言って頭を掻きむしり、ご立腹の筋骨隆々の大男。これが由香。これが由香。


っフ。なるほど。

俺は分かってしまったぞ。TSノートがなんたるかが。

仮に、この大男が本当に由香だとするのならば叫び声を上げたタイミングは信憑性が高い。なんせ、大男が俺の部屋に突入してきたのはノートに由香の名前を記入した矢先の事だったからな。


「TS、つまり性転換ノートか」

未だ疑念を抱きながらも改めて仮説を立てる。となると水色の表紙は男性を表し、ピンク色の裏表紙は女性を表す。とかだろうか。

よし、試しに確認してみるか。


「おい、大男。お前今すぐ服を脱げ」

「……は?」

突然の要求に、目を丸くする大男。まあ無理もないか。

「隙あり!」

「きゃっ」

俺は呆然としたまま固まる大男の間隙を縫い、纏っているぴちぴちのホットパンツを剥いだ。露になる、引き締まった肉体。


そして、ぴちぴちの下着からも分かるもっこり具合。

睨んだ通り。これは正真正銘、男の体だ!

「馬鹿兄! この変態!」

「ぐはあァ」

大男からシャレにならない拳骨を貰う。

こ、この膂力。やはり間違いなく男の体だ。


「あれ、ちょ、ちょっとやりすぎた? お~い。馬鹿兄、大丈夫?」

俺があまりの痛みに床で悶絶していると、上から覗き込むようにして心配してくる大男。


これが元の由香の姿ならトキメいた所だろうが、むしろその状態でそれをされると心臓が止まりそうになる。


「す、すまん大男ゆか。今、元に戻すぞ」

俺は這う這うの体で椅子に腰を掛け、未だ痛みに震える手で、TSノートに書かれた有村由香の文字を消しゴムで消す。シャーペンで書いておいて良かったぜ。睨んだ通り、大男の体が眩い光に包まれた。

「うぉ」

思わず閉じた瞳をゆっくりと開き、視界が戻るとそこには俺のよく知る妹。由香の姿があった。ツインテールが無残にも解かれて、後ろ髪が宙に舞っているのはご愛敬だ。


「ふう」

「……ねえ?」

ホッと安堵の息を吐いたのも束の間、禍々しい気配に戦きながら背後を見やると、ハイライトのない瞳で、由香が俺の机を覗き込んでいた。


「このTSノートってなに?」

「それはですね……」

「なに?」

無言の笑みで尚も圧力を掛けてくる由香。

諦めの境地に至った俺は、ここに至るまでの経緯をあらいざらい説明した。


「ふ~ん。それで、馬鹿兄はあ? 自分の名前も書かずに、私の事を生贄にして、このノートの効能を実験した、と」

「……はい」

正座させられ、妹に説教されながら、居たたまれなくなり目を背ける。

「なに? 私が死にかけてもいいと思ったわけ?」

「いや、そういうわけじゃなくて、ね?」

「なに、まさか好奇心に駆られて勢いで書いたとでも言いたいわけ」

「……テヘ」

誤魔化しの意味を込め、頬に人差し指を当てて俺は渾身のウインクを敢行した。

「1ミリも可愛くないんだよこの馬鹿兄貴がぁぁぁ」

「ぐふォォォ」

由香の渾身の蹴りツッコミを鳩尾に受け、そのまま後ろに倒れ込み、意識が遠のきそうになる。


「まったく。これだから馬鹿兄は。今度アイス奢りなさいよね」

「お、仰せのままに」

こうして、妹の逆鱗に触れてしまった俺は、財布の中にあった小銭を全て失う事が確約されてしまった。

解せぬ。


「あ、それとぉ。馬鹿兄に無理矢理性転換させられたんだから、私にもその権利はあるよね?」

んんっ!?

