40.残念令嬢と家族の晩餐

 ウォーキングから戻った私を、メリサとルシールが待ち構えていた。


「さきほどグリムス夫人から伝言がまいりました。マルコム様がお着きになりましたので、本日の夕食は本館のほうにお越しくださいとのことでございます」

「わかったわ。それにしても……」


 帰国してからソロン領ここに来るまで、ずいぶん時間がかかったものだ。

 真面目なマルコム兄様のことだから、戻ってきたらすぐさまお祖父様のところへ挨拶に来ると思っていたのに。


「晩餐は八時からだそうでございます。その前にご親族の方々とのご挨拶もおありでしょうから、少し早めに出るとして、お支度は六時に始めれば十分間に合うかと」


 メリサはてきぱきと言い、窓際に控えていたルシールを振り向いた。


「今日はあなたにも侍女レディースメイドとしてついてきていただきます。そのつもりでいるように」

「は、はい!」


 ルシールがびしっと背筋を伸ばす。

 メリサは灰色に曇った空を見上げ、気がかりそうにつぶやいた。

 

「少々、雲行きが怪しくなってきましたね。夜までお天気がもつといいのですが……」


 ◇◇◇


 午後六時。

 髪を洗い、身体のすみずみまで磨き上げた私のところに、メリサがドレスを持ってきた。


「すごい! これって〈ジョリ・トリシア〉の新作ですよね!」


 ルシールが目を丸くする。

 今回のソロン行きのためにカミーユに注文したのは、オーソドックスなイブニングドレスだった。

〈パトリシア〉の記憶によれば、お祖父様は非常に気難しく、約束事や礼儀には殊のほか厳しい人物らしい。

 なので、ウルトラヴァイオレットのシルクサテンは、夜の装いにふさわしく光沢と艶はあるものの、余分な飾りはいっさいつけず、ノースリーブのシンプルなエンパイアドレスに仕立ててもらった。

 これに肘の上まで届くパールホワイトのロンググローブをつけ、ホワイトゴールドのネックレスでデコルテを飾れば首から下は完成だ。

 

 以前、傷んだ部分を丸ごとカットした髪は(7.残念令嬢と真夜中の誘惑)、高めの位置でハーフアップにしてもらい、頭皮の引き上げ効果を利用して、二重顎や頬の丸みがシャープに見えるようにする。

 健康的な食生活のおかげで吹き出物の消えた肌は、真珠色のパウダーをはたき、切れ長に引いたアイラインとワインレッドのリップだけで、驚くほど透明感が増して見えた。


「素敵ですわ、お嬢様!」

「ええ、本当に」


 身支度を手伝ってくれた二人も口々に褒めてくれる。


「ありがとう。それじゃ行きましょうか」


 結い上げた髪が崩れないようにフード付きのケープをはおり、ランタンを提げたルシールを先に立てて館を出たときには、時おりどっと吹く風が、雑木林をざわざわと揺らしていた。


 ◇◇◇


「ようこそ。お待ちしておりました」


 七時半を少し回ったころ。

 本館の扉を開けたのは、従僕の制服を着た若者だった。

 

「皆さま、すでに食堂にお集まりでございます。直接ご案内いたしますね」

「?」


 私はメリサと顔を見合わせる。

 晩餐は八時スタートだが、その前にマルコム兄様に挨拶するつもりだった私は、三十分近く前に着いていた。

 このタイミングなら、執事が出てきて応接間に通され、そこでしばらく歓談してから食堂に移動、という流れになるはずだが――。


 首をひねりながらもケープを預け、従僕の後についていくと、食欲をそそる白ワインとバターのブールブランソースの香りがぷんと漂ってきた。

 ジョーンズ夫人が白身魚の料理を出すときに、好んで使うソースである。

 と、いうことは……。


 ぞわぞわと、気持ちの悪い寒気が這い上ってくる。

 私の中の〈パトリシア〉がパニックを起こしかけているのだ。


「お嬢様? どうかなさいましたか?」


 メリサが心配そうに近づいてきたときには、先頭を行く従僕が、食堂のドアを音高く叩いていた。


「失礼いたします。パトリシア・リドリー・ソロン様がおいでです」


 食堂の扉がゆっくりと開く。

 その向こう、シャンデリアにこうこうと照らされた長テーブルには、正装の男女がずらりと居並び、今しも魚料理の皿が配られているところだった。


 ◇◇◇


 衝撃の瞬間、私には、テーブルについた人たちがとほうもなく大勢に思われた。

 たくさんの顔がいっせいにこちらを向き、そのどれもが責めるような表情で私を見ているのだ。


『大事な晩餐に遅刻するとは何事ですか!』

『もういい。おまえは部屋に戻っていなさい』


 膝は震え、心臓はばくばくし、喉が締めつけられるように苦しくなった。

 だがその時、誰かの暖かい掌が、そっと私の背中に当てられた。

 

「申し訳ございません、お嬢様。私としたことが、つまらない策略に嵌められたようです」

「メリサ……」


 ふっと肩の力が抜けると同時に、渦巻くようだった視界がクリアになる。

 最初、何十人もいるように感じられた招待客は、落ち着いてみれば十人もいなかった。

 マルコム兄様とその夫人のベアトリス様。その息子のデイヴィッド。

 お父様の弟で、パトリシアにとっては叔父にあたるグイード卿。

 カメロン兄様とその妻のエレイン。その隣にいる太った男の子は、顔立ちからして二人の息子だろう。

 あと一人、妙に着飾った年齢不詳の女性がいるのは、グイード叔父様の奥さんだろうか。

 

 そして長テーブルの突き当たり、本来なら当主が座るはずの席は、銀器と飾り皿が置かれたまま、ぽっかりと空いていた。


「これはこれは。誰かと思ったら可愛い姪のパトリシアじゃないか! 少し見ないうちに、えらく綺麗になったなあ! さあさあ、そんなところに立っていないで、こっちへ来てお座り」

 

 グイード叔父様がさっと立ち上がり、笑顔でこちらに近づいてくる。

 私はここぞとばかりに腰を落とし、一ミリもぶれない宮廷礼カーテシーを披露した。〈強者の鐙〉を使った体幹コアトレの成果である。


「ごきげんよう、叔父様、お兄様方。このような席に遅れてしまい、大変失礼いたしました。……そしてマルコムお兄様、ベアトリスお義姉様。無事のご帰国、心からお喜び申し上げますわ」


 にっこり笑ってマルコム兄様たちのほうを見ると、南国の太陽にすっかり日焼けしたお兄様は、目も口もぽかんと開けて私を凝視していた。


「……え。パ……パトリシアなのか? 本当に?」

「いやですわ、お兄様ったら。妹の顔もお忘れになりましたの?」


 グイード叔父様のエスコートで席についた私の前に、すかさず執事が魚料理の皿を置く。

 ちらりと目を上げると、やはり驚愕の眼差しで私を見ているカメロン兄様と――その隣から、激しい視線を向けてくるエレインと――かつてパトリシアの家庭教師ガヴァネスだった女と目が合った。

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