20.残念令嬢と入学式の思い出
お洒落な建物に挟まれた、細い路地の奥の奥。古びた木のドアを押すと、からん、と真鍮のベルが鳴った。
革独特の匂いがこもる、こじんまりした店のつきあたりに飴色のカウンター。壁には鞍や手綱や、その他、私には用途のわからない様々な品物が無造作に掛かっている。
乱雑だけど気取らない雰囲気に、私はほっと息をついた。
これこれ。こういうお店を想像してたのよー。
「いらっしゃいませ」
カウンター奥の扉が開いて、革のエプロンをかけた若い女性が現れた。
ミルクティのような色の髪に、優しそうな焦げ茶の瞳。
その人は、私をひと目見るなり「あっ」と声を上げて立ちすくんだ。
「パ……リ、リドリー様」
「フローレンス様……」
彼女はフローレンス・シンクレア。
王立学院で、ほんのいっとき、パトリシアの友だちだった人だった。
◇◇◇
『誰だよ、あのでぶ女』
あれは入学式の朝。
十三歳のパトリシアは、王立学院の講堂にぽつんと一人で座っていた。
周りには、自分と同じ服を着た大勢の少年少女たち。
皆、誰かしら知り合いがいるらしく、楽しそうに笑ったり喋ったりしている。
そんな子たちの会話の中に、どうすれば入っていけるのかわからず、きょろきょろしていたパトリシアは、ふと、一人の少年と目が合った。
赤味がかったブロンドの、見るからに気の強そうなその子は、パトリシアを見るなり、尖った犬歯をのぞかせて大声で言ったのだ――。
「うっわ、すっげえでぶ! 誰だよ、あのでぶ女!」
皆の視線が、いっせいにパトリシアに集中する。くすくすという笑い声に、頬がかっと熱くなる。
どうしていいかわからなくなって、パトリシアは「うわーん!」と声を上げて泣き出した……。
(……って)
何やってんのよ、パトリシア――‼
十三歳といえば、前世なら中学1年生。
中学生にもなって人前でギャン泣きとか、マジないわ。
周囲がドン引きする様子が、目に浮かぶようだ。
だけど、さすがというか、お育ちのいい子どもたちの中には、相手の心を思いやれる優しい子もちゃんといた。
「大丈夫? どうぞ泣かないで。私のハンカチを貸して差し上げますわ」
ミルクティ色の髪を三つ編みにしたその少女は、丸々と太ったパトリシアの背中を撫でながら、優しく言ってくれたのだ……。
◇◇◇
「ん? 二人は顔見知り?」
カイル様の声に、回想が途切れる。
ミルクティ色のおさげの少女は、同じ色の編み込みを結い上げた、大人の女性になっていた。
「一年の時、同じクラスだったフローレンス様ですわ。シンクレア子爵のご令嬢の」
私の言葉に、同学年だったカイル様も「ああ!」と声を上げた。
「思い出した。久しぶりだね、シンクレア嬢」
「ご無沙汰しております、ブルクナー様。今は、フローレンス・セルドールでございます」
そう言ってお辞儀をするフローレンスの左手には、革細工の指輪が嵌まっていた。
「あいにく、主人は外に出ておりますので、私がご用を承ります」
「…………」
そっか。フローレンス様はこの店に――平民の家に嫁いだのか。
慣れた手つきで戸棚からぶあつい帳簿を取り出す彼女を見て、私は何だかしみじみしてしまった。
この国の貴族は、伯爵以上と子爵以下の間に明確な格差が存在する。
伯爵以上の貴族たちは、建国時代から王に仕えた廷臣たちの子孫であり、子爵以下はそれ以降に叙爵された、いわば新興貴族だからだ。
最低ランクの男爵位は、優れた功績を上げたり、関係部署に多額の袖の下を送ったりすれば、平民でもなれることがある。そのため家格は最低でも、それなりの地位や財産を持ち、わりあい羽振りのいい家が多い。
これに対し子爵家は、貴族の肩書こそあるものの、上位貴族ほど良い領地には恵まれず、宮廷での地位も、うまみのある官職は高位貴族や実力派の男爵に奪われて、内実はかなり厳しいらしい。
そのせいか、最近は裕福な男爵家や平民に嫁ぐ子爵令嬢が後を絶たないという……。
カイル様が、私をカウンターのほうに押し出した。
「今日のお客は僕じゃなく、リドリー嬢のほうなんだ」
「かしこまりました。どういった馬具をご希望ですか?」
私に向けられたフローレンス様の顔は、穏やかな笑みこそ浮かべているものの、同時に見えない壁のようなものもはっきり感じさせる表情だった。
ですよねー……。
フローレンス様の優しさにつけこんで、さんざん勝手なことをやらかした過去がよみがえり、私はまたもいたたまれない気分にとらわれる。
フローレンス様的には、