「え、えっと。由香さん? 一体何を仰っているのでしょうか? 未熟な私にも分かるようお願いいたしまする」

「だ・か・ら。責任取って、今日一日、お兄は性転換して過ごしてくれる? ちなみに拒否権はないよ?」

「えっと……。はい」

こうなった由香は頑固なうえに今回の責は100%俺にある。

逆らえるはずもなく、首を縦に振ることを余儀なくされた。


「うん♪ よろしい。じゃあ、そのノート貸して。お兄の名前書くから」

「え? い、いや自分で書くって」

「言っとくけど、青い背景の方に自分の名前書いて、書いたって言い張るのはなしだからね?」

「っぐ。い、いやいやそんな事しないって」

「そう。ま、なんにしても私が書くから早く貸して」

「あ、はい」


由香に言われるまま、TSノートを手渡す俺。

悪戯っ子のような笑みを顔に湛え、それを受け取る由香。

素早い動きで俺からシャーペンを取り上げた由香は、ピンク色の背景の空欄に『有村裕紀人』と書き込んだ。


次の瞬間、俺の身体が先ほどの大男の時の再現のように、眩い光に包まれる。

「うぇ、あ」

目を開けると同時、直ぐに違和感が体を支配する。

先ほどまで来ていたTシャツとジーパンがぶかぶかになり、なにより一番の変化はー

「あれが、ない」

そう、息子がないのだ。

代わりにあるのは、若干の胸の膨らみ。

周りを見渡せば、やたらと家具が大きくなっていた。


「お~い。お兄、聞こえてる?」

由香が俺の前で手を振って安否を確認してくる。

「あ、ああ」

激しく動揺しながらも相槌を打つ。しかし、自分の口から発っせられたその声は鈴の音を鳴らしたような綺麗なソプラノボイスだった。

「ふむふむ。なるほど」

「な、なあ由香。今、俺どうなってんの」

まじまじと俺の事を見つめてくる由香に自分の状態を聞く。

先ほどまで俺の目線の下にいた由香を、今は俺が見上げる形になっている。


「ん~。簡単に言えば、女の子になったって感じかな。あと凄い背が縮んでる。あと可愛い。バカ兄」

「ぐふッ」

由香の言葉が俺のアイデンティティに深く突き刺さる。

それに精神を摩耗させながらも高速移動を発動。

洗面所の鏡を確認すると、そこには確かに美少女、否、美幼女が映っていた。

「なんだこれ!?」

女になる、それに覚悟はできていたが余りの想定との違いに素っ頓狂な声を上げてしまう。


中学二年生である由香の慎重に届かない時点で嫌な予感はしていたが、実際に目にするとインパクトが違う。


髪の色までは変わっていないものの、後ろ髪は肩辺りまで伸び、身長もパット見150あるかないか。


何より体が全体的に丸みを帯びている。そして、なによりも、な、な……

「なんじゃこりゃぁぁぁぁぁぁ!」

俺は思わず絶叫した。


「うわ、うるさいなぁ。ちょっと落ち着いてよ馬鹿兄」

「これが落ち着けるかぁぁぁ! 俺の筋肉はどこへ消えた!?」

「いや、知らないし。て言うか、お兄元々そこまでマッチョじゃなかったじゃん」

「馬鹿め! これでも俺は毎日鍛えてたんだぞ。あの汗水たらして頑張った夢の結晶があのボディだったのだ。そ、それがこの一瞬で消え去るなど…… なあ由香、やっぱり一日じゃなくて一時間にしないか、なんなら一分でもいい」


「え~。ダメだよ。これは勝手に私の性別を弄ったお兄への罰ゲームだもん。せめて一日はその体を堪能してもらわないと」

「そんな……」

絶望に打ちひしがれ、あまりのショックに膝から崩れ落ちる。

「ほれ、いつまでも項垂れてないで立ちなさい」

由香がしゃがみ込み、背後から俺の両脇に手を差し込み持ち上げられる。

「ちょ、おい」

半ば強制的に直立の姿勢を取らされ、抗議の声を上げようとした瞬間、今度は俺をコマのように半回転させて正面から向かい合うと、おもむろに頭を撫でて来た。

「な、なんだよ……」

「ふふ。なんか新鮮で。いつもは私の方が背低いからね。せっかくだから、私の事お姉ちゃんって呼ぼうか?」

「呼ばん。俺の自尊心をなんだと思ってるんだ」

「ケチお兄」

由香が唇を尖らせながら不満を口にする。

「まあいいや、取り敢えずご飯食べよ。お腹空いたし」

「お、おい」


由香に手を引かれてリビングへ向かう。

段差が大きくなったように感じる階段に四苦八苦しながらもなんとか食卓へ辿り着き、安堵の息を吐いた。

幸い、両親は旅行に出ているため家にいない。


由香ほどではないが悪乗りが過ぎる母さんと父さんだ。

俺のこの身体を見たら面白おかしくからかってきただろうし、本当に不幸中の幸いだ。

「はい。お待たせ」

由香が料理を運んでくる。

「え? あ、ああ。ありがとう」

適当にテレビのチャンネルを変えながら、ソファーでくつろいでいると由香が食事を運んできた。


テーブルの上に並べられたのは、野菜がゴロゴロ入ったカレーライス。

栄養バランスを考えてご飯を作ってくれる母さんの影響もあり、家のカレーはこれが定番である。



「「いただきます」」

二人揃って手を合わせ、スプーンを手に取る。

だぼだぼになったTシャツは袖を捲って一時的な処置を施しておく。

パクパクモグモグと夢中でカレーを口に運ぶ。

由香の作ったカレーは程よい辛さで、市販のルーを使っているはずなのにとても旨かった。紅ショウガのアクセントがまた食欲を刺激してくれる。

「どう? 美味しい?」

「うん。すげぇうまい」

「そう、良かった」

素直な感想を口にすると由香が嬉しそうにはにかむ。

料理がからっきしな俺は由香が居なかったら、冷凍食品やレトルトに頼るしかない。

こんなにおいしい手料理を用意してくれる由香には素直に感謝するし、頭が上がらない。


まあ、今日一日女の子の身体でいる事とはまた話が別ではあるが……

「ご、ごちそうさま」

「あれ、お兄がカレー残すなんて珍しいね? お兄の嫌いなものは特にいれてないはずだけど」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

由香が心配そうな顔で俺の事を見つめてくる。


「なんか普通にお腹がいっぱいなんだよ」

我知らず、要領を得ない顔を浮かべていたのか、由香の態度が一変した。

「ふふ。なんだ、そういうことか。お兄、今女の子だもんね。食が細くなるのも仕方がない事だよ」

一転して意地の悪い、ニヒルな笑みを浮かべる由香。

「なにィ!? いやでもそ、そうか? そう言う事なのか」

由香の説明を訊いて驚くも、同時にやけに自分の食が細かったことに納得する。

そうか。女の子の中には、食が細い子がいる事は聞いたことがあるが、まさかここまでなんてな。


「っは!?」

「どうしたの? お兄」

め、飯を食べて安心したからか唐突な尿意が。

だ、だが男の矜持として、この状態でトイレに行くことは躊躇われる。

急にもじもじおどおどし始めた俺を見て、由香がなにかを察したのか、口端を吊り上げた。


「あ、そっか。生理現象だもんね」

言いながら、俺の手を引く由香。

「ちょ、おい!」

必死に抵抗するが、この体でこの状態では全く力が入らない。

「いいから、ほら。早く行ってきなよ」

「うわぁ!」

半ば無理やりにトイレへと連れていかれる。

そして、由香に背中を押され、そのまま個室の中へ押し込まれた。

「お、お前なぁ」

「ほらほら、文句言ってないでちゃっちゃと済ませちゃいなよ? それとも手伝

おうか?」


「い、いらんわ!」

「ならよし。じゃ、終わったら教えて」

由香はそれだけを言い残して、ドアを閉めた。

「はあ~」

嘆息しながらズボンを下ろしbenzaに腰を掛ける。

ったく由香の奴、俺をからかって遊びやがって。


「……」

しかし、ここで一つ問題ができた。

俺は今、女の身体なのだ。

つまり、用を足すには嫌でもアレを目に入れなければならない。何がとは言わないが。


目を瞑りながら無言で用を足す。静寂が満たす室内に水音が響き渡る。

「……」

なんかめっちゃ飛ぶし、音凄くね?

