30.残念令嬢、閲覧する
〈離塔〉の書庫には、ケレス王国で発行された公文書がすべて保管されている。
「フェロ家はもともと、その公文書を管理する
「では、侯爵夫人の『リーベル』というお名前は……」
「それは単なる役職名。私の本当の名前はアンナというの」
リーベル改め、アンナ・フェロ侯爵夫人はそういうと、繊細な
「美味しい!」
思わず歓声を上げると、侯爵夫人がにっこりと微笑む。
「それはよかった。この味が苦手なお嬢さんも多いから」
「私はもともとこちらのほうが好きです」
前世ではしょっちゅう飲んでいたエスプレッソだが、そういえばリドリー家で出されるのは普通の
帰ったら、忘れずにジョーンズ夫人にリクエストしなければ。
「それで、あなたは意匠法について知りたいということだったわね?」
「はい。意匠法についてというか――」
正確には、意匠法のせいで困窮している〈セルドール〉のイアン夫妻を助ける方法が知りたいのだが、そんなことが都合よく書かれた資料などあるはずがない。
なので、まずは意匠法そのものを知るところから始めようと思ったわけだ。
侯爵夫人はお父様が書いてくれた紹介状に目を通すと、「よろしい」と頷いた。
「あなたに意匠法について書かれた文書の閲覧を許可します。これで四階に行くといいわ」
そう言って渡されたのは、頭の部分に「Ⅳ」と刻印された真鍮製の鍵だった。
「ありがとうございます! では早速――」
「あらあら。どこへ行くつもり?」
再び安定した
「どこって、もちろん……」
四階に、と言いかけた私は、あることに気づいて足を止める。
最上階のここに来るまで、螺旋階段の途中では、ひとつも扉を見かけなかった。
つまり、螺旋階段からは、ここ以外のどの階にも行けないということだ。
「いらっしゃい。書庫の入口に案内するわ」
そう言うと、侯爵夫人は私を部屋の奥に導いた。
突き当りの壁は分厚い緞帳に覆われていたが、侯爵夫人が傍らの紐を引くと、それがするすると上がっていく。
露わになった壁面には、両開きの引き戸があった。
それも開けると、中は直方体の小部屋である。正面に鏡が張ってあり、驚愕に目を見開いた私と、穏やかに微笑む侯爵夫人が映っている。
「これって――……」
「お入りなさい」
中に入ると、小部屋の床が、少しだけ下に沈み込んだ。
この感じ、やはり間違いない。
「扉の脇に鍵穴が並んでいるのが見えるわね? 私が扉を閉じたら、『4』と書いてある鍵穴に鍵を入れて左に回しなさい。帰りは同じようにして、鍵を右に回せばここに戻れるわ」
「わかりました」
侯爵夫人がひとつ頷き、扉を閉じる。
渡された鍵を「4}の鍵穴にさして左に回すと、がちゃりという音とともに、小部屋がゆっくりと下降を始めた。
驚いた。
まさか、この世界にエレベーターがあろうとは。
動力は一体何だろう。
〈パトリシア〉の記憶で見たかぎり、この世界に電気はまだないはずだけど……。
前世よりだいぶ速度の遅いエレベーターが、ようやく目的の階に着いたらしい。
「チン!」という音とともに小部屋が停まり、外の扉が開かれる。
そこには、色褪せた毛糸の肩掛けにくるまった白髪の老婆が立っていた。
「ようこそ、〈
言うなり、私の返事も待たず、すたすたと歩きだしてしまう。
慌ててその後を追いながら、私はあたりを見回した。
広々とした円形の室内は、床から天井までぎっしりと飴色の書架に埋め尽くされている。
あちこちに開けられた明り取りの窓と、天井から下がるランプのおかげで、室内は適度な明るさを保っていた。
紙と埃の匂いに混じって、珈琲の匂いがするところなど、まるで前世のブックカフェのようだ。
先を歩く老婆が、とある書架の前で立ち止まった。
「さ、お探しの資料はここだ。他の棚を見たいときは、あたしに一声かけとくれ」
「承知しました。あの、私はパトリシア・リドリーといいます。お婆さんのことは何とお呼びすれば?」
「リーベル」
というのが老婆の答えだった。
「書庫の番人は皆〈リーベル〉さ。それじゃ、ごゆっくり」
書棚は腰の高さのところの板が引き出し式の机になっており、近くに椅子も置かれていた。
私は「意匠法」と書かれたファイルを見つけ、それを開いて椅子に腰かける。
『第一章 総則』と書かれたページをひと目見るなり、私はげんなりとため息をついた。
ページをびっしりと埋め尽くす文字、文字、文字。
自慢じゃないけど、前世では、アプリの規約もろくろく読まず、一番下の「同意する」ボタンまでスクロールしていたタイプである。
(でも、まあ……)
フローレンス様には、いろいろ迷惑をかけちゃったし。
私は両手で頬を叩いて気合を入れると、難解な法律文書に向き合った。
長い一日になりそうだった。
◇◇◇
そのころ。
来客用のテーブルに残る二つのカップを眺めながら、フェロ侯爵夫人は物思いにふけっていた。
リドリー伯爵の令嬢に出したエスプレッソは、きれいに飲み干されている。
『私はもともとこちらのほうが好きです』
かつて贅沢品だった珈琲を少しでも安価に楽しむために、
だが、蒸気圧を利用して珈琲を抽出するエスプレッソマシンは、本来この世界には存在しなかったはずのものだ。
やはり蒸気圧を利用した
「なるほどね」
フェロ侯爵夫人は閉じた扇を口許に当てて呟いた。
「やっぱり私の思ったとおり。あの娘は転生者に違いない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます