13.残念令嬢、連行される
リドリー伯爵家のタウンハウスから、徒歩でおよそ20分。
リブリア河にかかる橋の欄干にもたれて、私は自家製のスポーツドリンク――水で薄めたレモン果汁に、塩と蜂蜜を加えたもの――を飲みながら、首にかけたタオルで汗を拭った。
毎朝のウォーキングを始めてから、今日でちょうど一週間。
最初のうちは屋敷の庭を歩き回るだけで動悸と息切れがしたものだが、しばらくすると身体が慣れてきたのか、少しずつ歩ける距離が伸びてきた。
おまけに、ここ数日は、途中で起きることもなく、夜もぐっすり眠れている。
そんなわけで、今日は初めて外に出てみることにした。
きらきらと川面に反射する朝日に目を細めながら、早朝の街の物音にのんびりと耳を傾ける。
カポカポという蹄の音は、騎士か巡回兵だろうか。
この道をずっと行けば王宮だし――などとぼんやり考えていたら、馬蹄の音は、なぜか私の後ろでぴたりと止まった。
「失礼。そこのおかみさん」
今日の私は、つばの広い麦藁帽子に地味な色のコットンブラウス、遠目にはロングスカートに見えるだろう、ゆったりしたワイドパンツといういでたちだ。
帽子で顔が隠れている上、パンツのウエストにぜい肉がのった立派なおばちゃん体型だから、おかみさん呼ばわりも仕方ない。
私はくるりと振り向くと、帽子のつばを持ち上げた。
思ったとおり、馬上からこちらを見おろしていたのは、巡回兵の制服を着た男だった。
男は私の顔を見るなり「あ」という顔になり、
「失敬。あー……娘さん?」
と、律儀に訂正してくれる。
「さしつかえなければ、ここで何をしているのか教えてほしいのだが」
あ。これって、もしかして職質ってやつ?
「ウォー……」
ウォーキング、と言いかけて、こっちの世界にはそんな単語は存在しないことを思い出す。
「ウォー?」
「ウォ散歩! そ、そう! お散歩ですわ!」
よっし。これなら通じるだろう。
と胸を張って答えたのに、巡回兵はなぜかますます胡散臭そうな顔になった。
「……散歩?」
(はっ。そういえば……)
私は、はたと思い出す。
この世界の「散歩」とは、上流階級の紳士淑女が、手入れの行き届いた公園や、訪問先の屋敷の庭園をそぞろ歩く行為を指すことを。
行き帰りはもちろん馬車で、服装だって、わざわざそのためにあつらえた見栄えのいいドレスやスーツを着ていくのだ。
間違っても、木綿の上下にスポドリ入りの水筒を斜め掛けして、天下の公道をぽてぽて歩くことじゃない。
「それにしては、変わった
案の定、そこを突っ込まれた。
伸縮性があり、吸湿性にも優れた
汗染みが目立たないように、色こそ地味なチャコールグレーだが、両脇に入れたマゼンタピンクの三本線が、いい感じのアクセントになっている。
前世のジムで愛用していたプ〇マやア〇ィダスなんかをイメージしたデザインだ。
だけど、この服、こっちの世界じゃかなり斬新、っていうか、有体に言って浮いてるんじゃ……。
などと、今さら気づいてももう遅い。
巡回兵は礼儀正しく、けれど有無を言わさぬ口調で言った。
「ご承知のとおり、毎年この時期は、来たる建国祭に向けて警備を強化しております。お手数ですが、詰め所までご同行いただけますか?」
てなわけで、私は王宮のほど近く、騎士団の詰め所に連行されてしまったのだ――……。
◇◇◇
「ご苦労だったな、クラウス。だが、こちらの
王宮騎士団、第三詰め所の執務室。
正面のデスクに座ったダークブロンドに
白い歯がまぶしい爽やかな笑顔に、全身無駄なく鍛えられた体つき。
どことなく前世の「体操のお兄さん」を思わせるこの男性は、カイル・ブルクナー。ブルクナー騎士団長の次男である。
「久しぶりだね、リドリー嬢」
「ご無沙汰しております。カイル様」
ブルクナー家と我が家は懇意の間柄だし、王立学院では一緒の学年だったから、お互い顔は良く知っている。
もっとも、パトリシアは学院入学から卒業まで、しっかりがっつりハブられてたから、「知り合い」以上の関係にはならなかったけど……。
「それで? どうしてあんな所にいたんだい?」
カイルの口調は、
顔良し、性格良し、おまけに家柄も文句なし。一時はお父様が私の婿にと頭を下げて頼んだものの、当然ながら丁重にお断りされたという過去がある。
私よりふたつ年上の24歳。とうの昔に婚約どころか、子どもがいてもおかしくないのに、未だに独身なのはなぜだろう……。
「部下には散歩と言ったそうだけど、あのへんは伯爵家のご令嬢が
「トレ……た、鍛錬! そう、鍛錬をしてましたの!」
トレーニングという言葉も通じないから、咄嗟にそれっぽい単語に置き換える。
――と。
きゅぴーん!
と音が聞こえそうなくらいはっきりと、カイルの瞳が輝いた。
「鍛錬! いいね。どんなことをやってたの?」
その途端、私にはわかってしまう。
(あ。この人、脳筋だ……)
◇◇◇
それから、カイルの部下の人が「隊長。すみませんが、そろそろ……」と部屋に入ってくるまでずっと、カイルと私はトレーニング談義で盛り上がった。
内容は主に騎士や兵士の鍛錬方法だ。
前世でいうところの筋トレや、有酸素運動にあたる訓練も組み込まれていて面白かった。
カイルはカイルで、私が話した体重管理の方法や、アスリートのための食事メニューの組み立てにかなり興味を持ったようだ。
「申し訳ない。君の話があまりに面白かったものだから、こんな時間まで引き留めてしまった」
気がつけば、時刻はすでに昼近くなっている。
「私のほうこそ、興味深い話がいろいろ聞けて勉強になりましたわ」
「まさか、君がこんなに楽しい女性だったとは。学院時代に、もっと仲良くしておくんだったなあ」
しみじみと言うカイルに、「あ、あら、そんな……」と引き攣った笑顔を返しつつ、私は立ち上がって暇を告げる。
「そうだ。リドリー嬢?」
「はい?」
ドアのところまで私をエスコートしてくれていたカイルが、ふと思いついたように足を止めた。
「建国祭のパートナーはもう決まった?」
建国祭。
それは、王都での社交シーズンの終わりを告げる大規模な王宮夜会である。
当日は王宮だけでなく、街中が祝祭で盛り上がる。
……のだが。
「私は、おそらく欠席すると思いますわ。ほら、今シーズンはいろいろありましたし」
あんな形で婚約破棄になった私だ。
今さらパートナーになってくれる物好きなんていないだろうし、出席したところで、どうせまたいい見世物になるのがオチだろう。
だが、カイルはなぜか心底残念そうに「そうか……」と眉を下げた。
「それじゃ、領地に戻ったら、ぜひまた
なるほど。騎士団の人たちは、社交シーズンが済んだからといって、はいさようならと王都を離れるわけにはいかないのだ。
にしても、社交辞令とはいえ、私なんかをわざわざ誘ってくれるなんて、カイルは本当にできた人だ。
そんなことを思いながら、私は、カイルが手配してくれたブルクナー家の馬車でガラガラと家路についたのだった。
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