29.残念令嬢とワルツの終わり
「……そのせつは、大変お見苦しいところをお目にかけまして……」
私は冷や汗をだらだら流して恐縮する。
目の前の老貴婦人の夫であるフェロ侯爵は、
国璽とは、国家の重要文書に押される印章のことだ。これを預かるということは、すなわち、司法・立法・行政に関する権力を一身に担うことに他ならない。
地位でいったら国王の次で、いわば首相クラスのお偉いさんだ。
私にとっては、図書館に調べものをしに行ったら、首相夫人が出てきましたレベルの衝撃なのである。
しかも、例のデビュタントの夜。
ロッドとファーストワルツを踊った私は、足首をグキッとやって転倒。こともあろうに、フェロ侯爵夫妻のお席に突っ込んでしまったのだ――。
◇◇◇
デビュタントの令嬢が舞踏会で転倒した挙句、大法官夫妻の席に突っ込むなんて、ケレス王国始まって以来の椿事である。
さすがの〈パトリシア〉も、ただ蒼褪めて涙を流し、磨き抜かれた床にへたりこんだまま、がたがた震えるばかりだった。
だがフェロ侯爵夫妻は、さすが大貴族の貫禄というか、そんな残念令嬢に対しても信じられないくらい優しかった。
「怪我はないかな、お嬢さん」
老いてなお往年のイケメンぶりを彷彿とさせるフェロ侯爵が、軽々と私を助け起こし、
「可哀想に。落ち着くまでここにいなさいな」
と、これまた往時の美貌にいささかの衰えも見せない侯爵夫人が、手をとって椅子に座らせてくれる。
それまで私たちを嘲笑っていた令嬢や貴族たちは、これを見て一斉に笑いを引っ込めた。
侯爵夫人がダンスフロアに向き直り、華やかに手を打ち鳴らす。
「さあさ。
広間の隅に控えていた楽団が、再び曲を奏で始め、フロアで棒立ちになっていた男女が、息を吹き返したように踊りだした。
「リドリー嬢!」
踊る人々をかきわけて、ロッドが慌てたように駆け寄ってくる。
だがその前に、侯爵家のお仕着せを着た従僕たちが立ち塞がった。
「通してくれ。僕はあちらの
問いかけるように振り向く従僕に向かい、フェロ侯爵夫人が、はっきりと首を横に振ってみせた。
「お黙り。大事なデビュタントをあんなふうに転ばせておいて、何のための
従僕たちが両脇からロッドの腕を取り、有無を言わさずどこかへ連れていく。
残されたパトリシアは、驚きのあまり泣くのも忘れ、ただその背中を見送るばかりだった。
その間に曲は終わり、最初のグループがフロアから
次の曲が始まったとたん、大広間がどよめいた。
ロザリンド嬢を乗せた車椅子が、フロアに滑り出てきたからだ。
椅子を押しているのは、小太りの文官らしき中年男。
男はフロアの中央まで車椅子を押してくると、その前に回り、うやうやしく腰を折ってお辞儀した。
そうして、車椅子の令嬢と中年男の奇妙なワルツが始まる。
男は車椅子の肘掛けや把手を使い、曲に合わせて巧みに旋回させていく。
そのたびに、ロザリンド嬢が膝にのせたブーケがたなびき、純白の花びらがはらはらと散る。
最初は硬かったロザリンド嬢の表情が次第にほぐれ、花がほころぶように微笑みへと変わっていく様子は、はたから見ていても感動的だった。
会場から大きな拍手が起きる中、小太りの文官が令嬢の耳に口を寄せて何事か囁く。
ロザリンド嬢は一瞬目を
ワルツはすでに終盤にさしかかっている。
と、文官がふいにロザリンド嬢を高々と抱き上げ、見事な旋回を決めたかと思うと、曲の最後の一音と同時に、そっと元の車椅子に戻した。
一瞬の沈黙。
ロザリンド嬢と文官が見つめ合い、思いのこもった会釈を交わす。
次の瞬間、大広間は万雷の拍手と喝采に包まれた。
パトリシアもまた夢中で手を叩いていたが、その傍らでは、フェロ侯爵夫妻が、怖いほど真剣な眼差しを小太りの文官に注いでいた。
「あの男が、旦那様のおっしゃっていた……?」
「そうだ。名はアルチュール・ビュフォン」
その後間もなく、アルチュール・ビュフォン準男爵は男爵位を得て外務官房に転属。
ロザリンド嬢との婚約を機に外務次官に昇進し、異例の速さで子爵に
その陰で、パトリシアのさんざんなデビュタントの様子は、次第に人々の記憶から薄れていったのである――。
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