落ち着け俺、明鏡止水の心を持つんだ。

邪念は捨て去れ。


なるべく下腹部を意識しないように努めながら、心を静める。

やがて、激闘が終わり、俺は無事に勝利を収めた。

「ふぅ」

トイレットペーパー君を巻き取り、濡れた箇所を拭き取る。

「お、終わった」

限りなく精神を擦り減らす拷問に終止符を打った俺は、這う這うの体で洗面台で手を洗う。


その途中、当然鏡に目が言ったわけだが。

「……ホントに誰だこれは」

改めてまじまじと自分を観察しても納得が行かない。

鏡に映し出される黒髪ショートの美幼女。

隠れようともしないあどけなさ。


しかし対照的に、どこか暗い雰囲気を纏った吊り目の美幼女だった。

背伸びしたがりのメ〇ガキという表現が一番的確だろう。


確かに、由香が可愛いなどと世迷言をのたまってくるのも頷けるというものだ。

これが自分じゃなかったら見惚れていてもおかしくはない。

「どうだった?」

洗面所を出るとニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた由香が

待ち構えていた。


「うるさい。もう寝る」

ぶっきらぼうにそう返し、階段を上る。

「まあまあまあ、待ちなよ」

しかし、階段を登りきる直前、由香が両手を広げてゆく手を阻む。

「なんだよ」


「お風呂沸いたけど入る?」

「入りません」

「まあ、だよね。でもいいのかなぁ? この写真、お母さんに見せちゃうけど」

由香がやおらポッケからスマホを取り出し、一枚の写真を俺に見せてくる。

「お、おい。これ」

そこにはだぼだぼなTシャツを着てカレーを口に運ぶ俺の姿が映っていた。

カレー食べてる時に撮られたのか?!

人が楽しんでいるのを良い事に、邪年に満ちた脅迫材料を収集するとは……


由香、恐ろしい子!?