「え、と。実は、こういうものを作っていただきたいんだけど……」
「紐の部分はなるべく丈夫な革で、輪の部分には
説明しかけたところで、からんからんからん! とドアベルが
何事かと振り向けば、質素だがきちんとした身なりの若者が、開きかけたドアにぐったりともたれている。同時に、店内にぷんと漂うお酒の匂い。
と、若者の身体が力なく傾き、どさりと床に仰向けになった。
「イアン!?」
「あなた!」
カイル様とフローレンス様が、弾かれたように駆け寄っていく。
若者は、真っ赤な顔で床に転がったまま、呂律の回らない口調で叫んだ。
「駄目だった。訴えは却下された。工房はもうおしまいだ!」
◇◇◇
「意匠登録?」
「……はい」
セルドール工房のカウンターで。
カイル様の姿を見て、一気に酔いが醒めたらしいイアンは、フローレンス様が持ってきた水のコップを両手で抱え、ぽつぽつと経緯を話しだした。
イアンの祖父、ジャック・セルドールが王都に開いた馬具工房は、王宮勤めの騎士たちを顧客にして発展した。
その後、ジャックが王妃のために製作した女性用の鞍が貴婦人方の間で大流行。〈セルドール〉は王都の一等地に店を構えるまでになる。
ジャックが考案した鞍は、その後も改良に改良を重ね、〈セルドール〉を支える主軸商品となった。
さらに、三代目のイアンの手になる馬具一式がカイル様の目にとまり、カイル様がこれを騎士団長に推薦。王宮騎士団の制式馬具に採用され、その功績でイアンを男爵に、という話まで出たのだが――……。
「去年の今頃、突然、法廷から呼び出しが来たんです。登録済の意匠を、うちが無断で使っていると」
見せられた書類に描かれていたのは、まぎれもなく祖父が考案し、代々〈セルドール〉が作り続けた婦人用の鞍だった。
法廷で受けた説明によれば、今後、この図と同じデザインの鞍を作るには、登録者に使用料を払わねばならず、すでに納品した分についても、登録時まで遡って支払いが必要になるという。
「わけがわかりませんでした。何でうちの工房が作った商品のために、赤の他人に金を払わなきゃならんのか」
だが、書類は正規の手続きを踏んで作られており、従わなければイアンのほうが法的に罰されることになる。
「腹が立ったので、それからは婦人鞍の製作を一切止めることにしました。収入は減りますが、うちの商品は他にもあるので」
王宮騎士団から大口の注文が入ったばかりということもあり、その時点のイアンはまだ強気だった。
請求された使用料を全額一気に払い、騎士団の仕事に取り掛かったのだ。
ところが……。
「馬具一式も、意匠登録されたのね」
私が言うと、イアンはがっくりとうなだれた。
「ぐずぐずしてた俺が悪いんです。
フローレンス様が、夫の背中をいたわるように優しく撫でる。
何年も前、大声で泣いていた太っちょの女の子を撫でてくれたように。
「けど、俺はただの馬具職人で、役人じゃない。商売に困らない程度の読み書きはできても、あんな難しいお役所の書類をきちんと書いて出すなんて……そんな暇があったら、一つでも二つでも馬具を仕上げるほうがいいと思ったんだ……!」
お役所の手続きが煩雑なのは、前世もここも同じらしい。
「――にしても、困ったね」
工房からの帰り道。
ぽくぽくと馬を引きながら、カイル様が気の毒そうにつぶやいた。
「イアンが表通りの店をファインズに売ったと聞いた時には、まさかここまで困窮しているとは思ってもみなかった」
二つの意匠を登録したのはファインズ伯爵。あのジャネットの父親である。
騎士団からの大量注文は今さら断るわけにいかず、イアンはやむなく莫大な使用料を支払うことを承知した。
だが、騎士団の馬具の代金は、すべての納品が済んでから支払われるのに対し、使用料は先払いだ。
度重なる出費がたたり、資金繰りに困ったイアンは、ついに店を手放さざるを得なくなったという。
さらに、事情を知らない貴族たちは、イアンではなく表通りの〈セルドール ファインズ〉で買い物をするため、本家の〈セルドール〉の売上は大幅に落ち込んだ。
「助けてやりたいのは山々だけど、うちは全員、書類仕事はからっきしだからなあ……」
あのブルクナー騎士団長でさえ、細かい書類仕事は副官の人に丸投げだそうだ。
「法律、それもお金関係の話だろう? 財務に明るい文官の知り合いでもいればいいんだが」
「……財務?」
その途端、私の脳裏にある人の顔が思い浮かんだ。
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