30.残念令嬢、閲覧する

〈離塔〉の書庫には、ケレス王国で発行された公文書がすべて保管されている。


「フェロ家はもともと、その公文書を管理する尚書リーベルの家系だったのですよ。夫がうっかり国璽まで預かるようになったおかげで、その役割は妻の私が引き受ける破目になったけれど」

「では、侯爵夫人の『リーベル』というお名前は……」

「それは単なる役職名。私の本当の名前はアンナというの」


 リーベル改め、アンナ・フェロ侯爵夫人はそういうと、繊細な小ぶりのカップデミタスに満たした香り高いエスプレッソを出してくれた。


「美味しい!」


 思わず歓声を上げると、侯爵夫人がにっこりと微笑む。


「それはよかった。この味が苦手なお嬢さんも多いから」

「私はもともとこちらのほうが好きです」


 前世ではしょっちゅう飲んでいたエスプレッソだが、そういえばリドリー家で出されるのは普通の珈琲コーヒーだけだった。

 帰ったら、忘れずにジョーンズ夫人にリクエストしなければ。 


「それで、あなたは意匠法について知りたいということだったわね?」

「はい。意匠法についてというか――」

 

 正確には、意匠法のせいで困窮している〈セルドール〉のイアン夫妻を助ける方法が知りたいのだが、そんなことが都合よく書かれた資料などあるはずがない。

 なので、まずは意匠法そのものを知るところから始めようと思ったわけだ。


 侯爵夫人はお父様が書いてくれた紹介状に目を通すと、「よろしい」と頷いた。

 

「あなたに意匠法について書かれた文書の閲覧を許可します。これで四階に行くといいわ」


 そう言って渡されたのは、頭の部分に「Ⅳ」と刻印された真鍮製の鍵だった。


「ありがとうございます! では早速――」

「あらあら。どこへ行くつもり?」


 再び安定した宮廷礼カーテシーを決め、善は急げとばかりにドアに向かった私を、侯爵夫人が笑いながら呼び止めた。


「どこって、もちろん……」

 

 四階に、と言いかけた私は、あることに気づいて足を止める。

 最上階のここに来るまで、螺旋階段の途中では、ひとつも扉を見かけなかった。

 つまり、螺旋階段からは、ここ以外のどの階にも行けないということだ。

 

「いらっしゃい。書庫の入口に案内するわ」


 そう言うと、侯爵夫人は私を部屋の奥に導いた。

 突き当りの壁は分厚い緞帳に覆われていたが、侯爵夫人が傍らの紐を引くと、それがするすると上がっていく。

 露わになった壁面には、両開きの引き戸があった。

 それも開けると、中は直方体の小部屋である。正面に鏡が張ってあり、驚愕に目を見開いた私と、穏やかに微笑む侯爵夫人が映っている。


「これって――……」

「お入りなさい」


 中に入ると、小部屋の床が、少しだけ下に沈み込んだ。

 この感じ、やはり間違いない。


「扉の脇に鍵穴が並んでいるのが見えるわね? 私が扉を閉じたら、『4』と書いてある鍵穴に鍵を入れて左に回しなさい。帰りは同じようにして、鍵を右に回せばここに戻れるわ」

「わかりました」


 侯爵夫人がひとつ頷き、扉を閉じる。

 渡された鍵を「4}の鍵穴にさして左に回すと、がちゃりという音とともに、小部屋がゆっくりと下降を始めた。


 驚いた。

 まさか、この世界にエレベーターがあろうとは。

 動力は一体何だろう。

〈パトリシア〉の記憶で見たかぎり、この世界に電気はまだないはずだけど……。


 前世よりだいぶ速度の遅いエレベーターが、ようやく目的の階に着いたらしい。

「チン!」という音とともに小部屋が停まり、外の扉が開かれる。

 そこには、色褪せた毛糸の肩掛けにくるまった白髪の老婆が立っていた。


「ようこそ、〈大鴉レイヴン〉のお嬢さん。意匠法の資料をお探しだね? ついておいで」


 言うなり、私の返事も待たず、すたすたと歩きだしてしまう。

 慌ててその後を追いながら、私はあたりを見回した。

 広々とした円形の室内は、床から天井までぎっしりと飴色の書架に埋め尽くされている。

 あちこちに開けられた明り取りの窓と、天井から下がるランプのおかげで、室内は適度な明るさを保っていた。

 紙と埃の匂いに混じって、珈琲の匂いがするところなど、まるで前世のブックカフェのようだ。

 

 先を歩く老婆が、とある書架の前で立ち止まった。


「さ、お探しの資料はここだ。他の棚を見たいときは、あたしに一声かけとくれ」

「承知しました。あの、私はパトリシア・リドリーといいます。お婆さんのことは何とお呼びすれば?」

「リーベル」


 というのが老婆の答えだった。


「書庫の番人は皆〈リーベル〉さ。それじゃ、ごゆっくり」


 書棚は腰の高さのところの板が引き出し式の机になっており、近くに椅子も置かれていた。

 私は「意匠法」と書かれたファイルを見つけ、それを開いて椅子に腰かける。

『第一章 総則』と書かれたページをひと目見るなり、私はげんなりとため息をついた。

 ページをびっしりと埋め尽くす文字、文字、文字。

 自慢じゃないけど、前世では、アプリの規約もろくろく読まず、一番下の「同意する」ボタンまでスクロールしていたタイプである。


(でも、まあ……)


 フローレンス様には、いろいろ迷惑をかけちゃったし。


 私は両手で頬を叩いて気合を入れると、難解な法律文書に向き合った。

 長い一日になりそうだった。


 ◇◇◇


 そのころ。

 来客用のテーブルに残る二つのカップを眺めながら、フェロ侯爵夫人は物思いにふけっていた。

 リドリー伯爵の令嬢に出したエスプレッソは、きれいに飲み干されている。


『私はもともとこちらのほうが好きです』


 かつて贅沢品だった珈琲を少しでも安価に楽しむために、半量のカップデミタスが普及したのは、半世紀ほど前のこと。

 だが、蒸気圧を利用して珈琲を抽出するエスプレッソマシンは、本来この世界には存在しなかったはずのものだ。

 やはり蒸気圧を利用した昇降機エレベーターがなかったのと同じように。


「なるほどね」


 フェロ侯爵夫人は閉じた扇を口許に当てて呟いた。


「やっぱり私の思ったとおり。あの娘は転生者に違いない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る