ノリのいい母さんのことだ。TSノートの存在も鵜呑みにしてからかいの獣と化すのは目に見えている。


「……貸せ!」

もはや舌戦での問答は不要と判断。にわかに由香の持つスマホへと手を伸ばす。

「はい、そうくると思ってましたっと」

だが、由香も伊達に長年俺の妹をやっていない。

ひらりと身を翻し、俺の伸ばした手をかわすと、俺の手の届かない位置にスマホを掲げた。


「避けるなぁ! 卑怯ものぉぉぉ!」

憤るあまり上弦に逃げられた炭〇郎みたいになってしまう。

「じゃあこれはお兄の手の届かない場所に置いておきましょう」

俺の怒りを無視して由香は踵を返して階段を降りていく。

「待てぇい!」

慌ててその後を追うが時すでに遅し。俺がリビングに辿り着く頃にはスマホはこの体ではどうあがいても取れそうにない棚の上に鎮座していた。


「くそっ」

「さて、じゃあお兄。お風呂行こっか?」

由香が悪魔もかくやの笑みを浮かべて、俺の手首を掴む。

俺に残された選択肢はこの状況を耐え抜く事だけだった。


♦♦♦♦♦♦

そして、現在俺は自らの身体を視界に入れないよう努めながら体を洗っている。

由香の奴。本当に明日、写真を消してくれるんだろうか。

不安は拭えないがひとまずは思考を隅に追いやる。

まあ、TSノートに書かれている俺の名前を消してしまえば元に戻れるんだ。

由香、その時がお前の最後だぜ。


俺が思考に耽っていると浴室のドアが開き、冷気が浴場に流れた。

「っは!?」

驚倒しながらチラリと後ろを一瞥するとバスタオル姿の由香と目が合った。

「いや、なんで入ってくるんだよ!」

「お兄。たぶん髪の洗い方とか雑でしょ。私がレクチャーしてあげようと思って」

「いらんわ!」

「ほらほら、そんな邪険にしないでよ。お兄だって今女の子なんだから」

由香が俺の肩を押して無理やり椅子に座らせる。

「覚えてろよ。いろいろと」


「はいはい。ほら、目を瞑って。シャンプーつけるよー」

俺の恨み節など歯牙にもかけず、由香がシャワーを手に取り、温度を確認してから、それを頭にかけてきた。


「ちょ、おまえな」

待遇に不満のあった俺は呆然としていて、目を瞑り忘れ、少し目にシャンプーが入ってしまった。地味に痛い。

「子供じゃないんだから、ちゃんと目を瞑ってなきゃ駄目だよ。お兄」

「そういう問題じゃない」

目に入ったシャンプーを流し終えると、今度は優しく頭を撫でるように揉み解してくる。


普段なら大したことないのだが、流石にここまで密着されると妹とはいえ、なにも感じずにはいられない。

「ちょっとだけ我慢してね~」

由香が俺の耳元で囁きながら、丁寧に髪を洗ってくれる。

その間、俺は無心になりながら、早く時間が過ぎ去ることだけを祈った。


「よし、こんなもんかな」

ようやく解放され、安堵の息を吐く。しかし、由香の次の一言で、安堵が霧散して消え失せた。


「じゃあ、次、背中洗おうか」

「……は?」

思わず素で聞き返してして呆然としてしまう。

その間隙を縫い、由香がボディーソープをつけたスポンジを泡立たせ、おもむろに俺の背中を擦ってきた。


「ひゃうっ!」

「お兄。変な声出さないの。洗えないじゃん」

「ばっか。そこは自分で洗えるから!」

抗議の声を上げて由香を一括する。しかし、由香はまるで気にした様子もなく、俺の背中を丹念に洗い続ける。


「はいはい。お兄、バンザイして」

「するか!」

「もぅ。わがまま言わないの」

「どっちがだよ!?」

結局、抵抗むなしく、由香に全身くまなく洗われてしまった。

俺がもし本当に女だったらお嫁に行けなくなる寸前だぞコレ。

満足げな顔で俺の身体をマジマジと見つめる由香。


「ふむ。まあいいでしょう」

「いいならもう出てってくれ」

「お兄、言っとくけど髪は自然乾燥じゃ駄目だよ。ちゃんとドライヤーで乾かすんだよ? あとタオルでごしごし拭いても駄目。Are you OK?」

「OKOKだから出ていK!」

そして風呂上がり。

俺は由香に言われた通り、しっかりと身体を拭いてから脱衣所を出た。

俺と入れ替わりで由香が風呂に入り、ようやく人心地が付く。


変わらずだぼだぼなパジャマを纏っているため若干落ち着かないが風呂にいた時や尿意を催した時よりかは何倍もマシだ。


「なんかどっと疲れた」

やおら時計に目をやれば、時刻はまだ21:30。普段なら余裕で起きている時間なのだが、精神的にも肉体的にも初めての連続で、心身ともに疲弊している。


軽く湯冷めしたらさっさと寝るとしよう。そう決めて自室に戻り、ベッドに飛び込むように横になる。


風呂上り特有の気怠さが睡魔を呼び起こす。適当にスマホを弄り、22:00を迎えたところではたと気付く。

「今なら男に戻れるんじゃね?」

