41.残念令嬢と家庭教師(前編)

「それにしても、ようやく顔を見せてくれて安心したよ、パトリシア」


 食事を再開してしばらく後。

 マルコム兄様の言葉に、私は「え?」と顔を上げた。


 ――ようやく?

 

 だが私が疑問を口にするより早く、「本当にねえ」とエレインが口をはさむ。

 

「いくら婚約破棄の件がショックだったからって、数年ぶりに帰国されたお兄様に挨拶もせず、一週間も引きこもっているなんて、情が薄いにもほどがありますわ」

「――っ!」


 ――やられた。


 舌打ちしそうになるのを、かろうじて堪える。

 私がソロン領に着いたあの日、マルコム兄様はもうここに来ていたのだ。

 なのに、私たちはそれを知らされないまま、今日まであの幽霊屋敷に軟禁されていた。

 それもこれも……。


『ご滞在中は、特にお呼びがないかぎり、こちらで過ごしていただきます。お食事やお茶も、本館に来ていただくには及ばないと、レディ・カメロンが仰せです』


 レディ・カメロン、すなわちエレインがそうなるように仕向けたせいだ。

 この義姉と〈パトリシア〉の相性は、初対面のときから最悪だった――。


 ◇◇◇


 十二年前。

 隣国マーセデスから十年ぶりに帰国したリドリー伯爵夫妻は、勝手放題に育った娘に仰天し、なんとかこれを矯正しようと家庭教師ガヴァネスを次々に雇い入れた。

 だが、最初に雇われた家庭教師は、パトリシアのあまりのわがままぶりに嫌気がさして、三ヶ月で辞めてしまった。後任の家庭教師たちも、もってひと月、中には三日ともたずに出ていく者さえあった。

 

 そんな中、伯爵夫人のセレーナが重い病に倒れる。


 妻を溺愛していたリドリー伯爵は、とにかく「奥様」の身体に障らないように、娘をできるだけ静かにさせておける家庭教師を探すようにと厳命した。

 当時は誰もがセレーナのことにかかりきりで、屋敷の片隅で養育されていた末娘にまで心を配る余裕はなかったのだ。


 エレインがリドリー家にやってきたのは、そんな時だった。


『初めまして。エレイン・アルマ・メレディスです』

『…………』


〈パトリシア〉の記憶によれば、エレインをひと目見た瞬間、子ども心に「信用できない」と直感したらしい。

 キャメルブラウンの髪に、そこそこ美人といえる顔立ち。

 だが、仕草も言葉も妙に芝居がかっており、特に父のリドリー卿や兄のマルコムが同席しているとき、その傾向はひときわ顕著になるようだった。


『まあ、何て美しいお嬢様でしょう!』


 エレインは大げさに叫ぶと、パトリシアの手を取った。


『私、ずっと前からこんな愛らしい妹が欲しかったんですのよ』


 嘘つき、とパトリシアは思った。そんなこと、本当はちっとも思ってないくせに。

 物心ついたときから使用人に囲まれて育ったパトリシアは、大人の嘘に敏感だった。

 面と向かってはちやほやしてくれるメイドや従僕たちが、陰では自分を悪し様に言っていることも、父や兄たちが母を心配するあまり、自分のことはほとんど気にかけていないことも、子どもなりにひしひしと感じていたのだ。

 だから……。

 

『私のことは、どうかお姉さんと思って何でも頼ってね』


 エレインにそう言われたとき、十歳のパトリシアはその手を思い切り払いのけた。


『お姉さんなんていらない! あんたなんて大嫌い!』


 それまでの家庭教師たちは、こういう態度を取っていれば、遅かれ早かれいなくなった。

 けれど、パトリシアにとって不幸なことに、エレインは、十歳になったばかりの無学な少女が太刀打ちできる相手ではなかったのだ。


『痛っ!』


 パトリシアに振り払われた手を、もう一方の手で押さえる。

 次に手を放したとき、そこには真っ赤なみみず腫れができていた。

 驚いたお父様とマルコム兄様が慌ててエレインに走り寄る。

 

『パトリシア! ……申し訳ない、エレイン嬢。娘がとんだ失礼を』

『パトリシア、先生に何てことをするんだ。謝りなさい!』

『…………』


 パトリシアは混乱した。

 あんなふうに誰かの手を振り払ったのは初めてではない。

 それこそ数えきれないくらいやったけど、みみず腫れになったことなんて一度もなかった。

 なのに、まるで爪で思い切り引っ掻いたみたいな傷ができるなんて……。

  

『パトリシア!』


 お父様に怖い目で睨まれ、パトリシアの肩がびくんと跳ねる。

 その両肩にそっと手を置いて、エレインが言った。 


『大丈夫ですわ、このくらい。それよりリドリー閣下、マルコム様。しばらくの間――そうですわね、二週間ほど――お嬢様と二人きりで過ごす許可をいただけますか?』

『ああ、かまわないが……』

『その間、ご家族の方はお嬢様とは一切会わないでいただきたいのです。この年頃のお子さんは、ご家族が一緒ですと、どうしても甘えが出てしまいがちですので』


 それまでだって、パトリシアは家族と一緒だったことなどなかった。

 だが、お父様もお兄様も、慣れない看病と手のやける娘に疲れ果てていたのだろう。


『そうだな。エレイン嬢、この子の躾はあなたに一任しよう』

『パトリシア。先生のいうことをちゃんときくんだぞ』


 こうして十歳のパトリシアは、悪魔のような家庭教師と二人きりにされたのだ。

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