42.残念令嬢と家庭教師(後編)

 しばらくの間、パトリシアと二人きりで過ごさせてほしい。


 そう願い出たエレインは、パトリシアを子ども部屋に閉じ込めると、外部と一切の接触を禁じた。

 最初のうち、パトリシアは何とかして彼女を追い出そうと、とげとげしい態度をとってみたり、出された課題をびりびりに引き裂いてみたりしたが、すぐに後悔する破目になった。


 エレインはパトリシアを鞭で打ち、大人しくなるまで食事を抜いたのだ。


 生まれて初めて鞭で打たれたパトリシアは、火がついたように泣き喚き、子ども部屋のドアを叩いて助けを呼んだが、お嬢様の癇癪にはすっかり慣れっこになった使用人はもちろん、病床の妻につきっきりのリドリー伯爵もマルコムも、様子を見にすら来なかった。


 十歳のパトリシアは、我儘な子どもだったが馬鹿ではなかった。

 エレインに逆らえばどうなるか、いち早く学んだパトリシアは、一週間も経つころには自ら進んで課題をこなし、勉強にも真面目に取り組むようになったのだ。


 だがエレインは決してパトリシアを褒めなかった。それどころか、些細な間違いもいちいちあげつらってはしつこく責め立てたため、パトリシアは次第に自信をなくし、ちょっとしたことにもびくびくするような神経質な子どもになっていった。


 子ども部屋に閉じ込められて、十日ほど経ったある日のこと。


 その日は、朝の勉強が始まる時間になっても、エレインがやってこなかった。

 パトリシアは不思議に思ったが、さぼっているところをエレインに見つかりでもしたら、また鞭で打たれると思い、大人しく教科書を読み始めた。

 だが朝の時間がのろのろと過ぎ、やがて昼食の時間になっても、エレインは姿を見せなかった。

 朝から何も食べていなかったパトリシアは、さすがに空腹に耐えかねて、廊下に続くドアのノブに恐る恐る手をかけた。

 驚いたことに鍵は開いており、パトリシアは久しぶりに部屋の外にすべり出た。

 無人の廊下は物音ひとつしない。

 屋敷がこんなに静まり返っているのは初めてだった。


(まるで、家の中に私だけしかいないみたい)

 

 ここ数日は、夜になっても廊下をあわただしく行き来する足音や、大人たちの切迫した声がドア越しに聞こえてきていたのに。

 思い切って食堂に下りてみると、そこにも誰もいなかった。

 長テーブルには食べかけの食事が放置され、まるで食事中の人たちが慌てて立ち去った後のようだ。

 パトリシアは皿に残ったパイやペストリーをここぞとばかりに詰めこむと、ポットの底の渋い紅茶を、すっかり冷めてしまったお湯で薄めて飲んだ。


 その時、玄関の扉ががちゃりと開き、玄関ホールに男の靴音が響いた。


 ノックも呼び鈴の音もせず、執事や従僕が応対に出る声もしないのを不思議に思っていると、まさにその執事のピアースが、急ぎ足で食堂に入ってきた。

 ピアースは、しわくちゃのワンピース姿で口の脇に食べかすをつけたパトリシアを見るなり、ぎょっとした顔で飛びのきかけた。

  

「お嬢様! こんなところで何をなさっているのです!?」

「朝ごはんを食べていたの。時間になっても、エレイン先生が来なかったから」


 ピアースは「おお……」と声を詰まらせ、近づいてくると膝をついてパトリシアと目を合わせた。

 執事の目の縁は真っ赤になっており、腕には見慣れない黒の腕章がついている。


「お嬢様。どうぞ落ち着いてお聞きください。今朝方、セレーナ様が……お嬢様のお母様がお亡くなりになりました」


 ◇◇◇


 元王女だったセレーナの葬儀は、王都の大聖堂で粛々と行われ、王族や主だった貴族も大勢参列した。

 パトリシアも喪服を着て親族席に連なったものの、つい最近会ったばかりの母親を亡くしても、悲しいとも淋しいとも感じなかった。

 ただ、墓地に出たとき、悲嘆に暮れる父や兄たちのそばに、いつの間にかエレインが立っていて、啜り泣きながらマルコムの肩に縋っているのを見たときは、何ともいえずいやな気持ちになったものだ。

 

 母の死後、リドリー卿はほとんど屋敷タウンハウスに戻ってこなくなり、代わってマルコムが家内のことを取り仕切るようになった。

 とはいえ、マルコムはマルコムで忙しく、パトリシアの養育は引き続きエレインに丸投げの状態だったのだが。

 この頃のエレインは、前ほどパトリシアにきつく当たらなくなっていた。勉強のために割り当てられた時間も、パトリシアに課題を与えると、そそくさと部屋を出ていってしまう。

 ある時、いつもより早めに課題を済ませたパトリシアは、そのことを報告しようとエレインを探しに行った。

 たまたまマルコムの部屋の前を通りかかると、ドアが半開きになっている。

 何気なく中をのぞきこんだパトリシアは、そこにエレインがいるのを見て息が止まるほど驚いた。

 エレインが、兄の手紙を盗み見している。

 そのとき、エレインがぱっと顔を上げてこちらを見た。パトリシアの姿をみとめるやいなや、近づいてきて腕をつかみ、部屋の中に引きずりこむ。


「まあ、何て悪い子でしょう! お兄様のお手紙を勝手に盗み読みするなんて!」

「違……っ!」


 違う。と言いかけた頬を、平手で思い切り叩かれた。

 見れば、外の廊下には、いつの間にか使用人たちが集まってきている。


「このことはお兄様にも報告させていただきます。それまで子ども部屋で反省していらっしゃい!」


 ――思えば、あの時が最初だった。


 エレインがリドリー家の人々に対し、パトリシアの印象操作を始めたのは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る