由香との約束を反故にする事にはなるが机に置いてあるTSノートの名前を消せばすぐにでも男の身体に戻れるはずだ。


「いや、やっぱ辞めとくか」

俺が由香に承諾も取らずに性別を変えてしまったことが事の発端だ。今更約束を反故にしても良い事はないだろう。


兄弟関係を良好に保つためにも、由香の希望通り、今日だけは女の子でいてやるか。

そう思いいたり、照明を消して布団に入った。

「…………眠れねぇ」

身体は疲労困憊のはずなのに妙に目が冴えて眠気が来ない。

まあ、あれだけいろいろあったんだ。そりゃそうだよな。

目を瞑って羊を数えるが一向に眠りに落ちる気配がない。それどころか余計に目が冴え始める。まずいな、これじゃどこかの万事屋のチャイナ娘みたいになってしまうぞ。


そんな俺の危惧を見越してか、自室のドアが快音を立てて開かれた。

「ちょっとお兄! 寝るなら言っといてよ! 私も一緒に寝るんだから!」

「なんでやねん!」

許容量を超えた驚きに、関西人でもないのにエセ関西弁が出てしまった。


「だってせっかくお兄が私の妹(仮)の姿になったんだもん。しっかり最後まで行く末を見届けなくちゃ」

「その心は?」

「今のうちに女の子のお兄の身体を堪能しようと思いまして」

「帰れ」

「やーん。妹ちゃんが冷たい。そんなこと言わずにお姉ちゃんと一緒に寝ましょうね~」

由香が満面の笑みを湛えて、ル〇ン三世さながらにベッドに飛び込んでくる。

本来はここで撃退されて終わるのが定石だがあいにく、俺は抵抗する手段を持っていない。ゴロゴロとベッドを移動し由香のダイブを躱す事でなんとか事なきを得た。


「由香、お前まさか……」

ある事に思い至り、言葉を途切れさせると何故か由香がほんのりと頬を朱に染める。

なんだ、熱でもあるのか?


「ロリコン、だったのか!?」

「……っ違っうわこの馬鹿兄ぃぃぃぃぃ!!」

「ぐふぉぉぉ」

今日二度目の由香の飛び蹴りが俺の腹に炸裂した。

「あ、ごめん。ついうっかり」

「ぅ、うっかりで腹を蹴るな。普段ならまだしもこの体じゃ下手したら死ぬから。マジで」

「流石にまずった。ごめんお兄」

珍しく素直に謝る由香。お腹を摩って介抱してくれる。普段がアレだから勘違いしがちだが根は優しい妹なのだ。たぶん。

「わかればいい。ついでにこの部屋から出て行ってくれると尚いい」

「あ、それはない」

「……」

前言撤回。やっぱりこいつは鬼畜外道のロリコン妹だ。


「さて、そんな小言が叩けるって事は大丈夫そうだし。一緒に寝よっか? お兄」

「寝ない」

「そんなこと言わずにさ、ね?」

「寝ないったら寝ない」

俺が頑なに拒否すると由香は唇を尖らせて不満を露にする。

「むぅ。いいもん。お兄の許可なんていらない」

由香はおもむろに俺の身体に手を回すと、そのまま抱き枕のようにして抱え込んできた。小さいながらも柔らかい感触とシャンプーのいい香りが俺の平常心を奪う。


「ちょ、おい。由香!?」

「お兄、いい抱き心地」

「ばっか。離れろって」

「やだ。お兄、良い匂いするしこのまま寝たい」

ぎゅっと俺の身体に回された腕の力が強くなった。

「やっぱりロリコンじゃないか!」

「違うから! わ、私はただお兄と……」

「俺と?」

「なんでもない!もう、お兄うるさい!」

由香は何故か顔を真っ赤にすると俺の身体をさらに強く抱きしめてきた。


「痛、っちょ痛いって」

「お兄が悪いんだから」

「なんで!?」

その後しばらく由香を引き剥がそうと試みたが、引き離すこと叶わず、由香の抱きまくらに徹する羽目になってしまった。


♦♦♦♦♦♦

「お兄、寝ちゃった?」

「……」

「お兄?」

「……zZZ」

「寝てるじゃん。もう、仕方ないなぁ。お兄は」

由香は穏やかに微笑み掛け、裕紀人の頭を撫でる。

「おやすみ、お兄」

そして由香も瞼を閉じる。

かくして、TSノートを拾った事による兄弟の波乱の1日は終わりを告げたのだった。


★★★★★★

【あ、トランス・セクシャル書き】(あとがき)

はい、思いつきとノリだけで書いた短編でした。

はじめはTSノートをキーアイテムに変身させて魔法少女物の可逆TS物にしようと考えてました。


ただ作者の技量、描写力、イメージ力が足りなかったので日常物(笑)の短編に変更いたしました。人気の度合いや作者のやる気によっては連載版も考えています。


その際は全く違う話になっちゃうかもしれませんし、同じキャラで日常物の続きを書くかもしれませんし…… 


まあなんにせよ、機会があればそちらもよろしくお願いします。

今回の短編をアホみたいな話だな、もしくは純粋に面白いと思って頂けたなら、評価とフォローもよろしくですです。

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